ブロガー・ショコラさん(67)撮影/山田智絵

 これは、インターネット社会が生んだシンデレラストーリーかもしれない。

 ブロガーのショコラさん(67)である。60歳になるまで無名だった。しかし2016年、還暦を機にブログを始めたことで、人生が一変した。

シニアブロガー『60代一人暮らし 大切にしたいこと』

「備忘録のつもりで書いたブログが、こんなに読まれるなんて、思ってもいませんでした」と苦笑い(撮影/山田智絵)

 ブログのタイトルは『60代一人暮らし 大切にしたいこと』。ハンドルネームはチョコレートが大好きだからショコラにした。

「誰かに読んでもらおうという気持ちはなくて、備忘録、日記のつもりで書き始めたんです」

 ヤフーオークションで買った洋服や小物のこと、ひと月12万円で生活する暮らしぶり、断捨離したこと、図書館で借りた本の感想などを書くうち、“シニアブロガー”として雑誌にたびたび取り上げられることに。

 '19年、『58歳から日々を大切に小さく暮らす』(すばる舎)という本を出版すると10万部を突破、2作目の『65歳から心ゆたかに暮らすために大切なこと』(マガジンハウス)も増刷を重ねている。

 以来、雑誌、ネット記事だけでなくテレビにも登場し、ブログのページビュー(PV)数は爆上がり。最高で月間60万PVを記録した。少し減ったとはいえ今も50万PV前後をキープしているという。有名ブロガーの証だ。

 なぜ、ショコラさんは人の関心を集めるのだろう。前記『65歳から心ゆたかに暮らすために大切なこと』の編集者・広瀬桂子さん(61)は言う。

ショコラさんは“スーパー一般人”だからだと思います。月12万円で暮らすというのも、ちょっと頑張れば自分もできるかもしれないと思える。おしゃれも高いものは買っていないのに、趣味がいいから素敵に見える。

 また、“普通”の一般人は、本当は必要なんだけど面倒くさがったり先延ばししていることを彼女はきちんとやっている。例えば将来のことを考えて厚生年金をもらえる会社で働いたり。それを当たり前のように淡々と布石を打っている。そこが“スーパー”なんです。だから参考になるし、刺激を受けたり惹きつけられたりする人が多いのだと思います」

 取材の日に着ていた服も素敵なものだったので、どこで買ったのかを聞くと、

「トップスは4年前の6月、メルカリで3800円で買ったマックスマーラ・ウイークエンドの中古です。このスカートは珍しくリアル店舗で買った新品。一昨年夏、近所のアーケードにあるお店で見つけたんです。4900円。素材は麻とコットンで、涼しいんですよ」

 安いけれど、ただ安いものを身につけているようには見えない。節約はしているけれど、それが貧しそうにも見えないし、ツラそうにも見えず、ちょっとした遊び感覚で楽しんでいるように映る。

 両立が難しいことをさらりとやってのける─そんな“スーパー一般人”の人生の軌跡をたどっていきたい。

月々12万円でも“やるべきこと”は外さない

「5年前に載せていただいた『素敵なあの人のシングルライフ』のときと、ほとんど変わっていません」と言うショコラさんの自宅マンションでインタビューが始まった(撮影/山田智絵)

《冷蔵庫が壊れました》

 2016年のクリスマス。ショコラさんは、街角が華やぐ聖夜に似つかわしくない投稿をした。ブログ開始宣言から1時間後、実質的な本格投稿の一発目である。

「気に入っていた冷蔵庫だったんですよ。レトロでテレビドラマにも出てきそうな。メーカーに問い合わせたら修理に4万円もかかると言われて。いちばんお金がないときなのに買い替えなきゃというのが悲しくて、そんな気持ちを忘れないようにと思って書いたんです」

 ショコラさんのブログはいつもこんな感じで、肩に力が入っていないから、読む側の頭にすっと入ってくる。自慢をすることはなく、意見を主張することもない。日々の営みを淡々とつづっている。

 ショコラさんがもっとも注目されたのは、ムダをギリギリまでそぎ落とした生活スタイルである。

 住居・電気・ガス代など固定費が約6万円、食費約2万円、その他友人と外食する費用が含まれる趣味娯楽費、美容・医療費、被服費などが約4万円。

 月々12万円で、どうやりくりしているかがブログで具体的に明かされる。おしゃれも大好きで、洋服は買うが、前記したとおり、ヤフオク!やメルカリでよい状態のものを買っている。100円ショップでも、使ってみると意外とよい老眼鏡や、一人暮らしには使い切りやすい少量の容器に入った調味料などを上手に購入している。

「ヤフオク!やメルカリ、100円ショップは気にはなるけど、なんとなく不安で遠ざけていた人にとっては役立つ情報になっているようです」

 節約ばかりが注目されるが、ブログには、高校時代の友人やSNSコミュニティーのメンバーとのランチ会などで、2000円を超えるメニューを楽しむ様子が書かれている。

「それ以外はブログでは書けないぐらいつましい食生活を送っているので(笑)。でも親しい人たちと会うときには解き放たれたようにバン!と美味しいものを食べます」

 反応がうれしいのは、図書館で借りた本の感想を書いたときのコメント。

「フォロワーの方が、“私はこんな本を読んで面白かった”とおすすめの本を教えてくれるんです。読書の幅が広がって楽しい」

 あとはママチャリで銭湯やレトロ喫茶店を巡ってはたくさんの写真で紹介する。

「どれもお金をあまり使わなくても楽しめるから、お出かけガイドとして楽しんでくださっているフォロワーの方もいます。自転車で走った翌日は疲れて、使いものになりませんけどね(笑)」

時にハッとさせられる投稿も

 楽しい投稿の中に、時にハッとさせられるものもある。前述した年金以外にも、健康診断や歯のメンテナンスを定期的に受け、さらには防災グッズなどを整えたり……。やるべきことを彼女はしっかり実行に移している。

 それにしても、これだけ私生活をさらけ出すことに、ためらいはないのだろうか?

「面識のない人に読まれるのって全然平気なんです。絶対に読まれたくないのは、パートなどの勤務先の同僚ですね。このバッグをメルカリで買ったとかは知られたくないんです」

 それもあってブログでは、特定されるような顔写真を掲載しないようにしている。

 さてブログを始めてひと月最大23本の記事をアップするなどして読者を増やしていると、取材依頼が舞い込むようになる。ブログを始めた翌年の'17年にはネットニュースから。'18年には、宝島社から『素敵なあの人のシングルライフ』というムックの取材依頼。

「印刷物に出るのは初めての経験だったのでワクワクして書店に行ったんですが、目次を見てびっくり。作家の曽野綾子さん、料理研究家の松田美智子さんといった有名人に交じって、“パート ショコラさん”と紹介されていたので(笑)。そのとおりなんだけど“パート”という肩書が妙に恥ずかしかったですね」

 しかし知名度が上がることで、厄介事に巻き込まれる場面もあった。ブログや著書には自分の住まいが特定されるようなことは書いていないけれども、掲載した写真や文章に、近所の人にはわかるものがあったのだろう。

「ネット上に、自宅を特定されるような内容が書かれてしまったり、ややストーキング的なニュアンスもあったりしたので、さすがにそれは正式なルートを通じて削除してもらいました。書き込みは消えても怖いし、落ち込みましたね。もうブログは書けないかなっていうところまで追い込まれて、しばらく休むことにしたんです」

 '22年4月22日のことだ。突然の休筆宣言で、寂しがったのはフォロワー。
《夜寝る前にベッドの中で読むのが楽しみでした》《続けてください》という書き込みが毎日のようにあった。

「最初はあまり読者のことを考えないままブログを始めましたが、書き込まれたコメントを読みながら、あらためて、私のブログはこれだけの人に楽しんでいただいていたんだということがわかりました。誹謗中傷みたいなことをしているのはほんの一握り。そんな人のために休んだり、やめようとするのは負けだと思って」

 約20日間の休みを経て、《読者の皆様お久しぶりです^^》という書き出しでリスタートした。

“気遣いの人”でも、わが道を行く生き方

「確か、小田原の海だったと思います」と言う弟と妹と一緒に写真に収まった幼少期のショコラさん

 ショコラさんが生まれたのは1956年2月、神奈川県横須賀市である。長女で、下に妹が1人、弟が2人。父親は大手鉄鋼メーカーの関連企業に勤務していた。妹の康子さん(仮名・63)は、

「母はキムタクや韓流スターが大好きなミーハーなんですけど、父はお酒が弱くて、ギャンブルもやらない、まじめで優しい人でしたね。怒るようなことはあまりなくて、母が“叱ってください”と頼んでも、“まあいいじゃないか”というのが父の口癖でした」

 ショコラさんもお父さんに似て優しい。妹と一緒に旅行すると、眺めのいい窓側を譲ってくれるのだという。

当時、新しく横浜にできたマリンタワーを見に行った5歳のころ

 高校の同級生・菅原ひさこさん(仮名)に聞くと、こんなエピソードがあるという。

「50代前半、仲良し4人組でハワイを旅行したことがあったんです。私たちはダイヤモンドヘッドに行く予定なのに、1人がショッピングセンターでお土産を買いたいと言い出して。彼女が不安そうだったので、ショコラさんが付き添ってあげていましたね。本当は私たちと行きたかったらしいんだけど」

 10代のショコラさんは、恋愛やファッションに興味のある、ごく普通の女の子だった。菅原さんによると、「好きな先輩がいるという理由で少しの間、写真部に入っていた」という。また妹の康子さんによれば、グループサウンズ全盛期に、姉妹でザ・タイガースにハマったそうだ。ただ、康子さんとは推しのメンバーが異なり、

「私は王道のジュリー(沢田研二)だったんですが、姉はドラムのピー(瞳みのる)に声援を送っていました」(康子さん)

 高校のもう1人の友人・野中由紀さん(仮名)もこう話す。

「みんながある方向に行くと私も……と同調しがちですけど、彼女は周囲の意見に惑わされなかったです。物怖じせず自分の意見をちゃんと示せる、心の強い人でしたね」

 ファッションには目がなかった。欲しい洋服があるとバイトして買うだけでなく、高校時代は被服部に入部し、ジャンパースカートやワンピースを自作することもあった。

 将来はスタイリストかデパートなどのショーウインドーを飾るデコレーターになるのが夢だった。が、いざ就職となると現実的になり、都内の不動産会社へ。当時は今のショコラさんからは想像がつかないほどの浪費家だった。

「実家に3万円を入れる以外は、クレジットカードをいっぱい使って、洋服やバッグなどを買うことがありました。貯金の意識なんてまったくなかったですね」

自営業を営む彼と結婚

外資系化粧品メーカーでラウンダーパートとして働いていた30代後半のころ

 淡い恋もしたが、結婚を決めたのが自営業を営む彼だった。'80年、24歳のときだ。寿退社し、翌年には長男が生まれ、さらに年子で次男を出産。

 子育てに追われる毎日。幸せだった反面、外に出て働きたい。そこで始めたのがパート。32歳、次男が小学校に入学するタイミングだった。

 採用されたのは有名製薬会社。仕事は指定されたエリアのドラッグストアなどを回って、商品紹介や陳列棚のチェックをする“ラウンダー”という営業職だった。

「新卒で入った会社では事務職だったんですが、接客業も任されることが多く、苦手じゃなかったので、営業に抵抗感はありませんでした」

 自宅から直行直帰だったので、子どもを学校に送り出してからの時間を活用しやすかった。月6万円ほどの収入だったが、ノルマはないので精神的に楽だし、自分が稼いだお金で洋服を買えるのが楽しかった。

48歳のころ、社員旅行で行ったバンコク・アユタヤの遺跡でのカット。バリバリ働き、成績はうなぎ上りだった

 それ以降、日用品メーカーや大手化粧品メーカーでも、ラウンダーを担当した。仕事は順調だったが、夫との間に隙間風が吹き始める。

「性格の違いなどがハッキリしてきて、口ゲンカが絶えなくて。私が理屈で反論するので、夫はそれにイライラして、かなりひどいことを何度も言われました」

 小学校のPTAで知り合ったママ友・立野慶子さん(仮名・70)が、当時からいい話し相手だった。

「会うと99%、お互いの夫の愚痴でしたね(笑)。彼女、まじめだったから、ちょっとした癒しになったり、ストレス発散になったりすればと思って、飲みに誘ったことがありました」(立野さん)

 立野さんは愚痴を言いながらも結婚生活は続けてほしいと思っていたが、ショコラさんは、別居を決意する。

 ただ、その選択は大人の都合を子に押しつけることになる。「かわいそうだな」「悪いな」と思う気持ちが先に立ち、言い出せなかったが、次男が高校に入学し、夏休みに入ってしばらくしたころ、息子たちに胸の内を明かした。

“通い母”をしてつくり上げた「母子タイム」

「家にはもういられないから、出ていこうと思うんだけど」

 長男の久志さん(仮名・42)は驚いたが、当時夫婦ゲンカが多くなり、うまくいっていないことは気づいていたので、やっぱりとも思った。ただ、「一緒に家を出るか」と聞かれたときは少し考えて、

「家に残る」

 と答えた。久志さんは、

「家を出るのがちょっと怖かったというか、環境が変わるのがイヤだったんです」

 次男も同じ意見だった。

 ショコラさんは、息子たちが冷静に受け入れてくれたことがうれしかった。表情などから子どもとの信頼関係は揺らいでいないことが感じ取れた。もしかしたら子どもとの仲をつないでくれたのは、ごはんかな、と思った。

「中学生にもなると、家のごはんを食べない子がいる中で、うちの子はいつも一緒に食事をしました。高校生になってバイクで外に遊びに行っても、夕食の時間にはちゃんと帰宅して一緒に食べていた。食事を通して私たちの信頼関係が育まれたのかもしれません」

 ショコラさんは考えた。

「息子たちには栄養バランスのよい手作りのものを食べてほしいし、精神的にもまだ子どもだから寂しい思いをさせたくない」

 そこで婚家の近所にアパートを借りることにした。ママ友の立野さんに相談すると、友人の不動産会社経由で、徒歩15分の場所に物件を見つけてくれた。

 愛車のシビックに、日用品や洋服、家具などを積めるだけ積んで家を出た。'99年のことである。そこから3年間の「通い母」生活が始まった。

 仕事を終えて買い物をし、婚家に直行して夕方6時~6時半ごろに到着。休憩なしで即料理に取りかかる。次男は早く食べたいから積極的に手伝ってくれた。ようやく座るのがごはんを食べるときだ。

 食べながら、今日あったことを語り合う。こんなことがあったんだよ、こんなことも……と言っては笑わせてくれる。家を出る前とあまり変わらない光景である。

 食事が終わったら、次の日のお弁当作り。朝ごはん用にパンやコーンフレークなどを買うこともあったが、食べるかどうかは自由。合間に洗濯や掃除をして家事が一段落したら、子どもたちと一緒にテレビを見たり話したりして過ごす。アパートへ帰るのはいつも11時過ぎだった。久志さんが当時を振り返る。

「母が家を出る前後で違ったのは、同じ屋根の下で寝ているかどうかぐらいでしたね。学校の三者面談などには母が来てくれていましたから、いなくなっちゃった感じはほとんどなかったです」

「母子タイム」に、夫が顔を出すことはなかった。ショコラさんが当時を振り返る。

「仕事で疲れているのに、よくやったなと思うけれど、ごはんを待っている子どものためという張り合いがあったからでしょうね。子どもが私を支えていたのだと思います」

離婚後の人生設計

 一人暮らしのアパートは、花屋の2階にあった。店の定休日は静かで寂しかったという。否が応でも一人で生きていくことを考えてしまう。そのころからショコラさんは、離婚後の人生設計を念頭に行動するようになる。

 まずパートからの卒業。パートはいつ雇用契約を切られるかがわからない。ボーナスもないし年金がないケースも少なくない。どうせなら社員として働きたいと考えて、就職先を探していたところ、契約社員として入社できる会社が見つかった。有名ではないが、パートのキャリアを認めてくれる化粧品会社だった。別居した翌年、43歳のときに入社した。

 次に住まい。子どもたちがアパートに遊びに来ることもあったが狭い。経済的に少し余裕ができたこともあり、引っ越しを考えるようになる。

 そこでまたママ友の立野さんが活躍した。新聞チラシから入手した「お買い得物件」の情報をショコラさんに伝えたのだ。立野さんによれば、

「最初は彼女、迷っていましたね。でももうご主人のところには戻る気はなさそうだったので、私が“ここを買えば路頭に迷うことはないから。絶対に買わなきゃ”と強引にすすめたんです」

 1LDK、価格は2000万円弱。ちょうど正社員になったタイミングだったので、ローンが組めた。80歳まで返済を続けるプランに一抹の不安を覚えつつも、2003年に購入した。同じ年、離婚もしている。次男が成人したことも理由だった。

お金と仕事に一喜一憂して下した、ある決断

 実はそれ以前にも大きなヤマがあった。元夫の仕事の状況が悪くなり、息子2人が通う大学の授業料が支払えなくなったのだ。長男の久志さんは、

「大学をやめなきゃいけないかな、と相談したんですが、お金は気にしないでと言ってくれました」

 2人とも塾も予備校も行かず、独学で大学入学を果たした。親としては、その努力を無にしたくなかった。実母にも一部援助を受けながら何とかお金をかき集めた。

 しかし金は天下の回り物。息子を無事卒業させた苦労は、10年近く後に報われることになる。元の舅が亡くなった際に発生した遺産に関して、一部がショコラさんにも分与されることになったのだ。それを提案してくれたのが、久志さん。当時彼は法律の勉強をしていたのだ。

「母がマンションのローンの繰り上げ返済で大変な思いをしているのは知っていましたし、大学の授業料もキツいのに支払ってくれたので、その感謝の気持ちもありました。提案すると父も快く、“いいよ”と言ってくれたんです」(久志さん)

 実は当時、ショコラさんは久志さんからこう言われたことを覚えている。

「ケンカに、どっちだけがいい・悪いってことはないよ」

 長男にそうした深い洞察力、バランス感覚があったから、父親も財産分与を快く承諾してくれたのかもしれない。

 いずれにしても、それが繰り上げ返済に拍車をかけ、ショコラさんは、56歳のときにマンションのローンを完済できた。しかしこの時期、仕事の面では岐路を迎えていた。

 大手化粧品メーカーを向こうに回し、ショコラさんは販路拡大を図っていた。ドラッグストアへの商品説明、ポップ作り、肌診断、店の化粧品担当者への研修も担当した。そうした努力が実って東京営業所は売り上げを伸ばした。その実績を買われ、'11年には東京営業所長に昇進した。

「でも自分の売り上げが自分の首を絞めたんです。皮肉ですね。高い売上目標を設定され、夜遅くまで働かなければならなくなったんです」

 ついに体調を崩してしまう。検査を受けると子宮の前がん状態だという。このままではいけないと思ったショコラさんは、平社員に降格させてほしいと申し出た。

 降格は認められた。しかし周囲の社員が元所長に接しづらそうな雰囲気を漂わせている。当然、ショコラさんも居づらくなる。すると今度は帯状疱疹に見舞われた。

 体力の限界を感じ、退職を決断した。そのとき57歳。

 あと3年我慢していれば退職金は満額支給される。57歳でやめたら退職金は半減。一見損だと思うのだが、

「ハローワークに行くと、50代後半向けの求人が結構あったんです。60歳を超えてから仕事を探すよりも有利だということがわかりました」

 再就職先は呉服問屋。ショコラさんは着物に興味がなかった。しかし考えた。

「まったく未経験の仕事のほうが、前の仕事の経験が邪魔をしない」と。

 立場はパート。フルタイムで最初は月10万円、のちに12万円になった。ただ、パートを始めて数年後から仕事への取り組み方を徐々に変えている。つまり「仕事の終活」である。

退職し、手に入れた自由時間の使い道とは?

 60歳になると企業年金を月5万円もらえるようになるので、連日フルタイムで働く必要はなくなる。さらに65歳になれば老齢年金の支給が始まり、そこに厚生年金を合わせたら、仕事をしなくても12万円を確保でき、それだけで生活できることがわかっていた。

「働くことはすごく好きです。でもやりたいことがあるのに、それを犠牲にしてまで仕事をしたいとは思わない。だから少しずつ働く時間を減らしていこうと考えたのです」

 63歳のとき週4日勤務にし、新型コロナが蔓延してからはさらに時短になって1日6時間勤務に。それで月7万~8万円程度の収入が得られた。

 それでも十分生活はできていたが、仕事の面白さもわかってきたので、65歳を過ぎても働いていた。しかし─。

 昨年秋のことだった。当時、週の勤務時間は短いのに、やるべき仕事量はフルタイム勤務のころと同じぐらいになっていた。パートであるにもかかわらず責任も重い。

 そんなときに起きた出来事。業務上のミスが起きたのだが、それは指示どおりにやったことで、ショコラさんが責められる理由は何もない。なのに責めてきたのは他部署の30代の社員。それはお門違いでしょと思ったショコラさんは思わず強い口調で、

「私、何も聞いてません。なんでそんなことを私が言われなくちゃいけないんですか! もうやってられません!」

 辞める気持ちが固まっていたから、あんなキレ方をしたのだろうとショコラさんは振り返る。しかも仕事に関しては“やりきった感”があった。

 今年3月に退職。その日のブログにはこう書かれていた。

《抜けるような青空に晴れやかな気持ちで健康保険証や携帯を返却しに定番のヨックモックを持って職場へ挨拶に行ってきました^^》

やりたいことリスト実行へ

“やりたいことリスト”に入っているピアノ。これまでも少しずつだが弾いていたという。小学校4年生のピアノ発表会

 翌日から生活は一変。すべて自分の時間になった。ずっと書きためてきた“やりたいことリスト”を実行に移すときが来たのだ。

 まずピアノ。小学校のときに同級生の母親がピアノの先生だったから、小学校6年生まで習っていた。その後も時折ピアノを再開したが、昨年買った電子ピアノで、また練習を始めたのだ。

40歳のころに参加した友人が主催する音楽教室の発表会でのひとコマ

「空いた時間で少しずつ練習できるのがいいですね。弾くのはクラシックが多いですが、うまく弾けると楽しいんです」

 この春からハマっているのがスポーツジム。12回6600円の区のお試しコースを申し込んで始めたのがきっかけ。12回通ってみると……。

「体重は少し増えていたんだけど、ちゃんと筋力もついて、体脂肪は減っているという判定でした。スゴいと思って、気をよくして正式にスポーツジムの会員になりました」

 そのジムでフラダンスができるのもうれしかった。十数年以上前に習ったことがあり、仕事で中断せざるをえなくなった。買ったお気に入りのパウスカートを一時は部屋に飾っていた。やっぱり音楽に合わせて身体を動かすのって楽しいと思った。

自由な時間を満喫しているショコラさん。「身体が健康なことに感謝です」と、今日も人生を楽しんでいる(撮影/山田智絵)

 あとは水中ウォーキング、そして音楽に合わせて水中で身体を動かすアクアダンスにもハマっている。

 子育てが終わり、自由な時間はできても、何をやったらいいかわからないという人が少なくない中、ショコラさんは次々と見つけてしまう。

「私の場合は、ふと見つかるんですよ。ジムなんて一生縁がないと思っていたのに、区の広報誌で見つけたしね」

 楽しいこと、面白そうなことを見つける天才、人生を楽しむ天才なのかもしれない。

 持病なし、白髪(ほとんど)なし、借金なし。

 再婚する気持ちはないのかと尋ねると「ない」という。結婚には懲りているから。それよりやりたいこと、行きたい場所を優先したい。今後、まだまだやりたいことリストが増えていきそうだ。

<取材・文/西所正道>

にしどころ・まさみち ノンフィクションライター。雑誌記者を経て現職。人物取材が好きで、著書に『東京五輪の残像』(中公文庫)、『絵描き 中島潔 地獄絵一〇〇〇日』(エイチアンドアイ)などがある。

 

自由な時間を満喫しているショコラさん。「身体が健康なことに感謝です」と、今日も人生を楽しんでいる(撮影/山田智絵)

 

「備忘録のつもりで書いたブログが、こんなに読まれるなんて、思ってもいませんでした」と苦笑い(撮影/山田智絵)

 

「5年前に載せていただいた『素敵なあの人のシングルライフ』のときと、ほとんど変わっていません」と言うショコラさんの自宅マンションでインタビューが始まった(撮影/山田智絵)

 

「確か、小田原の海だったと思います」と言う弟と妹と一緒に写真に収まった幼少期のショコラさん

 

当時、新しく横浜にできたマリンタワーを見に行った5歳のころ

 

外資系化粧品メーカーでラウンダーパートとして働いていた30代後半のころ

 

48歳のころ、社員旅行で行ったバンコク・アユタヤの遺跡でのカット。バリバリ働き、成績はうなぎ上りだった

 

“やりたいことリスト”に入っているピアノ。これまでも少しずつだが弾いていたという。小学校4年生のピアノ発表会

 

40歳のころに参加した友人が主催する音楽教室の発表会でのひとコマ