'22年7月、投資トラブルに巻き込まれたことが発覚し、芸能活動の一時休止を余儀なくされた、TKO木本。騒動から1年、再始動までの道のりと今の思いを明かす―。
投資トラブルのその後
'22年7月、総額6億円規模の投資トラブルに巻き込まれたことが報じられたお笑いコンビ・TKOの木本武宏。同年7月23日に、当時、所属していた松竹芸能を自身の申し出で退所した。
先に事務所を辞めていた相方の木下隆行とともに記者会見を行い、今年1月、新たなスタートを切った。トラブルはその後、どうなっているのか。
「FXのトレーダーからは、コンスタントにお金の返済がされています。毎月、期日より早いこともあって、今のところは、誠実に約束を守ってくれていますね。不動産投資のほうもすごく具体的に話が進んでいるところです」
騒動によってテレビ出演などの仕事を失い、家から外に出ることもできない日々が続いたが……。
「それでも捨てたもんじゃないと思っているのが、マスコミなんです。最初は本当に、ネット記事に苦しめられたんですよ。自分からまだ否定も釈明もできない状況の中で、事実と異なる記事が出てしまったりして……。
でも、それがなかったら事態は動かなかったんですよね。もし報道がなかったら、逃げられたままやったかもしれない。僕の件に関しては、僕もきつかったですが、逃げてたやつらのことも報道で追い込んでいただける結果になったんです」
報道によってトラブルの発端となった相手との連絡が取れるようになり、解決の糸口が見え始めたという。
「芸能人って“vsマスコミ”“vs週刊誌”で、僕も先入観で、記事に常にドキドキしながら生きてきました。でも、こういう経験をして、実はその影響力に助けられることもあるんだと実感しましたね」
活動再開までには、多くの芸人たちが支えてくれた。
「どの人って名前挙げるのが申し訳ないぐらい、ほんとにたくさんの人にお世話になりました。千原ジュニアや、サンドウィッチマン、よゐこの有野(晋哉)さんとか……。プライベートでも仕事の面でも、多くの方々にたくさん助けていただきました」
“余計なことするからや”って怒ってくれた師匠とは
松竹芸能の大先輩は、木本を叱りながらも……。
「最初に“余計なことするからや”って怒ってくださったのが(笑福亭)鶴瓶師匠でした。“笑いだけしとったらええねんって言うたやろ”とも。そして“嫁さんに心配かけやがって。おまえなんかどうでもええねん! 大丈夫なんか、嫁さんは”って言われて。
その夜は“頑張れって言葉も言われへんわ、アホらしい。もういいです、もう今日は電話切ります”って切られたんですよ。で翌朝に“寝れたか?”って電話をくださって。“いや、寝れませんでした”って言うと“そりゃそうやわな。で、飯は何食うてんねん。ちゃんと食わなあかんよ”って、食料を送ってくださいました」
同じ道の先を歩く“先輩”も。
「活動をもう1回しようとなったときに、さらば青春の光の森田(哲矢)がすぐに連絡くれて“個人事務所のことだったらいろいろ経験してきてるから、なんでも聞いてくださいね”と言ってくれました。あいつはそういう、実は優しいとこあるんですよ。
ちょっとしたことを相談し始めると、あれもこれも……となってしまうから、今のところ具体的に相談はしてないんですけど、大きな壁にぶち当たったときは“森田兄さん”に相談しようと思ってます(笑)」
昨年11月に亡くなった渡辺徹さんも、木本を支えた1人だ。
「徹さんには、30年近く可愛がっていただいていました。僕らやサンドウィッチマン、ナイツ、ますだおかだなど、芸人のことをすっごく愛してくださって。それで、'15年に『徹座』っていう1年に1度のお笑いライブを立ち上げはったんですよ」
そんな中、相方の木下が後輩にペットボトルを投げつけるなどのパワハラをしていたと'19年に報じられ、'20年に松竹芸能を退所することに。コンビでの共演はできなくなってしまった。
木下の退社後にコンビで呼んでくれた大物俳優
「そんなときでも『徹座』には呼んでいただいて、“木下がいないなら、一緒に司会しよう”と声をかけてくれました。そのときから、徹さんはとにかく“木下ともう1回コントしなさい。それまで待ってるから”って」
その後、木下を事務所に復帰させるべく奔走したが、昨年、木本も退所した。
「徹さんが父親みたいに、いろんな芸人に“木本としゃべってあげて。木本は今こんな状態だから。安心して”って言ってくれていて……。みんなが集まるときには“いい投資案件あるんだけど”と、笑いにしてくださったり。
僕らがいない場所でも、みんなの中に常に僕とか木下を存在させてくれました。僕には“とにかく待ってるから。大変だろうけど、コンビが復活する日を何年でも待つから”と言ってくれて」
食事に行く約束もしていたが、叶わないまま徹さんはこの世を去った。
「親しい人だけが、葬儀場に安置された徹さんに会うことができました。特別に誰もいない時間帯に“TKOで会ってあげて”と呼んでくださって。そのときにやっと、徹さんのところにコンビで行けたんですよ。
“すいません、徹さん。こんなタイミングで、コンビでやっと来れました”って。それが、本当につらくて。横たわっている徹さんにお会いできて、つらかったんですけど、それすらなかったら、きっと、もっとつらかった……」
お別れの会にも、コンビで参列した。
「会場に着いたら“反省”って書いたTシャツを用意してもらっていて、それを着ました。セレモニーが終わると、タレントやスタッフなど、業界の人たちがいらっしゃる中に呼ばれて、そこに郁恵さんも来てくださって。
徹さんに向かって、“『徹座』ファイナルに、TKOも出していいですかー?”と、関係者の方が呼びかけると、郁恵さんが“いいよー! 徹が言ってるー!”って。それで、9月にやっと、徹さんがずっと待ってくださっていた“コンビ”で、『徹座』に出ることになりました」
TKOは現在、47都道府県を巡る全国コントツアーの真っ最中だ。
約5年ぶりのネタづくり
「今はまだ“僕たちを使ってください”って売り込む時期では絶対にないなと。でも、ライブなら自分たちで場をつくることはできる。で、目の前でお会いして、自分たちを見てもらうってことがいちばん、“こういうやつらなんだな”って伝わりやすいかなって。
正直、初めてですね。純粋に“見てください”っていう気持ちになれているのは。ツアーを中心に、とにかくネタを作っていく年にしようと思ってます」
木下とのネタ作りは、約5年ぶりだという。
「最初のころはぎこちなくて手探りやったんですけど、かみ合い出してからは、ネタ作りを純粋に楽しめてますね。
昔は2人とも、打ち合わせとか、稽古とか、行くのが嫌なタイプやったんですよ。でも、今は遅刻することもなく集まって、集中して、気がついたら5~6時間たってるみたいな日々ですね」
いったいなぜ、全国をくまなく回ることにしたのか。
「今まで、僕たちって東京と大阪でしか単独ライブをやったことがありませんでした。でもそれって、それ以外の場所に住んでいる人には、そこまで見に来てくれっていうことじゃないですか。でも今は“自分たちから出向きますので、見に来てください”という姿勢を大事にしようと思って、47都道府県でライブをすることに決めました」
地域によってチケットの売れ行きには差があるが、自ら足を運んで手売りもしているそう。
「1年かけてコントツアーを回ることによって、絶対に、自分が変わると思ってるんですよ。昔みたいにお笑いのことしか考えてない頭にするためには、お笑いのことしか考えられない日々をつくるしかないので。そのためにツアーをしてるっていうのも、本音ですね。
僕も木下も、ほんとに欲にすぐ流されるだらしない2人なんで、自分たちで流されへん環境をつくろうと思ったらそうするしかなかったんです」
今後はどんな活動を?
とにかくどんな仕事でもやっていきたい
「今もしょっちゅう、2人でネタ合わせをしているんですが、デビューしたばかりのときの気持ちを、体感的に思い出したんです。ただただ“ネタを作りたい”っていうだけで毎日一緒にいたときのような……。そこは軌道修正できてるなって、はっきり思います。
ただ、ネタをやるだけでは生活できないのが現実ですから、今後はネタをやり続けるために、他に仕事をして収入をつくっていく。それがもしアルバイトでも、とにかくどんな仕事でもやっていきたいです」
最後に、相方への感謝を口にした。
「ツアーとかネタ作りとか、木下がいなかったら無理だなって、コンビを組んでから初めて思ってますね。これまでは、木下は“ボケ”担当やし、僕は4人兄弟の長男で、木下は4人兄弟の末っ子ということもあり、いろんなことは俺がやるから、木下は自由に、という関係でした。
ネタをやる以外のことは、“木本やっといて”という感じやったんです。でも、今はそんなことひと言も言わないです」
以前までは木本が担当していた映像編集の技術も身につけ、YouTubeの編集作業もほとんど木下が行っているという。
「“木本はやることあるやろうから、これ俺やる”と、僕に負担をかけないようにしてくれます。木下に支えられているなんて、こんなこと、今までなかったですよ(笑)。
もうちょっと、木下のことをいじって笑いにもしたいんですが、それもはばかられるぐらい。谷底にも、ちっちゃい宝石が落ちてました。まあ、傷を舐め合ってると言われたら、それまでなんですけど(笑)」
地道な活動が、日本中を“TKO”させるかも!?