「一度だけ、死んでやろうと思ったことがあるの」
と、萩本欽一は言う。20代後半、コント55号の人気が絶頂のときだ。週刊誌にあることないこと書き立てられ、事実を話しても記事にはならない。精神的にまいった。やけくそになり、「死んで抗議してやろう」と熱海の錦ヶ浦まで行き、崖から飛び降りようとした。
が、死ねなかった。
運があったから引き返した
「ビビって引き返したのは、自分に“運”があったからだろうね」
『広辞苑』を引くと、【運】は「人知・人力の及ばないなりゆき」と出ている。しかし萩本は、自らの「意思」による運の使い方で人生は変わると話す。
「世の中、悔しいことがいっぱいあるでしょ? 腹も立つよね。だけど、腹が立った相手に対して敵を取ってやろうと思うと運がなくなるの。夫婦ゲンカもそうだよ。“アンタなんか嫌い!”って言うから殺伐として仲が悪くなる。“アンタなんか、いま嫌い!”って言ってごらんなさいよ。いつでも元に戻れるから。それが大人の会話。運をなくさないって、そういうこと」
幸運も、不運も、人には同じだけ訪れる。その運に逆らうことなく自身の人生を歩んできたと萩本は言う。
「80代になってもコメディアンでいられるんだから、幸せすぎだよ。だけど、その人生を自分の力で切り開いてきたっていう実感はないから、偉そうなことは何も言えない。自分の生き方をひと言で表せば、“ダメな奴ほどダメじゃない”ということになるかな」
コメディアンを目指すもまさかのクビ宣告
「人生に“夢”は持たなくてもいいと僕は思ってるの。夢を持つとね、ガンコになって生き方が窮屈になっちゃう」
逆説的だが、それは自分の夢を次々に体現してきた苦労人だからこそ至った境地かもしれない。
コメディアンになる─という夢を萩本が抱いたのは中学3年生のとき。憧れたのはチャップリンとエノケン(榎本健一さん)。'59年、高校を卒業すると浅草の東洋劇場の門を叩いた。洋服が買えず、まだ学生服を着ていた萩本に、劇場の支配人は言った。
「何かできるのか?」
「何もできないです」
「できないなら、タダな」
給料はゼロ。それでも夢への第一歩を踏み出したと萩本は思った。とはいえ、舞台の上に芸ナシの若僧の居場所はない。できる仕事は掃除くらい。それからしばらくして、萩本は支配人から呼び出される。そして、怒鳴られた。
「おまえか、コノヤロー! 誰も頼まねぇのに朝早く来て掃除してるっていうじゃねぇか。そういうのはエライんだ! 来月から3000円」
思いがけない給料の提示。
「大人の世界ってスゲーなと思ってね。3000円の給料をイヤイヤ払うっていうのが支配人の顔に出ててさ(笑)。だけど、自分が掃除してたのを誰かが見ててくれたとわかったときは、うれしかったね」
見習い同然でも、ギャラをもらえばプロである。端役ながら舞台にも出るようになった。そして3か月後。今度は劇場の演出家に呼ばれた。
「“今日でおしまい”って、僕ね、クビを宣告されたの。才能がないのは自分でもわかっていた。舞台に出てセリフを3つもらうと、1つは言えるんだけど、アガって、震えて、あとの2つが言えなくなる。レビューのときに踊れば、リズム感がないから踊り子さんたちの足を引っ張っちゃって、“坊やと一緒に踊りたくない!”って言われる」
だが、そこで夢は終わらない。ほどなくして戻ってきた演出家が、萩本に告げた。
「欽坊、続けろ」
クビは撤回。その理由を、萩本はあとから知った。
「劇場の座長格だった役者の池信一さんが掛け合ってくれてね。“今どきあんなに元気よく返事をする子はいない、その返事だけで置いてやってもらいたい”って。僕ね、高校時代にレストランでアルバイトしてて、お客さんから注文を受けると“ハイ”じゃなくて、厨房まで聞こえるように“ハイヤァーッ! カレーライス一丁!!”って、大声で返事してた。その調子で劇場の楽屋でも“ハイヤァーッ!”って返事してたから、それが生きた(笑)」
一番やりにくい相手とコンビを結成!?
演出家から諭されたときの言葉を、萩本は今も忘れられないという。
─この世界で仕事をしていくのに大事なのは、知らない人がファンになってくれることだ。おまえみたいにダメな下手クソでも、近くで見ていた池さんはファンになって応援してくれたんだよ。ひょっとすると欽坊は有名になるかもしれない。だから自分からやめるなよ─。
「そう言われたときは……、ホント、泣けた。あのときクビにならなかったのは、自分の力なんかじゃなくて、いい人たちと出会えた“運”のおかげ。夢が叶うには物語があってね。自分一人で作る物語ってのはセコいの。成功の物語は、人が絡んだときにデカくなるんだよ」
東洋劇場でコメディアンの修業を積んだ萩本は、'63年に22歳で『浅草新喜劇』を設立した。22歳で劇団を旗揚げしたエノケンの人生に触発されてのことだ。約20人の団員たちとコントを演じているうちに、テレビ局から声がかかる。
「いよいよ有名になっちゃうのかなとドキドキしながらテレビのエキストラの仕事とかやってたんだけど、怒られてばっかりで、3年やっても有名になりそうもない。歌番組の公開放送で生CMの仕事をもらったときも、19回トチって即クビになるし」
'65年。TBSのドラマ『楡家の人びと』の仕事が入る。エキストラではなく役者としての起用だった。演出家はヒットメーカーの大山勝美さん。千載一遇のチャンス。ところが、3日間かけて収録した自分のシーンは放送ですべてカットされていた。
「腹は立たなかった。納得だよ、今の自分にテレビは無理だなって。後年、床屋さんで大山さんとバッタリ会ったとき、“あのときは申し訳なかった、ずいぶん恨んだだろ?”って謝られたの。だから僕も自分の気持ちを正直に伝えた。“とんでもありません、あれがあったから先に進めたんです。大山さんは僕にとって恩人です”ってね」
テレビの仕事に挫折した萩本は、浅草に戻った。原点回帰。ただし、チャップリンやエノケンのようなコメディアンになるという大きな“夢”は描かなかった。
「夢じゃなくてね、浅草で一番になろうという目標をつくったの。だけど自分の才能ではそこにも届かないだろうってんで、目標を目的に下げて、面白いコントを作れればいいやと思ったら気持ちがラクになった」
'66年。気負いなく、自分らしく「笑い」を追求する萩本に幸運が訪れる。きっかけは、浅草の先輩芸人である坂上二郎さんからの電話。マージャンに誘われ、牌をつまみながら自分が考えたネタを話しているうちに、二郎さんからコンビで演じる話を持ちかけられた。
「二郎さんとは東洋劇場にいたころにフランス座の舞台で一緒になったことがあって、一番やりにくい相手だった。だから“やろうよ”と言われても、絶対に組みたくなかったんだけど、“イヤだ”って言えなくてね。男女でいえば、いきなり結婚じゃなくて、とりあえず同棲って感じで浅草松竹演芸場に2人で出してもらったら、これがウケちゃった」
二郎さんの「次は?」という言葉に押されて2本目のコントをやると、またウケた。ウケるたびに「次は?」と聞く二郎さんに、萩本は書きためたコントを引っ張り出す。3本目もまたまたウケた。
同棲中のコンビに正式な名前はない。「名なしの権兵衛じゃ困る」と、劇場の支配人が王貞治選手のホームラン記録(55号)にあやかり勝手にコンビ名をつけた。こうして「コント55号」は誕生した。
「コント55号は二郎さんが運をくれたんです。“アンタと組むのはイヤだ”って、本音を言わなかった自分はエライよね(笑)。言葉って大事。イヤだとか、ツラいとか、そう感じたところに運はある。否定的な言葉ばかり使っていると、運は逃げていくんだよ」
コント55号から視聴率100%男に!
舞台狭しと動き回るコント55号の面白さをテレビ業界も放ってはおかなかった。'68年にはレギュラー番組も獲得。そこには萩本に新たな運をもたらす人との出会いがあった。
「フジテレビの『お昼のゴールデンショー』のプロデューサーが常田久仁子さんで、“キレイにやって”と言われたときはビックリした。だって、舞台の笑いは動きやすいダブダブの服を着て、髪も振り乱してやってたのに、“笑ってもらえなくてもいいからキレイに”って……。コメディアンとしての自分が女性の目にどう映るかっていうことを初めて意識させられたの。“欽ちゃん”というキャラクターは、常田さんが作ってくれたようなものだよ」
身体を張った泥くさい笑いをキレイに演じる。下ネタは一切やらない。“欽ちゃん”の愛称とともに、萩本は女性たちからも好かれるコメディアンになった。
一方で、テングにもなった。
「オレは有名人だからって、革のコート着て、ブーツ履いて、サングラスかけて、ロレックスの金時計をはめて、いい気になってたよなぁ」
テングの鼻は簡単にへし折られる。「有名人になって何がしたいの?」と問うたのは放送作家だった青島幸男さん。萩本は、「芝生の庭がある赤レンガの豪邸を建てたい」と得意顔で答えた。
「そしたらさ、青島さんは“つまんないねぇ”って言うわけ。“オレなら、エジプトのピラミッドよりも高い墓を作る。1センチでも高ければ世界の歴史の教科書が変わっちゃうんだぜ”って言われたときは、金のロレックスで喜んでいた自分がみっともなく思えた。だから僕、家は建ててないんだよ。後に買った神奈川県の二宮町の家は築25年の中古だもん(笑)」
欲望や快楽を満たすことに運を使うと…
欲望や快楽を満たすことに運を使っていると、肝心なときに使える運がなくなる。今ある運も、いつまでも続くわけではないと萩本は言う。
'70年代に入ると、二郎さんは役者としても活躍し始め、萩本も『スター誕生!』(日本テレビ系)などの司会の仕事が増えていく。コント55号の快進撃は止まったが、まだ自分には運が向いていると萩本は思っていた。
「もう55号は終わり、オレはアメリカへ行ってチャップリンと肩を並べる喜劇王になるんだって、夢を抱いちゃったんだね。その気になって英語の家庭教師までつけてさ」
アメリカのエンターテインメントに精通していた『スタ誕』の井原高忠プロデューサーに夢を語ると、「アメリカから呼ばれてるの?」と、逆に質問された。
「いえ、自分から勝負に行くんですって答えたら、アメリカってところは世界中の優れ者が呼ばれて行く国で、お呼びでないやつが行ってもツラい思いをするだけだと言われて。で、呼ばれるような番組を自分で作ればいいじゃないかって、井原さんは僕の夢を目標に下げてくれたの。番組を作るのはテレビ局の仕事だろうって思ったんだけど、帰ったら車だん吉がね、“大将がアメリカへ行ったらコント55号の名前は日本のお笑いの歴史に残るけれど、萩本欽一の名前は残りませんねぇ”って言うんだよ。弟子のくせに、生意気に(笑)」
ここで終われば笑い話。しかし、人が絡めば物語はデカくなる。世話になったフジテレビの常田さんに萩本が笑い話をすると、「じゃあ名前が残る番組、作ってあげる」と物語は急展開。萩本も「パジャマ党」を立ち上げ、放送作家の育成に乗り出した。
「そこから生まれたのが『欽ドン!』なの。当初の番組名は『萩本欽一ショー 欽ちゃんのドンとやってみよう!』で、僕の名前が2つも入っていた」
コメディアンの名前がついたレギュラー番組は日本初。『欽ドン!』('75年・フジテレビ系)は高視聴率を叩き出し、萩本は目標を達成した。「ウチでもぜひ冠番組を」という依頼が他局からも相次ぐ。だが、もともと演じ手である萩本にとって、作家集団を育てながらの番組作りは苦労が絶えない。「ガツガツしないで手堅くいこう」と思っていたときに、作家の野坂昭如さんと雑誌で対談した。
「野坂さんの自宅に呼ばれて行ったら、ご本人が裸足で迎えてくれてね。“ウチの女房、欽ちゃんのファンなんだよ”と言うわけ。でさ、奥さんがお茶を持って部屋に入ってきたら、野坂さん、“そうそう、それでいいんだよ”って偉そうにソファにふんぞり返って、奥さんがいなくなると、“ごめんな、今のポーズだから”って(笑)。僕ね、野坂さんにホレちゃった」
ホレた相手が発する言葉は心地よく魂を揺さぶる。
「欽ちゃん、なんでもっとテレビに出ないの? タレントっていうのは、毎日見ていてもイヤにならない人のこと。オレ、欽ちゃんがテレビに毎日出ててもイヤじゃないよ」
それは萩本の成功物語を大きく膨らませたひと言。堅実路線を変更し、萩本は攻めた。『欽ちゃんのどこまでやるの!』('76年・テレビ朝日系)、さらに『欽ちゃんの週刊欽曜日』('82年・TBS系)と新たな冠番組がスタート。『欽ドン!』とともに30%超の視聴率を合算して、萩本は「視聴率100%男」と呼ばれるようになった。
それでも、自分の力で切り開いた人生とは思っていない。
「『欽どこ』のときは必ず稽古場の窓を開けてた。稽古はいつも20回はやっていたから、“これだけ稽古しています”っていうのを神様に見てもらおうと思ってね。よくさ、努力は人が見ていないところでやれっていうけど、それじゃ運にならないの。というのは巨人軍の長嶋(茂雄)さんを研究してわかった。ただ三振しただけならお客さんに失礼だからってんで、長嶋さんはヘルメットを飛ばす練習をこっそりしてたでしょ? そういう伝説って、誰かが見ていたから広まるわけよ。
僕にもね、“テレビ業界で最初にピンマイクを使った”という伝説がある。そしたら日テレの井原さんが“オレのほうが先に使ってた”って苦笑いしてたけど、残念ながらその事実を伝える人が周りにいなくて、僕にはいたわけね。だから努力をするときは、少しだけ誰かに見られるスキマをあけておく。運を与えてくれるのは、どこかで自分を見ている人なんだから」
“ダメな奴”であるがゆえに、助けてくれる運を大切にし、その使い方を萩本は意識するようになった。例えば、どんなにモテても色恋のために運は費やさない。「欽ちゃんはオンナ遊びをしない」というのはテレビ業界では有名な話。その理由は、もうひとつあった。萩本には心に決めた女性がいた。東洋劇場で踊り子だった3歳年上の澄子さん。18年越しの想いが叶って結婚したのは'76年のこと。その後、3人の息子を授かった。
「“好きなだけ仕事してこい”と言って、スミちゃんは余計なことは言わずに温かく僕を応援するファンでいてくれた。ひと言で表すと“情黙”の人。僕が気持ちよく仕事してこられたのは、スミちゃんのおかげですよ」
萩本の結婚運は、自他共に認める「最強」であった。
運を味方に“欽督”として日本一に
テレビ業界に衝撃が走ったのは'85年。萩本は「休養宣言」を出し、ほとんどのレギュラー番組をやめた。いい運はいつまでも続くわけではない─ということを萩本が肌で感じたのは、番組の会議で周りから反対意見が出なくなったことだった。それは、自分が作る物語に人が絡まなくなったことを意味した。
萩本は活躍の場を舞台や映画に求めた。目指したのは、かつて東洋劇場で培い、自身のコントの源流になった軽演劇。その萩本に、「脚本を書いてください」と頼みに来たのが歌手の前川清だった。
「前川くんはね、『欽ドン!』のときに僕が呼んだの。コメディアンって昔は歌手よりも低く見られていたから、親しく話せる歌手の友達が欲しくてね。前川くんを見たときに、こいつなら騙せそうだと思ってさ(笑)」
『欽ドン!』に出演した前川は、クールな二枚目歌手の殻を破り、三枚目キャラの芝居で新境地を開いた。そのきっかけをくれた萩本を「恩人です」と前川は述べる。
「萩本さんには脚本とともに出演もしてもらって1か月公演をやらせていただきましたけれども、気が抜けませんでした。稽古して、面白い場面を作り上げたら、普通はそれを1か月繰り返すでしょう? ところが、それを萩本さんはアドリブで日々変えていくんです。つまり、今日ウケた笑いに満足せずに、明日は違う笑いを作ろうという芸に対する真摯な姿勢といいますかね。だからもう毎日が恐怖でしたよ(笑)」
前川は、共演した松竹新喜劇の重鎮・小島慶四郎さんから、「前川さんの間は、欽ちゃんの間でんなぁ」と言われたこともあった。
「『欽ドン!』のときから萩本教室に育ててもらって、そのおかげで私はここまでやってこれたんだなと、しみじみ感じましたよね」(前川)
前川だけでなく、斉藤清六、見栄晴、小堺一機、関根勤、風見しんご、小西博之、柳葉敏郎、勝俣州和……。いわゆる“欽ちゃんファミリー”として、萩本の下で才能を開花させた芸能人は数え上げたらキリがない。さらに、“師”としての萩本の教えは、スポーツ界にも及んだ。
'05年、クラブ野球チーム「茨城ゴールデンゴールズ」を結成して監督となった萩本は、「野球は運だ」と唱え、「3年で優勝する」という公約を実現してみせた。
「地方遠征でホテルに泊まったとき、選手は豪勢な食事を楽しんでいるかと思ったら、“試合前に運は使いたくない”と言って、みんなでカレー食ってたの。それ見たときに、このチームは優勝するって確信したよ」
ゴールデンゴールズでは、プロで日の目を見なかった選手たちが「クラブ日本一」の栄冠を手にした。“運”とともに人生を歩んできた萩本は、いつしか自分の周りにいる人たちに幸運を届ける存在になっていた─。
みんなが集まれる記念碑のようなお墓を
'15年。73歳になった萩本は大学を受験した。動機は「ボケ防止」。社会人特別入試枠で合格したのは駒澤大学仏教学部。キャンパスでは、当然ながら目立つ学生だった。同級生となった黒田敬仁さんは言う。
「欽ちゃんは僕のばあちゃんと同い年でした。1年生は体育の授業があるんですけど、欽ちゃんは大丈夫だろうかって、孫みたいな気持ちで心配してました(笑)」
萩本が選択した体育の科目はゴルフ。これならやれた。が、授業をやる古い校舎は4階建てで階段しかない。
「“オレ、死んじまう!”って言いながら欽ちゃんが階段を上っていたので、荷物を持ってあげたんですよ。それがきっかけで仲よくさせてもらうようになって」
と話す黒田さんは、栃木県にある光真寺の息子。しかし、寺を継ぎたかったわけではなく、入学当初は勉強に身が入らなかったという。
「凹んでいたときに、欽ちゃんから“人生は運だよ、いい運も悪い運も半々、悪いときを辛抱していれば運はたまってくる”と言われて、凹んでいないで欽ちゃんみたいに頑張ろうって思ったんです。で、試験のときに欽ちゃんが“100点取れないならテストに行かない”と言い出したことがあって、つい“僕が教えますからテスト受けましょう”って言っちゃって、自分も勉強せざるをえなくなった(笑)」(黒田さん)
萩本は、「クロちゃんのお母さんから礼を言われたよ」と微笑む。黒田さんは寺を継ぐ意志を固め、勉強に励んだ。萩本もまた優等生だった。授業には必ず出席。100点は取れなくても成績は常に上位。講義では自分よりも年下の先生にしばしばツッコミを入れ、教室を明るく和ませた。
単位を取って卒業するのが目的ではなかった。'19年春、まだ身体が動くうちにお客さんを喜ばせたいという理由で萩本は大学を中退。コメディアン魂に衰えはない。軽演劇の公開オーディションなど、物語は新たな局面に進む。
最愛の妻との別れ
その姿を応援しながら、最愛の妻・澄子さんは'20年8月に命を閉じた。
「お葬式は家族だけでやれってスミちゃんは言ってたんだけど、形としてお坊さんは呼んだほうがいいって次男が言うの。都合よく近くのお寺に大学の同級生がいて」
それが神奈川県伊勢原市三ノ宮にある能満寺の住職・松本隆行さん。
「欽ちゃんの言葉って、禅の教えとシンクロするところがたくさんあるんです。よく運の話をされますけど、仏教では運を強くするといった考え方はありません。でも、欽ちゃんの“いい運は続かない”といった話は、ひとつのことに執着しないという教えに通じていて、大学で学ぶ以前から欽ちゃんは禅的な生き方をしてきたのかなと思います」
と話す松本さんは、澄子さんの葬儀で驚く光景を目にしたという。
「最後にお別れをするとき、欽ちゃんは澄子さんの足を撫でたんですよ。一瞬、おやっと思いましたが、私はすぐに摩訶迦葉の話を思い出しました」(松本さん)
摩訶迦葉は釈迦の十大弟子の一人。釈迦が亡くなり、火葬するときに火がつかずに困っていたら、摩訶迦葉が旅から戻り、釈迦の足を撫でたら途端に火がついた─。
「仏教では五体投地といって、頭、両膝、両肘を地面につける、もっとも丁寧な礼拝の仕方があるんですが、あれは仏様の足を持ち上げて拝むという意味なんです。欽ちゃんが澄子さんの足を撫でたとき、それは大切な人を拝む自然な形なんだという気がしました」(松本さん)
萩本は言う。
「僕ね、お葬式では手を合わせないし、顔も見ない。足を撫でて、“また会いたいね、元気でね”って、普通の会話をするだけ。見ている人は変なやつだと思うだろうね。だけど、亡くなった人たちは僕の中でいつまでも生き続けると思っているから、“さよなら”はしたくないの」
自身の死に対しても、萩本は同じ思いを抱いている。お墓は能満寺の末寺である龍池山高岳院に建てると決めた。
「お墓というより記念碑だよ。仏陀の教えって、勉強してみたらそんなに厳格なものじゃなくて、もっと気さくでいいと思ったの。お墓だってね、いろんな人が集まる場所のほうが楽しいじゃない? だからみんなで入れるお墓を考えた。入りたい人は誰でも一緒にどーぞ(笑)」
記念碑とともに祀られるのは、澄子さんをモデルに仏師が彫った「情黙弁財天」。境内には甘味処があり、春には桜の花で満たされる。そんな新名所の計画が、少しずつ進んでいる。
「いつか僕が死んでも、会える場所は作っておきます。でも、手は合わせないでね、笑顔で手を振りに来てほしいからさ」
人を楽しませる欽ちゃんのアイデアは涸れることを知らない。コメディアン・萩本欽一の夢の物語。人が絡み続ける限り終わりはない。
<取材・文/伴田 薫>