人生に「たら」「れば」はないけれど、振り返ると「あのときこうしていれば……」と思うことは誰しもあるはず。しかも「転生ストーリー」が流行し、メタバース(仮想空間)が身近となった昨今、想像が実現する可能性も……。そんなもう一つの道を歩んだ自分を、藤田紀子さんに語っていただきました!
「このインタビューのお話をいただいてから、何を話そうかと考えてたんです。あれもこれもいっぱいあって、どれを話そうって(笑)」
そう言って笑う藤田紀子さん(75)。そのなかでも「やり直したい」と強く思い出すのが、結婚時の出来事だという。
藤田紀子の「やり直したい」出来事
「私は23歳のときに結婚しました。でも本当は学生のころから結婚願望がまったくなくて、私にとっても完全に予想外のことだったんです」
そもそも紀子さんが大分県から東京に出てきたのは女優になるため。ところが、上京してすぐにホームシックになり帰郷。大分に帰った紀子さんは、県庁でアルバイトをしながらバレエ教室に通った。
「女優を目指したいけどどうしようと、踏ん切りがつかないまま過ごしていました。そんなある日、バレエの先生からアシスタントにならないかと声をかけていただいたんです。それで私ハッとして。ここでアシスタントになったら本当に女優の夢が消えちゃうって。恥を捨ててもう一度上京しました。先生も私のためにと声をかけてくれただろうにご厚意に応えられず、それも小さな悔いです」
2度目の上京後、本格的に女優として活動するようになった紀子さん。松竹に3年所属したのち、独立。そして、先代の貴ノ花との交際が始まる。ところが2人の交際は週刊誌にとって格好の“ネタ”となってしまう。
「どの記事もデタラメばかりでしたね。親方のご家族が結婚に猛反対だとか書かれたときは驚きました。だって『結婚するならここで暮らしなさい』とマンションを探してきたのは親方のお母様なんですから。親方が『ダンプの運転手になっても俺は結婚する』と報じられたり。そんなインタビュー受けていないんですけどね(笑)」
女優としてこれからという時期で「結婚なんてまったく考えていなかった」という紀子さんだが、皮肉にもこうした報道が結婚を後押しした。
「報道が過熱して、反対の声が聞こえてくるでしょ。そうすると男の人って燃えるんでしょうね(笑)。世間の言いなりになってたまるかという親方の意地もあったと思います。結局、あれよあれよという間に結婚することになったんです」
「そんな不義理なことってないですよね」
紀子さんが「できることならやり直したい」と語るのはまさにこの瞬間。実は親しかった友人はおろか、一緒に仕事をしていたマネージャーにも事前に結婚を報告することができなかったのだ。
「いろんな人が介入したことで、自分の結婚なのに流れをコントロールできなかったんです。おそらく周りの皆さんは私の結婚をテレビで知ったはず。そんな不義理なことってないですよね」
とりわけ紀子さんの記憶に強く残っているのが当時、仕事の送り迎えをしてくれていた大学生の兄弟。よき友人として紀子さんを支えてくれていたという。
「おふたりともいまだにフルネームで覚えています。突然の結婚で驚いたと思いますよ。そうそう、もうひとり、すごく親しい検事さんもいました。保護者のような存在でその方にもお礼を言いたかった……。ね、こんなふうに話していると次々と後悔が出てくるんですよ」
一連の騒動を見て、状況を気遣ったのだろう。結婚後、彼らが紀子さんに接触してくることはなかった。
「もしもやり直せるなら、自分の口から結婚をご報告して、皆さん、結婚式に来ていただきたかったですね。それからお相撲もご招待したかったです。そういうことが悔やまれます。こんなに時間がたってしまったけど、お礼を言わせてほしいです」
(取材・文/中村未来)