俳優・柏木由紀子(75)撮影/廣瀬靖士

「75歳だなんて信じられない!」「おしゃれすぎる」「スタイル抜群!」。今、インスタグラムやブログを通じて話題になっているシニアといえばこの人。俳優の柏木由紀子さんだ。

俳優・柏木由紀子、小さいころからおしゃれが大好きだった

 5月に出版したムック本『柏木由紀子ファッションクローゼット』(扶桑社)は、発売前から重版がかかるほどの人気で、書店の売り上げランキングでも上位となった。「こんなに反響があるなんて思いもしなくて……」といちばん驚いているのが本人である。

 小さいころからおしゃれが大好きで、「おしゃれにはそれなりに“お月謝”を払ってきた」と自負する。20代のときにはニット製品やバッグをデザインし、自分の名前をつけたファッションアイテムもプロデュースしていた。

 しかし、夫である歌手の故・坂本九さん(享年43)が1985年に日航機墜落事故で亡くなったことで、柏木さんは長い間、遺族として注目を集めることになり、ファッションセンスが抜群であることは知られていなかった。

 75歳にしてようやく“シニア世代のおしゃれ番長”として大ブレイクを果たした柏木さん。

 SNSのおかげで柏木さんのことを知らなかった若い世代からも「あんな素敵な70代になりたい!」と憧れられるようになった。

「誰かに見せるためではなく、自分のためにおしゃれを楽しんできただけ。それがSNSを始めたことで、たくさんの人が私のコーディネートを参考にしてくださり、本まで出版できて夢のようです」と柏木さんは微笑む。

つらいときも洋服で気持ちを切り替える

 昔からおしゃれな柏木さんだったが、ファッションが注目されるようになったのはここ数年のことだ。

 長女でシンガー・ソングライターの大島花子さんからブログの開設をすすめられたのが10年前。最近はアメブロの閲覧数で女優部門1位になることも多い。

出かけない日でも、毎日コーディネートを考えて身支度する母を見てきて、その姿を誰にも見せないのはもったいないと思ったんです」と、柏木さんのSNSをサポートしている花子さんは話す。  

 2017年にはインスタグラムを開始。コーディネートを紹介しているうちにフォロワー数がどんどん増え、今では6万人を超えている。

 柏木さんはハイブランドからファストファッションまで自在に着こなし、今回の本でもスタイリストは一切使わず、すべて自前でコーディネートした。

 本を見てまず驚くのは、20代のときに着ていた服が、50年以上たった今でも着られることだ。

「私は慎重に買い物をし、気に入って買った洋服は捨てられないタイプ。体形が変わって着られなくなったら処分できるのでしょうが、昔からやせ型のままなんです。ウエディングドレスもとってあり、娘2人がそれぞれの結婚式で着てくれました」

 シンプルなニットにエルメスの華やかなスカーフを合わせるといった上品なコーディネートのほか、ジージャンやロゴニットといった若々しいファッションにも挑戦している。

「犬のお散歩に行くときは、アクティブな気分になれるお洋服を選んでいます。例えば雨の日は憂鬱になりがちですが、あえてパリッとしたお洋服を選んで、気分を変えることを意識しているんです。新聞の占い欄の“今日のラッキーカラー”もコーディネートの参考にしています(笑)」

眼鏡が洗練された印象に

 以前より洗練された印象になったと評判なのが、いつもかけている眼鏡だ。

「数年前に白内障の手術をしたので視力の面では眼鏡がいらなくなったのですが、度が入っていないダテ眼鏡を使っています。眼鏡をかけるとシワが隠れるので(笑)、外せなくなりました。今では30個くらい持っていて、フランスのラフォンというブランドのものが中心です」

 こんなにおしゃれな柏木さんだが、次女で俳優の舞坂ゆき子さんは「小さいころの母は喪服の印象しかない」と話す。事故後、柏木さんの喪服姿が繰り返しメディアで報道されたからだ。

 大きな悲しみに襲われた日々の中で、柏木さんの心を奮い立たせたのもファッションだった。

 事故の翌年、坂本さんが広島のテレビ局で担当していたクイズ番組の司会を柏木さんが引き継ぐことになった。癒えぬ悲しみと坂本さんの代わりという大役に、最初は「できません」と断った。しかし、番組スタッフから「広島は原爆のどん底から立ち直った。柏木さんにも立ち直っていただきたい」と言われ、心を動かされたという。これから、ひとりで子どもたちを育てていくためにも仕事をする必要があった。

「仕事復帰のために私が選んだお洋服はピンクのシャネル風スーツでした。お洋服を選んでいるうちに、ようやく自分を取り戻すことができました。おしゃれをすることで、少しずつ前を向いて歩いていく気持ちになれたのです」

 つらいときや悲しいときも、好きな洋服を着ると心を落ち着かせることができる。おしゃれをすることは、柏木さんの心の回復に役立った。

引っ込み思案を直すため児童劇団へ

児童劇団に入ったころの柏木由紀子。合唱団で童謡を歌っていたことも

 柏木さんのファッションの原点を探ると子ども時代にさかのぼる。

 1947年12月24日、クリスマスイブの日に東京都世田谷区で誕生した。父は印刷会社の社長で、3人姉妹の末っ子として、何不自由なく育つ。童謡を歌うのが大好きで合唱団に入っていたが、引っ込み思案な性格だったという。

「誰かに何か聞かれても、いつも恥ずかしそうにしているので、母や姉たちが代わりに答えてくれていました。そんな私を母が心配して児童劇団に入れたのです」

子どものころ、母に抱かれて。末っ子で、引っ込み思案な性格だった

 小学5年生のときに入団したのが劇団若草で、同じ時期に入団した仲間には女優の酒井和歌子さんがいる。酒井さんのほうが2歳下だが、当時から家族ぐるみで交流してきた。今でも仲良くしており、柏木さんのインスタにもたびたび登場している。

「柏木さんは小さいころからおしゃれでしたよ」と、酒井さんは当時の思い出を語る。

「小学生のときは、とても素敵なお洋服のおさがりをいただいたんです。柏木家3姉妹でおしゃれを競っていたのかもしれませんね。柏木さんは昔の洋服でも今風に着こなしているでしょ。洋服を捨てずに大事にとっておいて、その時代時代に合わせて着こなせるところがすごいなと思います」(酒井さん)

 2人は劇団に入っていながらも、芝居でなく、ファッションショーや雑誌のモデルとしての共演が多かったという。

「しっかりしているけれど、おっとりしている性格は子どものころから変わっていません。ドジっ子なところもね(笑)。近所の顔見知りの学生と思って声をかけたら、その学生のお父様だったというエピソードをインスタグラムで見たときは大笑いしてしまいました」(酒井さん)

 柏木さんは酒井さんとともにモデルの仕事をするうちに、ファッションへのこだわりが強くなっていく。

「明日学校に何を着ていこうかと考えるのが楽しくて、海外のファッション誌も熱心に見ていました。当時のお洋服は既製品が少なく、仕立ててもらう時代だったので、自分でイメージを伝えて作ってもらったり。好きなお洋服に袖を通すときにワクワクする気持ちは今も昔も変わっていません」

坂本九さんに見染められて交際1年で結婚

当時のトップスター・三田明さんの恋人役でデビュー。俳優としても活躍した

 高校2年生のときに知人から「映画に出ないか」と誘われ、俳優としても歩みだす。当時のトップスター・三田明さんの恋人役として『明日の夢があふれてる』(1964年)で映画デビューを果たした。

 ちょうどそのころ、のちの夫となる坂本さんとの運命的なエピソードがある。

「私が銀座で母の手を引いて歩いているところを主人が車の中から見ていたそうです。そのとき、隣に乗っていた俳優さんに『ああいう娘を嫁にもらいたい』と話すと、『あれは女優の柏木由紀子だよ』と教えられたんですって。主人が私の存在を知ったのはこのときです」

 当時、坂本さんは23歳の歌手で、『上を向いて歩こう』がアメリカで大ヒット。“世界の坂本九”として名をはせていた。

10代のころ。雑誌の表紙をよく飾っていた

 その5年後、ドラマの撮影現場で坂本さんと柏木さんは正式に出会う。「九ちゃんはユッコちゃんのこと好きらしいよ」とあおられ、スタッフから坂本さんを紹介された。

「相手は大スターですし、そんなふうに言われて悪い気はしませんでした。でも、主人は私に自分の電話番号を渡して、私の電話番号は聞かないんです。私にかけさせるなんて……という思いがあり、結局、そのときは電話をしませんでした」

 その後、坂本さんと会うこともなく1年が過ぎた。柏木さんが仕事で母親と一緒に大阪に行ったときのことだ。梅田コマ劇場の前を通りかかると、坂本さんがワンマンショーをやっていた。柏木さんの母は坂本さんの大ファンだったので、母のためにも「楽屋挨拶をしよう」と思いたったという。

「坂本は突然の私の来訪にビックリしていましたが、また、前と同じように電話番号をくれました。『女の子にはいつもこうして番号を渡しているのかしら?』といい感じはしなかったのですが、そのあと見たステージがあまりにも素晴らしくて。私のほうをじっと見て歌う姿に、恋してしまったのだと思います」

坂本九さんとデートの日々

最愛の夫、坂本九さんと。今も愛を感じるという

 その1週間後、連絡をとりあい、それからデートの日々が始まった。仕事が終わった後は夜中に2~3時間電話で話し、2人の恋は燃え上がっていく。交際から1年後、坂本さんは29歳、柏木さんは23歳で結婚した。

 やがて2女にも恵まれ、坂本さんの仕事も順調で、絵に描いたような幸せな家族生活が続く。

「主人は褒め上手で、お洋服でも髪型でもよいところをメモに残してくれるんです。『今日の洋服はとても似合っているよ』とか『髪型がすごく素敵だったよ』とか。毎日があまりに幸せすぎて、怖いと思ったこともありました」

 テレビ番組『なるほど!ザ・ワールド』(フジテレビ系)では、夫婦で解答者を務めた。

「夫の衣装をコーディネートするのも私の役目でした。この仕事のときは、夫婦水入らずで過ごせるのがとても楽しみだったんです」

日航ジャンボ機墜落事故で天国から地獄へ

左から長女の大島花子さん、柏木さん、次女の舞坂ゆき子さん。3人で「ママエセフィーユ」というユニットで活動することも

 1985年8月12日。長女は11歳、次女は8歳になり、柏木さんは娘たちと買い物を楽しんでいた。

 坂本さんはNHKでの仕事を終え、自宅に一度戻ってから羽田空港へ向かっている。この日は大阪の市議選に立候補した元ボディガードの応援で、大阪へ行くことになっていたのだ。

 夕方、柏木さんは自宅に戻って、子どもたちと一緒にお風呂に入っていた。先に上がった長女の花子さんがテレビを見て、「ママーッ!」と叫んで戻ってきてから事態は一変する。

 テレビでは「午後6時57分に日本航空123便がレーダーから消えた」と一斉に報じ、すべての番組がニュースに切り替わっていた。

「娘が『パパは何時の飛行機に乗っていたの?』と聞くので『6時半よ』と答えました。レーダーから消えたのは午後6時発の日本航空機でした。主人はいつも全日空機を使っていたし、6時半発だと言っていたので、日本航空機には乗っていないはずだと自分に言い聞かせていたのです」

 しかし、大阪から日本航空のチケットが送られてきていたことを思い出し、不安はどんどんふくらんでいく。ニュースではどういう状況なのかまだ何もわからず、宿泊予定のホテルに電話を入れたが、夫は到着していなかった。

 不安で震えている中、テレビのニュースでは搭乗者の名前が読み上げられ、その中には「オオシマ・ヒサシ」(坂本さんの本名)の名前があった。

 坂本さんが搭乗していたことは確実となったが、「無事でいてほしい」という気持ちがあるだけだ。翌8月13日の夜中に、レーダーが消えた群馬県に向かう。墜落したとみられる現場は御巣鷹山の山中で、柏木さんらはふもとの旅館に滞在して、坂本さんが戻ってくるのを待った。

「そのときは新聞もテレビも見ませんでした。主人が生きていてくれることをただただ念じるだけでした」

 8月16日になって、坂本さんのバッグが見つかり、警察からは「確認してほしい遺体がある」と連絡が入る。

「主人が信仰していた笠間稲荷のペンダントが胸に突き刺さっていて、それが決め手になって遺体が坂本であることがわかりました」

 あの日からまもなく38年がたつ。

「暑い季節になると、今年もあの日がやってくることを思います。私だけでなく、震災や自然災害、交通事故などで、突然、愛する人を失ってしまう人は大勢います。そういったニュースを見るたびにご家族の悲しみを思うと胸が苦しくなります。事故からしばらくは『笑顔になれる日なんて来るわけがない』と絶望的な気持ちでした。でも時を経て、笑える日が必ず来ることを信じて生きていってほしいと思います」

坂本九さんであふれるリビングにリフォーム

 今は、長女・次女ともに結婚して近くに住んでおり、男の子2人の孫もいる。

「再婚しないの?と聞かれることもありますが、今でも坂本の存在は大きく、いつも見守ってくれていると感じます。娘や孫が近くにいるので心強いですし、私にべったりの愛犬・レアもいます。十分満たされているのでしょうね」

 柏木さんが住んでいる自宅のリビングには、仏壇があり、壁には坂本さんのまばゆい笑顔のパネルが並ぶ。坂本さんの思い出の品々が並ぶギャラリーもあり、あちこちに坂本さんが感じられる家だ。

「9年前に自宅をリフォームしましたが、主人と暮らしたときのイメージを残すことが第一でした。以前は仏間があり、そこにお仏壇を置いていたのですが、みんなで過ごすリビングの、いつも見えるところに置きたかったのです」

 自宅ではいろんな友人を招いてパーティーをするが、シンガー・ソングライターの竹内まりやさんもその1人だ。

「この前は、お庭にバラが咲く時季にお越しいただきました。そのときに『ファッションの本を出したほうがいい』とすすめてくださったのですが、まさか実現するとは思ってもいませんでした」

「子役会」と称して子役時代からの女優・モデル仲間が集まることもある。小川知子さん、渡辺政江さん、音無美紀子さん、そして前述の酒井和歌子さんといった面々だ。

「この年になると話題の中心は健康です。私は1人で運動することが苦手で、情報をもらっても何もできないのですが、同世代と話をするだけで楽しく、元気になれますよね」

 黒柳徹子さんも事故の後の柏木さんを支えてくれた1人で、黒柳さんは坂本さんとも仲が良かった。

「ある時期は毎年、初詣にご一緒していました。夜中に豊川稲荷で待ち合わせをして、前にある甘味屋さんでおしるこを食べ、明け方3時、4時ぐらいまでおしゃべりをして帰るんです。いつも徹子さんが面白い話をしてくださり、笑わせてもらいました」

本来の明るい柏木由紀子を伝えたい

新旧のファッションを組み合わせた、センス抜群のコーディネートの数々 (c)冨田望

 今回の本は自宅で撮影した写真も多いが、まるでスタジオのように絵になる場所ばかりで、インテリアにも柏木さんのセンスが感じられる。

 本の制作を担当した扶桑社の池田裕美さんは、柏木さんの仕事に対する姿勢に感服したという。

「素敵なご自宅はもちろん、柏木さんのお気に入りのカフェや公園でのロケも敢行しました。狭いロケバスの中で何着もお着替えいただき、申し訳なかったのですが、ティーンのモデルさん並みにお着替えが早くて、びっくりしました。昔のロケではスタイリストさんもヘアメイクさんもいないことが多かったそうですが、ご自身でスタイリングを決められて、前日までに持ち物すべてをご準備いただくことは、さぞかし大変だったと思います」(池田さん)

 表紙がなかなか決まらず、フォントと文字色、写真を組み合わせて、40パターンほどを柏木さんに見せ、そのうえフォロワーさんからもご意見をいただいて検討を重ね、OKをもらった。

「ご自身のイメージしている世界観を表現するためには手間を惜しまない、柏木さんの穏やかながら芯のある姿勢が表れていましたね」(池田さん)

新旧のファッションを組み合わせた、センス抜群のコーディネートの数々 (c)冨田望

 洋服選びでは、柏木さんが価格やブランドにこだわっていないことにも驚いたという。

「われわれはどうしても『高いものがいい』『ブランドのものは素敵』と思ってしまうのですが、柏木さんにとっては気に入ったものはノーブランドでも、お手頃な価格でも、価値あるものなんです。逆にどんなに高くても、ブランドのものでも、好みに合わないと魅力を感じないのだなと思います。『そのものの価値』を感じ取れる感覚がさすがです。私の母より年上なのですが、膝上丈のスカートをはかれていて、似合っていることにもビックリしました」(池田さん)

 撮影時には柏木さんの意外な一面も見えた。

「あんなにスリムなのに撮影時のランチでは、揚げ物やチーズののったラザニアなどを好んで召し上がっていたのも意外です。麻雀好きというのも驚きました。本作りが終わったら麻雀をやりましょうと誘っていただきました(笑)」(池田さん)

 池田さんはこの本を通して、柏木さんの本来の明るさを伝えたかったという。

「メディアのイメージがどうしても“坂本九さん夫人”“事故でご主人を亡くされた女優さん”といった陰のあるほうにいきがちですが、本来の柏木さんは明るくてチャーミングで、おちゃめで、人を笑顔にする力のある方です。大きな事故でご主人を失って、たくさんご苦労をされてきたので、メディアに出るときはいつもその話題です。これまで出された2冊の本も事故のことを中心に書かれたものでした。でも今回の本では、これまでクローズアップされなかった柏木さんのおしゃれで華やかな部分をご紹介しています。柏木さんが前を向いて歩いてきた道のりと本来の明るいキャラクターをお伝えできていればいいなと思っています」(池田さん)

 読者からは「ファッションブックだけれども、生き方を教えてもらえる本です」「私のバイブルです」「毎日読んで元気をもらっています」といった声が届いているという。

「サイン本を販売している書店さんもあったのですが、1~2日で完売してしまって……。何度か追加で書いていただいています」(池田さん)

 出版記念のファンミーティングを開いたが、1回では入りきれず、2回の開催となるほど大人気だ。

「ファンの方が大勢来てくださり、北海道や九州からも駆けつけてくださって本当にうれしかったです」

熱心なファンたちとの交流に驚きと感謝

俳優・柏木由紀子(75)撮影/廣瀬靖士

 イベントではファンとの交流を楽しんだが、この時期、深刻な目の不調を抱えていたことをあとで告白している。

「突然、見るものが二重になってしまい、前がはっきり見えなくなったんです。片方の目ずつ見れば見えるのに、両目にするとよく見えない。合っていない眼鏡をつけているような違和感で、お湯をカップに注ごうとしても、カップからズレてこぼしてしまっていました」

 眼科では異常が見つからず。大学病院の神経眼科にかかって原因が判明した。

「動きを司る筋肉である上斜筋の力が片方の目だけ抜けてしまっているとのことでした。その筋肉を動かす滑車神経の麻痺により、両目で見るときにうまく焦点が合わなくなってしまったのです。自然と再生するけれど、2、3か月を要すると診断されました」

 無事に治ったものの、「このまま治らなかったらどうしよう」という不安と、大好きな車を運転できないストレスにさらされていた。

「そんなときも本やSNSの読者の皆さんとの交流が何よりも力になり、改めて感謝の気持ちでいっぱいになりました」

 最近では柏木さんのファッションをまねする人が続出するという現象も。さらに柏木さんのヘアスタイルは“由紀子巻き”と呼ばれ、美容院で同じヘアスタイルをリクエストする人が増えているという。

「髪の毛のボリュームがないのがコンプレックスで、巻き髪でふんわりと見せています。自宅では、アイロンではなく、昔ながらのホットカーラーで巻くのがポイントなんです。グレイヘアも素敵ですが、私はブラウン系のお洋服が好きなので、グレイヘアだと合わないかなと思い、カラーリングは続けていきます」

 ファッションやヘアスタイルだけでなく、柏木さんが行きつけのお店にもファンが訪れる。

「新宿の伊勢丹が好きで、いつも休憩するお店があるのですが、インスタグラムにアップすると、遠方からもファンの方がいらっしゃっていました。最近では愛犬レアのトリミングをまねしましたという声をいただき、あまりの自分への注目度についていけない状況です(笑)」

 本人は突然の“由紀子旋風”に戸惑いも覚えているが、柏木さんのファッションは一朝一夕で完成したものではない。

 柏木さんのおしゃれを小さいころから見てきた長女の花子さんは次のように話す。

「簡単に選んでいるようにみえて、コーディネートを常にアップデートし、練っているので、ファッションセンスは努力と時間をかけて培ったものです。母の努力家でまじめなところを尊敬しています」(花子さん)

 おちゃめで明るく、ファッションが大好きな“素顔の柏木由紀子”が世間に知れ渡ったことに、その素顔を誰よりも知っていた亡き夫がいちばん喜んでいるに違いない。

「生きていれば夫は81歳です。本が届いたときは、真っ先に主人の仏前に置いて、報告をしました。75歳になってファッションブックを出したなんて、びっくりしているんじゃないでしょうか(笑)」

 何歳になってもおしゃれを楽しめること、イキイキと過ごせることを柏木さんは教えてくれる。今、悲しみの淵に沈んでいる人も、どん底を経験した柏木さんの元気な姿に勇気をもらえるに違いない。

<取材・文/垣内 栄>

かきうち・さかえ IT企業、編集プロダクション、出版社を経て、'02 年よりフリーライター・編集者として活動。女性誌、経済誌、企業誌、書籍、WEBと幅広い媒体で、企画・編集・取材・執筆を担当している。

 

最愛の夫、坂本九さんと。今も愛を感じるという

 

最愛の夫、坂本九さんと。

 

最愛の夫、坂本九さんと。今も愛を感じるという

 

左から長女の大島花子さん、柏木さん、次女の舞坂ゆき子さん。3人で「ママエセフィーユ」というユニットで活動することも