遠くに移住せずとも、家の近所でも畑仕事はできる。散歩中、自宅から徒歩15分の場所に貸し農園を見つけて野菜を作り始めたのは、俳優の伊武雅刀(いぶ・まさとう)さん(74)。
「もともと野菜を食べるのが大好きなんです。地方でのロケやプライベートの旅行に出かけた際には、地元の市場に足を運びますし、宿泊先ではキッチン付きの部屋を取って、買ってきた食材やお気に入りの調味料を使って自分で料理をしています」
ドラマや映画の撮影時の食事はロケ弁が続くことが多い。野菜が十分にとれず、食生活のレベルが落ちてしまうことが気になったりも。そのため自宅での食事にこだわっており、各地から無農薬野菜を取り寄せるほど。いつかは新鮮野菜を自分で作って日常的に食べたいと思い描いていたが、仕事の時間が不規則なため諦めかけていたところ、件の貸し農園を見つけたわけだ。
「とりあえず1年間やってみようと始めたところ、きゅうりやなすが思いのほかたくさん収穫できて美味しかったことから続け、6年がたちます」
農園の広さは8畳ほど。現在は夫婦2人暮らしだが、妻は“食べる専門”なので、畑仕事は自身が行う。
頭を空っぽにしながら作業をするひととき
仕事で多忙な合間を縫って朝早く畑に行き、作物や土の様子を確認し、水やりや草取りをしているうちに朝日が差してきて、その光にパワーをもらっているという。
「畑仕事中にセリフを覚えようとしていたこともありますが、手入れをすべき箇所が次々と見つかり、作業せずにはいられなくなるのでそうもいきませんでした。太陽の光を浴びながら、頭を空っぽにしながら作業をするひとときは精神的に充実した、かけがえのない時間です。家と畑を歩く往復30分はいい運動にもなっていますね」
野菜は、かつてプランターで作っていた経験はあったが、畑で力強い野菜を育てるためにやるべき作業は多い。
日々の手入れのほか、畑の土を30cmほど掘り、さらにそこから30cmほど掘って土を入れ替える「天地返し」や、先端の芽を摘み取って脇目を出させる「摘心」などの作業も必要になるため、こまめに通う必要があり、週3日以上、夏場は毎日畑に行っている。
野菜作りは子どもを育てているようなもの。手を抜くとそれなりのものしかできませんが、手をかけるほどに美味しくなるのもやりがいにつながる、と伊武さん。
「以前、イチゴを植えたらたくさん採れました。形は悪いけれど、とても美味しくできて、ほかのイチゴが食べられなくなるほどでした。6苗植えて収穫はたった4個ということもありましたが、手作りイチゴの凝縮された甘さを知ると、来年もまたやろうという気持ちにさせられます」
採りたての野菜をすぐに食べられるのも畑の醍醐味。夏にフランスで暮らす娘家族が帰国した際、孫を畑に連れて行くと「パピー(農園名)の野菜は美味しい!」と言ってボリボリ食べていたそう。
「トマトをもいで口に入れると至福の味わい。少し前まで畑で採れた夏野菜は毎日食卓に並んでいました。朝、もいだきゅうりのカキーンとした歯応え、トマトの芳醇な香り、新鮮ななすは焼きなすにして、ピーマンはジャコと炒めると最高です。採りたての枝豆のふくよかな味わいも素晴らしく、もぎたてにかなうものなし。この夏は夫婦2人が十分食べられるほどの野菜を収穫できました」
野菜の出来栄えは天候にも左右されるので、やればやるほど奥が深い。
「今年は雨が少なかったためきゅうりがうまくできませんでした。毎年、梅雨明けに西表島や沖縄北部に10日ほどバカンスに行くのですが、帰ってから種を蒔いたにんじんの芽が出なくて。種を蒔く時期が少しでもずれるとうまくいかないんですね。仕事柄、長い地方ロケが入ったときは、収穫を断念せざるを得ないこともあります」
野菜作りを始めて心身共に豊かに
うまくいかないときは「努力が足りなかった」と反省はするが「落ち込んでいる場合じゃないぞ」と前向きだ。
「自分で野菜を作れるようになってから、心身共に劇的に豊かになりました。すっかり早寝早起きになり、夜はぐっすり眠れるようにもなりました。ロケの合間に田園の作物を見ながらの散歩も楽しくなりましたね」
仕事が予定より早く終わると、夜の弁当が用意されていても、なるべく家に帰って夕食を食べるようにしている。早く寝て、また明日畑仕事を頑張るために早起きしよう!というモチベーションになっている。そんな自身の経験から、野菜作りはおすすめだという。
「採れたての野菜の味は至高です。世界にひとつしかない究極の野菜です。ぜひ愛情を持って育ててみてください」
(取材・文/野中真規子)