橋田壽賀子さんの死から2年余りが過ぎた。その葬儀をめぐって、泉ピン子の発言が注目されたのは昨年のことだ。
朗読劇の会見で「費用は35万円」「お経は自分があげて戒名もなし」などと質素さを強調。また「海に散骨してくる」としつつ「気がついたら(遺骨を)食べていた」とも語った。
その後、関係者から「何から何まで出まかせばかり」だとする反論も飛び出し、真相はうやむやに。今年も同じ朗読劇の会見が8月17日に行われたが、ここではこんなことを口にした。
「“あれ、これ、それ”で通じた橋田先生が亡くなっちゃったから。寂しいわね」
橋田ドラマ以外では
たしかに、彼女にとって「橋田先生」はかけがえのない存在。出世作も代表作も橋田ドラマだ。
例えば、'81年のNHK大河ドラマ『おんな太閤記』では豊臣秀吉の妹役に起用された。せんだみつお扮する夫との仲を兄に引き裂かれ、悲劇的な死を遂げる役どころだ。まるで「ロミオとジュリエット」みたいな悲恋をせんだとピン子でやるという発想もすごいが、橋田ドラマでなら彼女もジュリエットになれる。
一方、橋田ドラマ以外ではいまひとつパッとしないという現実も。これは世間の下世話さを面白おかしく描くというモチーフに、誰よりハマる女優が彼女だったからだろう。逆に「先生」亡き今、女優・ピン子の需要はほとんどないともいえる。
ただ、彼女はもうひとつの才能、いや、異能を持っている。ある程度の年代以上の人なら、女優になる前の彼女を覚えているだろう。
講談師的な本質
1975年『テレビ三面記事 ウィークエンダー』(日本テレビ系)のリポーターとしてブレイク。この番組は世間の下世話なニュースを面白おかしく紹介するもので、彼女は下ネタを得意にしていた。
もともと、浪曲師の父を持ち、自身も歌謡漫談家としてデビューしていたので、世間話を面白おかしく語るのはお手のものだったのだ。いわば、女優である前に講談師的なところがあり、そのほうが本質だったりもする。
それゆえ、ちょくちょく「口は災いのもと」的な騒動を起こすし「女が嫌いな女」的アンケートでは、和田アキ子とともにツートップとして君臨。また「男が怖がる女」としても存在感を示してきた。えなりかずきとの共演NG騒動はまさにその典型だ。
「(ピン子と)一緒に出るとえなり君は発疹が出たり、おかしくなるんですって」
と「橋田先生」にバラされ『渡る世間は鬼ばかり』(TBS系)ファンをも敵に回してしまった。
そんなピン子のことを「先生」はどう思っていたのか、実はよくわからない。
とはいえ、興味深いのは、NHKの朝ドラ『春よ、来い』('94年)が「先生」の自伝的作品として制作された際、ピン子がチョイ役でしかなかったことだ。主役の安田成美が途中で降板したり、その後を中田喜子が引き継いだりしたが、ピン子にやらせればよかったのではという声も出た。あるいは、女優としての彼女の資質を知る「先生」だからこそ、自分の人生をあまり下世話に演じてほしくなかったのかもしれない。
そして死後には、彼女の講談師的資質によって「遺骨」騒動も起きることに。「先生」も草葉の陰で苦い顔をしているのではないか。
ちなみに、先述の会見では「死ぬまでに仲直りしたい人は?」と聞かれ「ない!」と言い切った。「橋田先生」の長台詞ではなく、ピン子は気の向くままの言葉を自由にしゃべり続けていくことだろう。
ほうせん・かおる アイドル、二次元、流行歌、ダイエットなど、さまざまなジャンルをテーマに執筆。著書に『平成「一発屋」見聞録』(言視舎)『平成の死 追悼は生きる糧』(KKベストセラーズ)。