「物心ついたときには、2K風呂なしの都営アパートで祖母と2人暮らし。大正生まれの祖母は、礼儀作法や言葉遣いに厳しい人でしたね」
そう語るのは、1980年代『スクール☆ウォーズ~泣き虫先生の7年戦争~』などの大映ドラマで一躍スターとなった松村雄基さん(59)。18歳から約20年間、祖母を介護した。
芸能界と学業をしながら、祖母を介護
中学2年生のときにスカウトされ、祖母からの「やってみなさい。ダメならばやり直せばいい」という後押しもあり、高校2年生でデビュー。俳優業が忙しくなってきた翌々年、泊まりがけの撮影へ向かう前日、祖母が脳梗塞で倒れてしまう。
「一命は取り留めましたが、半身まひと言語障害の後遺症が残り、1人ではトイレに行くこともできなくなりました」
仕事と学校、介護にと追われる毎日が始まる。家を空けるときは、近くに住む叔母に祖母を見てもらい、帰宅すると交代していたという。
「トイレに連れていったり、理学療法士さんに教わったリハビリを一緒に試したりしていましたね。介助より、思うように身体が動かずイライラした祖母と衝突するようになったことがつらかった。僕も未熟で余裕がなくて……」
また、当時の自宅には風呂がなく、4階から祖母をおんぶして、近所の銭湯に連れていっていた。祖母の生活は昼夜が逆転しがちになり、夜に「何か話をして」と頼まれることも多かったそうだ。
「よく昔話をしていました。話をしていると、祖母の顔が穏やかになるんです」
翌日が撮影のときは、祖母相手にセリフの稽古をしていたという。ただ、このころは『スクール☆ウォーズ』の撮影中。不良役だった松村さんは、祖母に向かって「バカヤロー」や「コノヤロー」、それでも笑って聞いていてくれた。
21歳で祖母と共に風呂のあるマンションに引っ越す。同じマンション内に稽古部屋を借り、セリフの練習をするようになって3年ほどたったころ、警察署から「祖母を保護している」と連絡が入る。
「部屋に僕がいないことに気づき、捜しに出て戻れなくなってしまったんです。思えば、認知症の症状が出ていた。そのとき、もう1人にできないなと思いました」
それでも2年間は2人で頑張ってきたが限界が訪れる。そして、叔母一家に同居を頼み、叔母と叔父、従妹との5人暮らしを始めた。
「夜間は僕と叔母、叔父の3人交代で祖母の隣に布団を敷いて寝ていました」
そのころには、祖母はほぼ寝たきりの状態。数時間おきに体位交換やオムツ交換、便秘のときは指を入れてかき出すなどをしていた。
苦しいと公言することは、情けないことじゃない
「認知症が進み、気に入らないと子どものように駄々をこねる祖母の様子がショックで、叱りつけてしまうことも」
優しくできず、自己嫌悪に苦しんでいたという。4人で介護を続けて1年超。自宅介護に限界を感じた松村さんらは、ある決断をする。
「叔母たちと暮らして介護をしても、24時間、祖母と向き合っていると、身内なので感情のぶつけ合いになってしまうんです。このままだとお互いによくないと、プロのサポートの必要性を感じました」
その結論が特別養護老人ホーム(特養)への入所だった。大好きな祖母を特養へ入れることに悔しさや情けなさなど、さまざまな葛藤があったが、その背中を押したのは、祖母のひと言だった。
「祖母に話すと、『いいよ。おばあちゃん行くよ』と優しく言ってくれました」
特養に入ってからも、松村さんは3日に1度は会いに行き、散歩や食事の介護をした。入所から10年後、祖母は眠るように亡くなる。
「僕はやれることを精いっぱいやったので後悔はありません。祖母と2人で暮らしていたころ、布団を並べて語った時間は幸せでした。今も忘れられない温かい思い出として僕の中に残っています」
しかし、それは周囲の助けがあったからできたと語る。
「叔母たちに愚痴を言ったり、ねぎらい合うことができたことと、当時の事務所も僕たちに理解があって仕事を続けられたことが大きかったです。もし、常に祖母と一緒で、助けてくれる人がいなかったら、逃げ場がなくて耐えられなかったかもしれない。都営アパートでは近所の人が料理をお裾分けしてくれたり、孤立感はありませんでした」
時代の変化とともに近所付き合いもどんどん少なくなってきたが、助けてくれるはず、と松村さんは話す。
「思い詰めず、つらいことは『つらい』と言ったほうがいい。苦しいと公言することは、情けないことじゃないですよ。自分の夢を諦めず、できる範囲で精いっぱい、後悔しないようにやってほしいと思っています」
(取材・文/オフィス三銃士)