自身の人生を振り返ったとき、「間違いなく転換点になった」と言える日が荻田さんにはある。
北極冒険家・荻田泰永さんの転機
運命の1999年7月21日、実家のリビングでゴロゴロしながらテレビを見ていた荻田さんは、トーク番組にゲスト出演していたある男性に目を留めた。
マイナス40度の極地で、食料やテントを積み込んだ100kg以上あるソリを引き、たったひとりで旅をする─。初めて見る極地冒険家・大場満郎さんの話は、「自分は何か特別なことができるはず」と根拠のない自信に満ちつつも、何も成し遂げたことがない21歳の青年の心を捉えた。特に耳に残ったのは、「来年は、大学生ぐらいの若い人を連れて、北磁極まで歩こうと思っているんです」というくだり。
「参加したい」旨の手紙を送ると、「毎月ミーティングをやっています。次はいつどこでやります」と返事が届いた。
2000年4月、初飛行機、初海外にして、ろくにアウトドア経験のないまま、大場さんを含む総勢11人で1か月以上に及ぶ北極歩き旅に出た。
ここから20年以上にわたり、極地探検という特殊なキャリアを築いていくのだが、幼少期の荻田さんは、特に目立つタイプだったわけではない。
生まれは、西部に丹沢山地が広がる神奈川県愛甲郡愛川町。自然豊かな地で荻田家の三男として育ち、山へ化石を掘りに行き、川で沢ガニをとるなどして過ごした。
「男3人なので、家の中は穴だらけ。襖なんて開けずに通れるぐらいでした(笑)。小学1年のころに初代ファミコンが出始めたので、よくゲームもしました。上の兄が星好きで、高価なものではないですが家に天体望遠鏡があり、私もそれでよく星や月を見ていました。星の本を1冊丸ごとノートに書き写したこともあります」
中学時代は、2番目の兄が陸上部だったので、「自分も同じでいいかな」ぐらいのノリで陸上部に。
「中高6年間やりましたが、専門の走り幅跳びは平凡な成績で終わりました。楽しかったんですけどね」
自分の将来について考え始めたのは大学生になってから。惰性で通っていた学校に面白みを感じられず、3年通って中退。その後、先述の北極行きへとつながっていく。
初めての単独徒歩行、そして火災
初めての北極旅から帰国した直後は、まだ夢の中にいるようだった。しかし、日常に戻るなかで荻田さんは再び悶々とし始める。このままでは以前と同じように、無目的な日々の繰り返しになると考えたのだ。
「今度はひとりで行く」
そう決めて、周囲に告げた。今まで荻田さんがやることに反対することのなかった両親は、このときも何も言わなかった。保育園のころからの友人で、現在は荻田さんのビジネスをサポートしている栗原慶太郎さん(46)は語る。
「初めて彼から大場さんと北極へ行くと聞いたときは、驚きました。それまでの彼のイメージと北極が全く結びつかなかったんです。その次にひとりで北極へ行くと聞いたときですか? 特に驚きませんでした。2回も行くほど魅力的なところなんだなと思ったぐらいです」
半年間のアルバイトで貯めた100万円を資金に、カナダはイヌイットの自治準州の村のレゾリュートへ。しかし、荻田さんはここで自分の実力を直視することになった。知識の不足、装備の甘さ、サポーターの不在……。考えた末、このときは挑戦を断念。しかし、一歩を踏み出し、世界中から極地探検を目指してやってきた人との交流は、決して無駄とはならなかった。
帰国後、3度目の北極行きで使う装備や飛行機代を捻出するため、またアルバイト生活に戻った。ガソリンスタンドにホテルの配膳、高速道路の工事、若さに任せて昼も夜も働いた。
そして、2002年には、レゾリュートからカナダ最北の集落・グリスフィヨルドまで500kmの単独徒歩行を、2004年にはグリーンランド内陸氷床2000km犬ゾリ縦断行を次々に成功させてゆく。
2007年にはレゾリュートからカナダのケンブリッジベイまでの1000kmの単独徒歩行に挑戦した。今まで完全無人の2村間を単独徒歩で通過した記録はない。
「ならば自分がやってやろう」と意気込み、110kgのソリを引いて極寒の地を行く。強風にあおられ、ホッキョクグマに遭遇しながらも、ゆっくり、確実に目標に向かって歩を進めた。
目的地まで半分の500kmを過ぎ、旅程も24日を過ぎたとき事故が起きた。テント内でガソリンが入ったボトルを落とし、火災を起こしてしまったのだ。すぐわれに返って対処したものの、ほんの数秒のうちにテントの一部が焼け、手にはヤケドを負った。そのときのことを荻田さんは次のように語る。
「北極には寒さや氷、ブリザード、ホッキョクグマといった冒険を阻害する要素が当たり前のようにあります。その地雷を踏み抜かないように準備を重ねていくので、外的要因に関して予想外のことが起きたことはありません。ただ、このときの火事は、完全に自分のせい。冒険において予想外のことを巻き起こすのは、いつも『自分自身』なんです」
徹底して自省する冒険家の言葉は、哲学者のそれのように響いた。
ゴールに着くことが冒険の目的ではない
より難しいルートを探し、ひとりで歩く。それを繰り返して10年ほどたったころ、「いつか北極点を目指せたら」というぼんやりした思いが、明確な目標に変わっていた。さしあたっての壁は資金だった。
「村から村をつなぐ冒険では、定期便を利用します。しかし、北極圏への挑戦では、滑走路もないような場所まで飛行機をチャーターする必要がある。そうすると、旅費が1ケタ違ってくるんです」
企画書と名刺を持ち、企業への飛び込み営業を1年ほど続けた。それでスポンサー契約に結びついたことは一度もなかったが、荻田さんのことを応援したり、伴走してくれる人が現れ始めた。
クラウドファンディングがまだなかった時代に、冒険の趣旨に賛同してくれる人を「サポート隊員」としてカンパを募った。結果、500人近い賛同者が集まり、なかには300万円を振り込んでくれた女性もいた。
ここで、極地探検前の準備について触れたい。
まずは、寒冷地に身体を適応させてゆく。日本からやってきていきなりマイナス40度のなかを歩けば、確実に身体が変調をきたすからだ。
装備品の選定や食料の袋詰めも大切な作業だ。単独徒歩行では自分でソリを引くため、少しでも装備を軽くしたい。歯ブラシの柄をカットするなど数十g単位で総量をそぎ落としていく。
食事はgあたりのカロリーが高いバターやチョコレート、フリーズドライの炭水化物などを用意する。岩のように凍った油脂類は、正直うまいものではない。しかし、ある日それらが猛烈に美味しく感じる瞬間が訪れるという。
「ピーナツ1粒でも大切な環境ですから、旅の途中は『帰国したら、絶対にバケツいっぱいのピーナツを食べてやる!』と思うんです。絶対やらないですけど(笑)」
日本人初の無補給単独徒歩での北極点到達を目指すべく、2012年3月2日、荻田さんは、スタート地点にあたるディスカバリー岬の海氷上にいた。
普段、大地を踏みしめている私たちには想像しにくいことだが、北極点は北極海に浮かぶ氷上に位置している。つまり、目的地まで常に流動的な氷の上を歩くことになる。
乱氷帯(海氷がぶつかり合い、せり上がったエリア)が行く手を阻み、隆起した壁が10mに及ぶこともある。オープンウォーター(海氷の割れ目が発達した開水面)が発生し、海氷破壊に巻き込まれないか不安を抱きながら眠る日もある。極めて難しいこの挑戦は、地球規模の気候変動により、年々難易度が上がっている。
そこで、遠征事務局と定時交信を行い、「北に何km行った地点に大きな氷の割れ目がある」などといった最新の情報を得る必要がある。この当時、北極遠征の事務局を務めたのが大木ハカセさん(49)だ。
「そのときの僕の仕事は、荻田くんを死なせずに帰らせること。衛星画像や気象図を取り寄せてはその分析をして、荻田くんに伝えるんです。日々、交信していると、『語尾が昨日とは違う』『話す間が早くなっているな』といったことから、彼の不安が伝わってくるんです。あのときは、いつ緊急の連絡が入るかわからないので、連絡がつかない場所に1秒でもいるわけにはいかない。地下鉄に乗らず、酒は一滴も飲まず、荻田くんと一緒に作った東京・両国の小さな事務所に寝袋を持ち込んで、寝泊まりしていました」
海氷の状態が悪化し撤退
しかし、海氷の状態は、日増しに悪化してゆく。揺れ動く海氷上の冒険は、引き際を間違えると死につながる。荻田さんは、撤退を選んだ。
2014年、荻田さんは人間世界から隔絶された極地に戻った。北極点無補給単独徒歩に再挑戦するためだ。
このときも天候は荒れた。海氷状況も悪化し、食料と体力は消耗していく。イチかバチかに賭ければ、北極点にたどり着けるかもしれない。再挑戦のために周到な準備を重ね、身体をつくり、多くの資金を集め、多くの人の協力を得てもきた。
「ただ、そのままゴールしてうれしいのだろうか?」
行くべきか、引くべきか悩んだ末、スタートから42日目に撤退を決めた。
「私の場合は、『ゴールに着くこと』ではなく、『着こうとしていること』が目的なんです。無理して這いつくばって到達したところで、それは偶然でしかない。余裕を持ってゴールしてはじめて、自分の実力と守備範囲が広がったことになると思いますし、そういう冒険をしていたいんです」
間違えることは悪いことじゃない
2度目の挑戦を終えたとき、カナダ側で長年にわたり北極海へのチャーターフライトを行っていた飛行機会社が業務を停止した。
一方で、ひたすら氷上移動をする手法の追求への飽きなのか、北極点に今までのような情熱を抱けなくなっている自分もいた。
そこで目を向けたのは、北極探検の歴史に幾度も登場するスミス海峡を単独徒歩で渡ること。そのルートは非常に難しく、多くの犠牲者を出した例もある。そこで、過去10年以上にわたってためている衛星写真を睨み、どのような理由で結氷し、いつ解氷し、最新の状況はどうなっているかを観察した。
「それまでの経験、ルートの状況、氷の状況といった材料を総合的に見て、あそこの海峡はこんな感じだろうから、トラブルが起きたらこう対処しようと何度も頭の中でシミュレーションするんです。すると、このルートは自分の射程圏内にあるというのがわかってくる。『今の自分なら行ける』と思いました」
2016年、カナダ最北にある人口100人ほどの集落・グリスフィヨルドに降り立った。そこからグリーンランド最北の村・シオラパルクを目指す。
狙った進路から外れないよう何度も手書きの乱氷地図を確認しながら進む。それでも、下りてはいけない斜面を下ってしまっていたことがある。上り返せば倍以上の時間がかかるし、無理をすればそのまま下りられなくもなさそうだった。しかし、荻田さんは、ここで元来た道を戻ると決めた。
「慎重にいけば下りられたかもしれません。しかし、間違ったルートに来ているのに下りられたという悪い前例を残すのはよくないと思ったんです。人は楽なほうに流れてしまうもの。一度でも自分の中に無理を押し通す言い訳を作ってしまうと、結果的に自分の身を危険にさらすことになります。逆に、やり直したことに結果が伴えば、『間違えることは悪いことじゃないし、そのときちゃんとやり直すことが大事なんだ』という実例を積むチャンスになります」
徹底した自制心と観察眼を駆使し、48日目にシオラパルクに到達。こうして荻田さんは、カナダ~グリーンランド間1000km単独徒歩行の世界初踏破を成し遂げた。
この時点で15回の北極行きを経験し、北極圏を9000km以上移動してきた。その経験により、未知のルートでさえ想像できるようになってきていた。
「よく、『北極を歩いているとき、何を考えているんですか?』と聞かれるんです。それは、皆さんにとって北極が非日常だからだと思うのですが、2~3か月もいると、北極が日常になっていくんです。ですから、考えていることも日本にいるときとそう変わらない。ちょっと深いことを考えるときもありますが(笑)、大抵は夕飯や趣味、『あいつ、どうしているかな』など雑多なことを考えている。私は北極で日常を過ごしているんです」
北極のことをよく知るうちに、もう一度、知らない世界への期待を胸に旅をしたいという思いが強くなっていった。
そこで、次は未踏の地・南極点を目指すことにした。「不満がないことが不満」だからと、ソリやウエアの開発にも関わった。
「冒険家なら誰もが使うノルウェー製のソリがあるんです。高性能で申し分ないのですが、それは誰かが誰かの頭の中で作ったソリであって、私は使い心地以外は何も知らないわけです。だけど自分が開発に関われば、『ここは厚めに、このパーツは薄めに作った』といった細かいところまでわかり、道具への理解が深まる。壊れた場合の直し方もわかります。僕は、冒険の道具は身体の拡張であるべきだと考えています。だから道具は自分の脳ともつながっているべき。お金で買ってきた既製品を使うことは、他人の頭を使ってリスク回避するのと同じですから」
2018年1月5日、荻田さんは、南極点無補給単独徒歩到達に成功した初の日本人となった。
冒険と読書は根底でつながっている
極地冒険を始めた若かりしころは、周りに相談できる人がいなかった。数少ない経験者を頼り、話を聞きに行った。
それから20年以上の月日がたち、気がつけば年下の若者からアドバイスを求められる機会が増えてきた。
「うれしいような寂しいような気持ちですが、そろそろ自分もそういう立場になったのかなと。そこで、場をつくりたいと思ったんです。そこに行けば先輩がいて、情報をもらえる冒険家や探検家の部室みたいな場所を」
不動産情報を見ると、ちょうど広くて手ごろな値段の物件が出ていた。それまで縁もゆかりもなかった桜ヶ丘駅前に事務所を開いたものの、わずか半年でコロナ禍に突入。
近所の小学校が休校になり、「リモートワークができない」と悩む親たちのために、子どもたちを受け入れる場所として事務所を開放した。地元の人たちと触れ合ううち、桜ヶ丘駅周辺には本屋が1軒もないことが気になってきた。
「実は冒険と読書って似てるんです。冒険は、自分の頭で考えて身を守らないと死に直結しますから、主体性が重要です。本を読み、借りてきた言葉をそのまま口にする人がいますが、それは自分の考えではなく誰かの考え。そうならないよう読書にも、本に書かれていることを参考にしながら自分の頭で考える主体性が求められる。そんなことや、自分はこの場所で何ができるだろうと考えたときに、『本屋をやればいいんだ』と思いついたんです。本を書く冒険家は大勢いますが、本を売る冒険家はいませんしね(笑)」
『冒険研究所書店』は、今夏で2周年を迎えた。扱うジャンルは、国内外の冒険家の手記はもちろん、人文科学や自然科学、民俗学に倫理、写真集など多岐にわたる。
昨年は、「言葉だけでは表現しきれないことを表現したい」と、絵本を上梓。イヌイットの言葉で、雪の中を旅する男を意味する『PIHOTEK(ピヒュッティ)北極を風と歩く』(絵:井上奈奈)は、第28回日本絵本賞で大賞を受賞した。
開店から2年が過ぎた。常連も増え、認知度も高まってきたが、気がかりもある。
「最初からわかっていたことですが、思っていた以上に世の中の人は本を読まない。顕著なのは若い人。すぐ近くに高校があって、ここは通学路なのですが、誰も入ってこないんです。『とりあえず入ってみるか』という意識もないというか、視界にも入っていないのかもしれません。しょうがないとは思いますけどね」
書店は基本的に本をそろえて客を待つ商売だ。しかし、荻田さんは「もっと攻めてもいいのでは」と考えている。生と死が近い場所にある極地を攻めてきた冒険家は、「本が売れない」といわれる時代に、何を仕掛けていくのだろう?
「毎日1000円の本を買う人は稀だと思いますが、毎日1000円のお昼ごはんを食べる人は山ほどいる。そして、1000円のパスタは食べたら終わりですが、1冊の本は何日でも楽しめるし、何なら人生を変えるかもしれない。
そう考えると本ってすごく安いんです。だけど、買わなきゃ死んじゃうものじゃないから高く感じるんですよね。もちろん、子どもに本を与える余裕がない家庭もあるでしょう。それでも本を読んでほしいし、本を読まない子どもが増えることは、長い目で見れば国力の低下につながると思うんです。だから、知識欲はあるけど、ガマンしている子どもたちに本を届ける仕組みづくりを考えているんです」
こんなエピソードがある。
ある日、店にやってきた中学生の男の子が迷わず1冊の本を手に取り、レジにやってきた。それは、フランスの社会学者で哲学者のロジェ・カイヨワによる『蛸 ―想像の世界を支配する論理をさぐる―』という本だった。
気になった荻田さんが、「なぜこの本を?」と尋ねると、少年は、授業で蛸の心臓は3つあるといった不思議な生態に触れ、気になったのだと告げた。以前、店頭で見かけたときはお金がなくて諦めたけれど、今日はお小遣いを貯めて本を買いに来たのだとも。ちなみにその本の定価は3300円だ。
「彼はその本を、読みたかったし、所有したかった。それって大事なことで、図書館ではなく、書店でしかできないこと。彼はこれから先、『蛸』に線を引こうが、ページを折ろうが自由なんです」
他人の評価を行動原理にしない
ずっとひとりで極地を旅してきた。しかし、あるときから荻田さんは、「社会と向き合う準備が整ってきた」と感じている。
その取り組みのひとつが、2012年から始まった、「100milesAdventure」だ。毎年、夏休みに小学校6年生の子どもたちを連れて、国内160kmを踏破する。小学6年生限定のため、どの子も等しくチャンスは一度きり。商売ベースで考えれば、リピーターをつくるほうが儲かるが、そうはしなかった。
募集方法もユニークだ。募集開始日を事前に告知しないのだ。そこには、こんな意図がある。
「行きたい人の熱量って個々に違っていて、30人いれば必ず1から30番目までのグラデーションがあるわけです。だったら、全員が同じ確率の抽選より、行きたい人が行ける確率が上がったほうが平等ですよね。ですから、熱心に募集サイトを見てくださっている方の参加確率が上がるよう、この方式を取っています」
2019年には、20代の若者12人を連れて、北極圏600kmを歩く「北極圏を目指す冒険ウォーク2019」を敢行した。北極の大自然を歩くなかで得たものを、社会に持ち帰って活躍してほしいという思いからだ。
この旅には、カメラマンの柏倉陽介さん(44)が同行した。いつもは単独で行く北極冒険家に同行できる貴重な機会だと思い、話が舞い込んできたときは、「行きます!」と即決した。
「このとき、荻田さんが期待していたのは、若者たちにただ後ろをついてくるのではなく、能動的な冒険をしてもらいたいということ。そこで、中間地点を過ぎたあたりで彼が若者たちに地図を渡したんです。そこから彼らが、『こっちに進もう』『ずれてきたから軌道修正をしよう』などと休憩のたびに議論して、真剣に向かう先を見定める雰囲気になっていきました。
何もできなかった若者たちが氷を割ってお湯を作り、テントをたてて、前に進んでいく姿を見て、その急成長ぶりに感動させられましたね。僕も最初は12人の名前を覚えられなかったのですが、最終的には、歩き方で誰が誰だかわかるようになっていました」
ここでの荻田さんも、穏やかな話しぶりで、日本にいるときとそう変わらなかったと語る柏倉さん。ただし、みんなでゴールしたときはどこかうれしそうだったという。
テレビで大場さんの姿を目にした21歳のときから四半世紀。就職せず極地冒険家となり、書店の店主をしながら若者にも旅の機会をつくる─。
先人のいない道を歩いてたどり着いた現在地。荻田さんは、この状況をどのように捉えているのだろう?
「別にこうなると計算していたわけではないんですけど、今こうなっていることに驚きはないです。それに、私は自分がやっていることは極めて合理的だと思っているんです。未来に何が起きるかは誰にもわからないんだし、ある日すべてがひっくり返らないとも限らないのなら、未来を先取りして不安で動けないというのは非合理的。ですから、未来をわからないまま受け止めて、勢いでやるのではなく、計算や観察や経験を踏まえて動くことが一番合理的だと思うんです。それに、自分に対して『私だったらどうにかできる』という信頼感があるんです」
荻田さんがこう語る理由は、本インタビューの序章で触れた、ご両親によるところが大きい。
「私は両親から褒められた覚えも、叱られた覚えもないのですが、『褒める』も『叱る』も親の価値に準拠した『評価』じゃないですか。つまり自分は、評価されずに生きてきたので、評価を期待しないで生きるようになったんです。
だから、子どもを全面的に褒めてあげるみたいなことは、いいことだと思わないんですよ。褒めて育てられると、他人からの評価を期待するようになるじゃないですか。ゴミが落ちているのを拾って、『周りで誰か見てる?』みたいな(笑)。私も、他人の評価を全く気にしないわけではないですが、それを自分の行動の第一義にはしない。だから、北極に行くことに関する周りの反応も覚えていないんです。周りが何を言おうが、気にしないし、聞き流してきたんでしょうね」
現代人は、答えが先にわかっていないと動けないところがある。「未知の世界に自分が対処できるだろうか?」と、不安が先に立つからだ。
しかし、未来のことは誰にもわからない。勢いで未知の領域に飛び込むのではなく、荻田さんのように徹底した自制心と観察眼を武器に一歩を踏み出せば、自分が「日常」と感じられる世界は広がっていくのかもしれない。
<取材・文/山脇麻生>
やまわき・まお マンガ誌編集を経て、フリーライター&編集者に。『朝日新聞』『日経エンタテインメント!』『本の雑誌』などにコミック評を寄稿。その他、各紙誌にてインタビューや食・酒・地域創生に関する記事を執筆。