現在、名古屋市内で緩和ケア医として働く田所園子先生は、2010年秋、30代になってから毎年受けていた子宮がん検診で再検査となり、子宮頸部腺がんステージ1Bと診断された。
自覚症状ゼロで子宮頸部腺がんが判明
「私は41歳、3人の子どもは小6、小4、小2のときでした。もともと麻酔科医として働いていましたが、子育て中で仕事をセーブしていました。
幼児期よりも生活が落ち着き、麻酔科医としてここからまたやるぞと、エンジンをかけ始めたころ。長女が中学受験を控え、母として大事な時期でもありました」
昔から健康には自信があり、自覚症状もゼロ。「自分のことではない」と思った。
「担当医に『先生、患者さんを取り違えていませんか?』と真顔で聞いてしまうほど。生理も順調で何の症状もない私が、そんなはずないと思いました。
それでも結果がわかるまでは不安でいっぱいで、次の受診までの数週間は死刑台に上がったような気分でした」(田所先生、以下同)
近くの婦人科や大学病院を含めた3回の検査を経て、子宮頸がんが確定する。
「よく病気と診断されたとき頭が真っ白になると言いますが、後から考えると私もまさにその状態でした。でも冷静な自分もいて、『手術日はいつになりますか、いつから入院しますか』と、淡々と主治医に尋ねられる冷静さもありました。
一方で家に帰るともうずっと泣きっぱなし。医師としての自分、妻や母、女性としての自分もいて、いろんな感情が入り乱れていました」
診断を受けてから田所先生が受けたのが、子宮の入り口の子宮頸部を円錐(えんすい)状に切り取る円錐切除術だった。
「主治医からは、がんは浅い部分にあるから円錐切除で済むだろうと言われていました。しかし、実際にはがんはもっと広がっていたのです。
そのため、12月に円錐切除をしたあと、長女の受験サポートのために一度退院し、翌年1月に卵管や卵巣、リンパ節などを含めた『広汎子宮全摘術』を受けました」
主治医は年齢を考えて卵巣などの一部を残すことを提案した。しかし、再発リスクを考慮した広範囲の子宮全摘という決断。それを後押ししたのは、インターネットでつながった同じ子宮頸がん患者の女性たちだった。
「毎晩、携帯を握りしめて、がん患者のコミュニティーサイトに自分の状況を投稿したんです。短期間で延べ400人くらいの方とやりとりしました」
治療法やそれを選んだ理由、治療後の生活など、がん患者からのリアルな情報を集め、それをノートにまとめて整理した。
「初めは私と同じステージ1Bだったのに、取り切れずに再発した、転移して余命宣告されたといった人がいて……。
『だからあなたは取れるものは取ったほうがいい』と。私もあとで後悔したくない。そこで考え方がガラッと変わり、『先生、全部取ってください』となったんです」
6年間誰にも話せず孤独ながん患者だった
自身を「孤独ながん患者だった」と話す田所先生。がんになっていちばんつらかったのは、家族と限られた数人以外に話せなかったことだ。
「ママ友や職場の同僚からも明るく元気な人と思われていたと思います。だから弱い姿を見せたくなかったし、『がんになった』なんて言ったら、相手がどう接していいか困るのではないかと思って。
そんな気持ちを周りの人に背負わせるのが嫌でした。だから家族と勤務先の院長先生、師長さん、いちばん仲良しのママ友1人だけにしか話せませんでした」
がんサバイバーであることをやっと話せたのは、6年という長い月日がたってから。
「あるインタビューがきっかけでした。働く女性医師の取材だったのですが、自分の人生において、がんを切り離して語ることは難しかったんです。
振り返ると、私の中には常にがん再発に対する恐れがあり、それを抱えながら子どもや夫との人生、女性としての人生を歩んできた。だから手術をしたら終わりではなく、がんは一生続くもの。今でもがんになんてなりたくなかったと思います」
がんを抱えながら過ごした6年という期間が、「ひとつの区切りになった」と言う。
「公表したら、患者さんから『医者でも苦しいなら私も苦しくて眠れないのは当然だと思った』と手紙をいただいたり、同僚の医師から『患者さんの気持ちがわかりました』という言葉をもらえたりしました。
そしてこのころに、緩和ケア医の道に進み始めることを決めました」
娘とコンサートへ、“今”を全力で楽しむ
子宮頸がんは術後、脚などが異常にむくんで生活に支障が出る「リンパ浮腫」を発症する人が多い。田所先生はならなかったが、今後なる可能性も高い。専門だった麻酔科医の仕事は立ちっぱなしの時間が長く、続けることは困難に。
仕事以外にも、リンパ浮腫のリスクを下げるためにスリムなジーンズやヒール靴など、あきらめないといけないことが増えた。それでも今を生きることに目を向ける。
「どんなときも『今しかない』と思うようになりました。30代は子ども優先の生活が当たり前。行きたいところ、やりたいことがあっても、子どもたちが巣立った50代・60代になってから楽しめばいいやと考えていました。
でもがんを経験してからは、この先どうなるかは誰にもわからないし、自分も楽しいことを全力でしなくちゃと思うようになりました」
手術から数年後、田所先生の心に響いたのが長女と一緒に行ったジャニーズのコンサート。ずっと苦しかった自分の心を解放できた瞬間だった。
「初めて娘とコンサートに行ったとき、感動で涙が止まりませんでした。松潤がカッコよすぎたのもありますが(笑)、『つらかった』『苦しかった』といった感情があふれ出して号泣。
気持ちがなぜかすっきりして、それ以来、娘とたびたび見に行っています。『来年のことはわからないから今年も行こうね!』と娘に言うと、『お母さん、そう言いながら何年目かね』と笑われます」
この先どう生きたいか考えておくことが大事
広汎子宮全摘術のあと、幸いにも抗がん剤や放射線治療は必要がなかった。その後12年間は、定期的に受診し、再発することなく過ごしている。
「10年もたつと違うがんが発生する場合もありますし、5年たって寛解と言われ、安心して検査に行かなくなる人もいます。だから私個人としては、簡単に寛解という言葉は使いたくありません」
2人に1人ががんになる時代。とはいえ、まだまだがん検診に行かない人も多い。
「がんは早期発見が大事というのは確かです。そのために年代問わず、がん検診は必須。私はたまたまステージ1で見つかったからラッキーだったかもしれない。
でも毎年検診を受けても見つからない場合や、早期発見が難しいがんがあるのも事実。予防のためにも食事や運動で身体を整えて、ストレスの少ない生活を送ることをおすすめします」
現在は、緩和ケア医として多くのがん患者さんの声に耳を傾け、常に心で寄り添う。そして「もっと『患者力』を持ってほしい」と訴えている。
「患者力とは、医師任せではなく、患者自身で病気のことを調べて理解して、進む道を決断できる力のこと。いざ病気になると何も決められない人がいます。自分の人生ですから、『先生にお任せします』ではなく、自分がどうしたいかで選択していいんです」
病気は突然やってくるもの。病気を宣告されたときに不安にならない人はいない。だからこそ大事なのは、万が一に備えた心の準備だ。
「がんに限らず、自分がいつどんな病気になるかなんてわかりません。例えば食事が口からとれなくなったときにどうするか、延命治療を望むのかなど、最低限の希望を家族と話し合っておくと安心です。これは家族のためにも大事。
ご自身だけでなく、高齢のご家族がいれば、元気なうちに話してみてください。人生の後半をどう生きたいのか、ちゃんとイメージすることが悔いなく生きることにつながると思います」
(取材・文/釼持陽子)