1980年代から『不良少女とよばれて』『スクール☆ウォーズ〜泣き虫先生の7年戦争〜』(ともにTBS系)などの大映ドラマで人気に火がついた俳優の松村雄基さん(59)。
松村雄基が語るこれまでの人生
今年9月は舞台『祖国への晩歌』で主演を務めたほか、11月・
「還暦になってからの最初の仕事が『クリスマス・キャロル』なので、ちょうどサンタクロースの赤も似合うんじゃないかと思います(笑)。僕が若いときにご一緒した60歳くらいの役者さんと比べると僕はまだまだしっかりしていないし、これでいいのかな?っていうのが正直なところです。中高生くらいから精神年齢が変わっていない気がします」(松村雄基さん、以下同)
還暦間近とは思えぬその若々しさと体力を保っている秘訣は、舞台中心となった現在の生活スタイルが大きな理由のひとつだ。
「毎日、午前3時半に起きて1時間ぐらい走るのを15年ほど続けています。きっかけはドラマでマラソンランナーの役をやったことですが、本格的に走り始めたのは仕事が舞台中心になってからです。舞台のお仕事は時間が決まっているので自分のルーティンも作りやすいですし、体力維持も必要なので、今のこの生活リズムが自分に合っているんでしょうね」
また、精神的な若さを保つ要因にもなっているという。
「座組では僕が一番年長のことも多くて、今の舞台だと一番下が19歳ですからね。舞台の上では年齢なんて関係なく対等ですから、年上だからかばうとか、若いから軽くあしらうなんてことはなくて、いつでもお互いが本気。そうすると年を忘れるっていうことはあります。楽屋ではまったく話についていけていませんが(笑)」
「周りはすべて敵だと思った」現場で引き寄せたハマり役
中学生のころは生徒会長をしていたという松村さん。芸能関係の仕事をしていた同級生の母親に声をかけられ、それが芸能界デビューにつながった。
17歳でドラマデビューを果たし、いきなり厳しい現場を経験する。当時の共演者から見ても異彩を放つ存在だったという。
「『少女が大人になる時 その細き道』(TBS系)という大映ドラマに初めて出演した際、僕は芝居が下手だったこともあるのですが、何をしても監督に怒られるので、『おはようございます』『お疲れさまです』以外は誰ともひと言もしゃべりませんでした。『みんな敵だ、負けないぞ』って思っていたんです。だからでしょう。当時の僕の印象を、伊藤かずえさんといとうまい子さんは『怖かった』って言っていますね。ずっと誰も寄せつけない雰囲気を出していたそうです」
撮影期間である2か月ほどの間、孤高を貫いていた。
「ところがそのプロデューサーが、僕のたたずまいを買ってくれて、次の作品につながって。それが『不良少女とよばれて』で、僕はオールバックの不良になるわけですよ。それまで不良でもなんでもなかったのに(笑)」
松村さんの不良男子は「ハマり役」となり、『スクール☆ウォーズ』などの代表作へと続いていく。
「若さゆえの反発心がね、ものすごく顔に出ていたと思います。でもそれはすごくいい経験で、ああいう『なにくそ!』根性っていうか、そういうのがあったから続けられたっていうのもあるかもしれないですよね」
ドラマの役では不良少年のイメージが強い松村さん。実生活では幼いころから両親の都合で父方の祖母と2人暮らしをしており、厳しくしつけられて育った。
「食事は正座で会話もテレビもなし、祖母が手をつけるまで待つ。友達を呼ぶにも『ちゃん』ではなくて『さん』『君』をつけなくてはダメで、あだ名で呼ぶことも許されていませんでした。今思えば、『両親がそばにいないから』などと後ろ指をさされるような子どもにならないように心配してくれていたのでしょう。詩吟を教えていて、着物が似合う人でした」
そんな祖母は松村さんが18歳のときに脳梗塞で倒れ、以後要介護の状態に。大映ドラマに次々と出演する華々しい活躍の陰で、介護生活を続けていた。
「近所に住んでいた叔母家族と一緒に祖母のケアをする生活を送っていました。オールバックの不良のときも、ラグビーボールを振り回しているときもすでにその状態です。僕としては、育ててもらった人の面倒を見るというのは当たり前だと思っていたので抵抗はありませんでした。ただ、祖母といえど女性ですから、女性の身体のケアをすることには戸惑いがありました」
仕事を終えて、帰れば介護という、客観的に見ればすぐに限界がきてもおかしくない二重生活だが、仕事がいいストレスの発散になったという。
「僕はやんちゃな役が多くて、人のことを殴ったり蹴ったり、罵詈雑言を浴びせたりするのが主な仕事だったので、実生活とはまったく別の人生を歩んでいるようなものでしたから」
20年以上も続いた介護生活は、周囲のサポートの賜物だったと振り返る。
「介護で外出できないのなら『おまえの家で飲もう』と言ってくれる親友がいて、事務所の社長や叔母がいて、仕事場にはよきスタッフや共演者がいて……本当に人に恵まれてここまでこられたと思います」
実はインドア派自筆の会報が話題
自らをインドア派と称する松村さん。若いころから茶道と書道を続けている。
「茶道は20年くらい前に『役者として役に立つ』と言われたので、自分で先生を探しました。この先生ともとてもよい出会いで、職業や立場は関係なく『一期一会』のときを味わうという場がとても心地よく、いつも元気をもらっています」
また、書は東京書作展で内閣総理大臣賞を受賞するほどの腕前である。
「書のきっかけは祖母でしたね。年賀状がうまく書けると褒めてくれて、褒めてもらいたくて頑張って書いたのが原体験でした。僕にとって、祖母は本当に全能の神みたいな存在だったんです」
ファンクラブ会報は「手書き」でのエッセイを届けていることもファンにはうれしいところだ。
「普通はプロのライターさんにお願いをするところなのでしょうけど、当時の社長に『自分で書いてみない?』と言われて始めて、気づけばもう42年になります。原稿用紙で20枚くらいで、しかも僕の駄文なので、毎回できあがりを見るとぞっとします。芸人のバカリズムさんが会報を見て『獄中の手記みたい』とコメントしてくださって、さすが才能がある人だと思いました(笑)」
俳優としてだけではなく、2022年には事務所社長に就任した松村さん。
「社長として裏方や事務の仕事に触れるようになって初めて、いかに僕が何も知らずに楽に仕事をさせてもらっていたか実感しました。マネージャーや経理がどれだけ大変なことなのか、例えば舞台のチケットひとつとっても、今まで丸投げしていたことをやってみるととても大変で。感謝の気持ちがものすごく大きくなりましたし、仕事への取り組み方も変わったと思います」
俳優、歌手、茶道、書家、そして社長業……活動の幅は驚くほど広い。
「いろんな仕事をいただけて、ありがたい限りです。でも、還暦を機にいま一度初心に返って、一から“貪欲”に進んでいきたいです。貪欲な松村をちょっとでも気にしていただけたら幸いです!」
不良役のイメージで止まっていた読者のみなさん! 松村さんは今めちゃくちゃ好青年……もとい、推しがいのある「好イケオジ」になってますよ!
(取材・文/高松孟晋)