2022年9月30日午前2時過ぎ。真夜中に電話の着信があった。熟睡中で出ることはできなかった。思い出すたびに、今も心のどこかが細かくうずく感覚に見舞われる。
残されていた着信履歴に三遊亭円楽の名前
翌朝。スマホの画面を見る。残されていたのは、『三遊亭円楽』の着信履歴。出社したら折り返そうと息子を小学校に送り出し、娘を保育園に送り届けた。その直後だった。円楽夫人から電話があり、「これから病院に行きます。楽ちゃんが……」と告げられた。
思い起こせば22年間の縁だった。前半9年は付き人・マネージャーと落語家という関係で、後半13年は『株式会社オフィスまめかな』の代表取締役・植野佳奈と所属タレント・三遊亭円楽(以下、円楽師と表記)という関係で。
「すごい甘かったです、私には」と植野は、自分に対する円楽師の接し方を振り返る。「最初会ったとき私は21歳で、師匠は51歳。21歳の娘にやいのやいの言ってもしょうがない。孫まではいかなくても、可愛がる対象になっていたんだと思います」
「植野の友達だから」と円楽師に目をかけてもらうことが多かった落語家の柳家三三(49)は、円楽―植野ラインを「車の両輪、二人三脚。円楽師匠が言い出しっぺになる。その後の動力の部分、実務は植野さん」と、2人を不可分の存在と見る。
「私の意志が、三遊亭円楽という人の芸と行動に貢献できた。円楽をつくることに貢献できたかなと思いますけど」
と、ほんの少しばかり誇らしげな事務所社長。彼女と人気落語家の出会いから、このドキュメントを編み始める。
圓生師匠にハマり落語界でアルバイトを
東京・水道橋の後楽園ホール。日本テレビ系の人気長寿番組『笑点』の楽屋で、2人は初めて顔を合わせた。
「楽太郎さん(当時の円楽師)、ちょっと」
『笑点』の司会を長らく務めた五代目三遊亭円楽が立ち上げ、その後、楽太郎や三遊亭好楽が所属することになる『株式会社星企画』の社長が楽屋の奥に向かいそう呼びかけると、楽太郎がドアから顔だけを、ぬっと出した。
「明日からこの子つくから」
「ふ~ん」
「それで引っ込んで終わり。私に興味なしっていう感じでしたね」と植野は初対面の印象を鮮明に記憶する。
2001年10月。就職氷河期の真っただ中の当時、早稲田大学第一文学部4年生の植野は卒業単位を取り終え、就職先も決まっていた。
「就活がうまくいかなかったわけではないんですが、就活自体が面白くなかった。くさくさしていたある日、大学の図書館に行き、これまで見たことがないものを見ようとレーザーディスク(DVDの前身のようなもの)の目録を適当に選んだんです。左が喜劇役者の藤山寛美で右が落語家の三遊亭圓生。(子どもの数え歌の)どちらにしようかな神様の言うとおり、をやったら圓生師匠でした」
連日、図書館に通い、『包丁』や『引っ越しの夢』『栗橋宿』など落語の名演にどっぷりと浸ったあと、突如、ひらめきが植野を襲う。「この人に会いに行かなくちゃ」
京都・京丹後市で植野が生を享けたのは1980年2月22日。その半年ほど前の1979年9月3日、上野動物園のパンダ、ランランと同じ日に圓生は鬼籍に入っていた。
「大学のパソコンで調べて、亡くなっていたことを知りました。こうなったら、圓生師匠の匂いがするものを追いかけよう」という発想が芽生え、弟子の五代目円楽一門の落語会に通うことに。
「たまたま顔見知りになった一門の若手落語家に、落語界でアルバイトをしたいと話したところ、『星企画』が人手が足りないみたいだよと情報をもらいました」
事務所にメールをしたら、社長から来た返事が「会います」。その結果、出向いた先が前記の後楽園ホールだった。
「社長に対し、ひたすら圓生愛を訴えました。そうしたら、ついてきなさいって。暗い階段を下りて行ったら、そこが楽屋でした」
当時の楽太郎さんに圓生師匠の匂いは何か感じましたかと尋ねると、「全然」と植野さんは笑い飛ばす。
「圓生師匠は私のアイドルですが、楽太郎さんはアイドルじゃありませんでしたから」
圓生の匂いは感じなかったが、楽屋から漂ってきた、酸っぱげな湿布の匂いだけは、今でも思い出せる。
手腕を発揮し円楽師と独立
アルバイトで植野と落語界のつながりは始まった。用事があるときだけ、六本木にあった『星企画』に出向く。飛行機や列車のチケットや資料を受け取り、数日後に楽太郎と一緒に仕事現場へ向かう。
「マネジメントのノウハウなんかゼロ。最初は付き人ですよね」
落語家の多くは、自分の弟子や一門の前座を、旅の仕事(地方営業)に連れて行くが、円楽師は違ったという。
「お弟子さんを連れて行きたがらない人。同行者は基本マネージャー。弟子はイライラするから嫌だ、小言も言わなきゃいけないから、とよく言ってましたね」
アルバイトを始め、植野は将来の道を変更することを決めた。落語界に身を置こう。そのためには、内定先に断りを入れなければならない。
「らくご?のマネージャーですか」と腑に落ちない様子の内定先の採用担当者に、ただただ謝り続けた。
「やはり破天荒、そんな感じですね。ちょっと言い方を変えれば思い切りがいいのか、勝負度胸があるというか」
そう話す前出・柳家三三は植野の行動を「ちょっとずつ想像の上を行く」と評する。
想像以上の植野の行動力は、円楽師と一緒に独立し新会社を立ち上げたことで、のちに三三を驚かすことになる。
「円楽師匠について仕事をして、信頼を勝ち得て、一緒に会などを作る存在になって、円楽師匠も一目置いているマネージャーさんだと思っていたら、20代で会社を興した。どうなの?ってびっくりしましたけど」
『星企画』のマネージャーとして、そつのない仕事ぶりを発揮し続けた植野は、全スキルを動員し、2010年3月から1年間にわたり全国で繰り広げられた六代目三遊亭円楽披露興行を取り仕切り、成功に導く。300超えの公演数。桂歌丸さんや立川志の輔ら東京の芸人、桂文枝や笑福亭鶴瓶ら上方の芸人をブッキングし、豪華な顔付けですべての会場を満員御礼にする抜かりのなさ。
植野のスキルを認めていた円楽師は、独立して自分でやりたい、それにつけては植野にやらせたい、と『星企画』に伝えていた。芸能ニュース風にいえば、屋台骨を支える売れっ子タレントの独立劇。事務所ともめる可能性もあるが、『星企画』の社長は円楽―植野ラインの希望を受け入れ、反対しなかったという。
なんと交際0日で漫才師との結婚を決意
2010年、『星企画』に間借りする形で、植野は『まめかな』を立ち上げた。翌2011年2月には、東京・恵比寿の、春になると桜舞い散る明治通り沿いに、オフィスを構える。机ひとつに電話が1本だけの殺風景な空間。
「人を雇うことなどを含め、師匠には一切相談しませんでした。何かあったときだけの事後報告だけ」と、円楽師に頼りすぎない関係を、立ち上げ段階から規定していた。
起業する植野。子どものころ、大人になったらなりたい職業の具体像はなかったが、
「すごく自立した女性になりたかった。その意味では、叶ったかな」と、自身のこれまでに及第点をつける。
流通業界を脱サラし、地元・京丹後市で呉服店を始めた父。女優や作家の妻らが顧客に名を連ねた。4人きょうだいの長女として生まれた植野の一つ下には双子の妹、六つ下には弟がいる。
「小さなころから絹の匂いの中で育った」という植野に決定的な影響を与えた人物に、叔母の存在がある。
「3年前に、独身のまま亡くなりましたが、すごく強い女性でした。あくが強く、嫌いな人は大嫌い、という人。京都や金沢で修業した友禅染の作家で、食べていく技術があった。自分の意見を言って、誰かと同じだから、誰かがやっているから、ということで生きちゃいけない、とずっと叩き込まれたんです」と、植野の根っこへの影響を明かす。
ジェンダーという概念がない時代に
小学生低学年のとき、こんなことがあった。絵の具箱の色を何にするか。今と違って当時は、女の子は赤やピンク、男の子は黒や青、といった刷り込みがまかり通っていた。クラスの女子が全員、赤い絵の具箱を購入する中、植野は1人、青を選んだ。
「女の子は赤、と決まっていることがおかしいと思って、青を選んだんです」と選択理由を振り返る植野だが、「やっぱりつらいんですよ。みんな赤で、自分だけ青っていうのが。あれはきつかったですね。でも耐えました。自分で選んだのだからと」
ジェンダーという概念さえまだない、約35年前の小学生。両親は娘の考えを尊重し、見守ってくれた。「ただ、水彩は好きにならなかったですね」。そんな副作用も、今となってはほろ苦い笑い話だ。
植野の根っからの意識の高さについて、夫で、漫才コンビ『母心』の嶋川武秀(45)は、「自分は富山の高岡で育って、父と母しか見ていないので、父が母の名前を呼び捨てにして、母が『お父さん』と呼ぶのが当たり前と思っていました。それにならって『佳奈』と呼び始めたらギクシャクし始めて、人前では『佳奈さん』と呼び、今は子どもがいるので『ママ』と呼んでいます」と打ち明ける。「2人のときに、『佳奈』って呼ぼうかなと思うんですけど、なかなか難しい問題です」
2012年、2人はいわゆる“交際0日婚”で家族になった。円楽師だけではなく、色物芸人も所属させたいと考えた植野は、漫才師・おぼん・こぼんのマネージャーに「いいのがいるよ」と耳打ちされて、母心の存在を知った。最初はあいさつを交わし、2度目は出演イベントを見学した。そして3度目、浅草で母心の2人と植野は食事をしていた。
そのさなか、嶋川が、「結婚しましょう」と唐突に切り出した。酔っぱらっていた勢いにも後押しされ、植野は「ハイ」と即答。それで決まった。後日、経緯を聞いた柳家三三は「驚きましたけど、“らしい”っちゃ“らしい”」と、想像の上を行く植野ならではの決断だと受け止めた。
嶋川は漫才師として高座に上がる一方、富山県議会議員を務める。夫に出馬をすすめたのも植野だった。
「夫は地元大好き、家族大好きで、何かにつけ富山に帰る。そんな中、高岡市長が選挙に出馬しないというニュースを知って、本人が地元で周囲に相談したら、いきなり市長とは何事だ、まずは市議だ、市議なら応援してやるということになりました」
2021年10月31日に投開票が行われた高岡市議選でトップ当選。1年半で辞職し、今年4月9日に投開票が行われた富山県議選に出馬。またしてもトップ当選を果たした。
「奥さんの理解がなければ、選挙はとてもじゃないけど戦えない。県議選のときは、街頭や集会で何回も応援演説を全力でやりました。楽しいって言っていましたよ。市議選に立つときは円楽師匠にも、どぶさらいから行くんなら応援してやるって言ってもらえて、応援演説にも来てもらいました。間接的に妻に聞きましたが『あいつ、持ってる』って。すごくうれしかったですね」(嶋川)
円楽師からの最初で最後のお礼の言葉
幼いころから自立心が染みついていた植野にとって、会社を立ち上げることに躊躇はなかった。とはいえ、周囲の壁は女性に対し厳しかった。
「運転資金がないから、金融機関から借りましたけど、手続きが大変でした。一度離婚していて姓が違うので、何回も謄本を取りに行ったり、トータルで3000万円借りました。
円楽師が所属していても、芸能事務所ということで(経営が)不安定に見られました。演芸の世界って、取っ払い(その場での支払い)が基本。仕事先からの入金が2か月後でも、仕事が終わったらすぐに振り込まなければいけない。しばらくは支払金額のほうが残高より多い日々で、完済まで5年かかりました」
円楽師のマネージメントのほか、全国で公演を実施する興行会社として、『まめかな』はやがて軌道に乗る。円楽ありきで2人で立ち上げたが、円楽はあくまでも所属芸人で、資本参加はしていない。
「最大でスタッフは、私以外に8人いました。それぐらいいないと回らない」という規模にまでふくれ上がっていた。
2007年に立ち上げ、今年も11月2日から5日まで九州で開催される落語フェス『博多・天神落語まつり2023』は、円楽―植野ラインが築き上げた、見事な成果だ。所属団体も違う東西の落語家が一堂に会する祭りで、円楽師が残した演芸遺産といえる。
円楽師が発案し、実現可能なことや難しいことを含めて思いつくままアイデアを口にする。それを引き取る植野が具現化する先頭に立ち、実行部隊を指揮する。
自身が二ツ目になったころ、円楽師との落語界などの楽屋で植野を見かけるようになったという落語家、林家たい平(58)は、円楽師を支える植野の仕事ぶりを目の当たりにしてきた1人だ。
植野の第一印象を「鍾乳洞の中で輝くヒカリゴケのような人」とたとえ「美しく、スマートな人と一瞬とらえるけど、実は落語に対する心の強さが揺るぎない人。一切ちゃらちゃらしていない。落語を多くの人に広めたい、そのために何ができるかを円楽師匠が考え、一番そばにいる植野さんがそれを叶える」と円楽師&植野組の実効性を明かす。
さらに、「円楽師匠が考えていることを植野さんにアウトプットし、僕にもアウトプットする。その受け止め方が一緒。円楽師匠という礎があって、そこに石垣のように寄り添っているのが植野さんと僕。同じ城を築こうとしている」と、認識の近さがあることを付け加える。
かつて落語界は男社会で、落語を支えるスタッフも男社会だった。そこに、植野は果敢に飛び込んだ。その姿勢は、「落語のために何ができるか、落語界のために何ができるかを常に考えている人だということが、付き合えば付き合うほどわかってくる」。たい平をして、そう言わしめるほど。
奮闘する植野を円楽師も十分に認めていたが、下町っ子のテレか、面と向かって感謝を表すことはなかった。
「本当に褒めない人でした」と植野は証言するが、円楽師が唯一、感謝を伝え、頭を下げたことがあったという。
「ホテルで円楽襲名披露パーティーが終わり、一門で打ち上げをやっているときでした。『植野が頑張ってくれました。ありがとう』ってみんなの前で頭を下げてくれました。お礼を言われたのはそれが最初で最後でした」
ただ、嶋川と結婚すると報告した際、「相手は芸人かよ」と驚きつつも、結婚式を開くことを買って出てくれた。芸人仲間だけを集めた、円楽主催の披露宴で、ウエディングドレス姿で焼酎の『森伊蔵』の一升瓶を抱えてラッパ飲みする花嫁、テツandトモと♪なんでだろう♪を歌いまくる花嫁、最後は腰が立たないほど酔いつぶれた花嫁。「あれはひどかったですね」。そう振り返る植野は言葉少なだ。
育児に仕事にハードすぎて死にそうな毎日
「私に対する感謝が足らない。感謝の言葉はその都度ありますが、トータルでもっと感謝しろよ、と言いたい」と植野が当てこする対象がいる。夫の嶋川だ。
富山県議を務める嶋川は「ひと月のうち25日は富山で、東京は4、5日。家事はワンオペ。これは負担をかけている以外の何物でもなくて」と恐縮する。
植野の朝は、きっかり6時15分に始まる。
「寝る時間を7時間確保しないとダメ。以前は6時間切るぐらいでも仕事をしていましたけど、今は無理」
睡眠時間をすべてに最優先させ、7歳の長男、3歳の長女との暮らしを組み立てる。
「起きると洗濯物ができているのでそれを畳んで、顔を洗って、朝ごはんを作って、子どもを起こして食べさせて、支度をさせて、忘れ物がないかチェックして上の子を送り出し、下の子を保育園に連れて行って、一回帰宅して、掃除して、出社して、仕事をして、朝のうちに晩ごはんの仕込みができなかったら、お昼休みに帰宅し晩ごはんを作って、息子が事務所に戻ってくるので宿題をやらせて、6時半まで仕事をして、保育園に娘を迎えに行って、10分で晩ごはんを作って7時に食べさせ宿題を見て、お風呂に入れ、歯磨きさせて、連絡帳を見て……死にそうです。
子どもを寝かせると10時ぐらいになっちゃう。そこから1時間15分で、子どもの習い事のスケジュールの確認と、翌日の献立を考えて新聞を読んだり。自分の時間はそれだけです。テレビドラマも一切見ない、実質的にはシングルマザーです」
立て板に水で日常を描写する。
一方の夫は「頑張り屋さんでしょ。だから頼らないんですよ。それがね、周りとしてはもどかしい」と、政治家の答弁のように冷静に言葉を選ぶが、「どうしようもないときは、富山から私が子どもを迎えに行って、1日2日面倒を見て、また戻しに行きます。時間も、交通費も大変。それでもどうにもならんというときは、京都の実家からお母さんに来てもらったりして、シッター制度はフル活用しています」こう対策を明かす。
植野も「働くほど出費が多くなる」と嘆くが、東日本大震災直後に円楽師のスケジュールが数か月間空白になったりしたことを除けば、おおむね業務は順調に推移していた。
確かに順調だった。あの日の、あの電話を受けるまでは。
不倫発覚! 会社設立以来の最大の危機
2016年6月13日、植野はスポンサー主催による東北地方の演芸ツアーの初日を仕切るために、午前中に福島入りしていた。2時間後の新幹線に、円楽師と現場マネージャーは乗車する段取りだった。そろそろ東京駅を発つ時間か、と植野が時計を確認したときスマホに、『三遊亭円楽』の着信表示が。
「第一声が『FRIDAYにやられた』でした。これまで聞いたこともない、死にそうな声でした。終わった……と思いましたけど励ましつつ、対策を立てますから、お待ちしています、と」
植野の危機管理能力が作動し、ミッション・インポッシブルが切って落とされた。
数時間後、最初の公演会場にやってきた円楽師の様子を、植野が覚えている。
「顔は土気色。やられちゃった感がすごいありましたね。師匠は楽屋で突っ伏したまま。高座はちゃんと務め、打ち上げにも参加しましたけど、いつもほど陽気ではない。桂雀々師匠に『変だね、六代目』と言われたりしていました」
ツアー中、植野の背中には、乳飲み子の長男がいた。子どもを背負いつつ、ツアーの一行10数人を率いて移動しながら、先々で公演を仕切り、終われば打ち上げ。その合間に、スポンサーに謝りの電話を入れ、『笑点』のプロデューサーにも状況を伝え謝罪会見場を探し、事務所スタッフとリモートで会議を開き、謝罪会見の段取りをするという八面六臂のフルスロットル。
「ツアー最終日の木曜日におかみさん(円楽夫人)に電話して、『あした会見をします』と伝えました。東京駅にはマスコミが張っているかもしれないので、大宮駅で下車したい。ついては車を出してください、と。まさにミッション・インポッシブル。そういうの思いついちゃうんですよね。そこから師匠をホテルに入れて1泊させて、翌日の会見に臨みました」
今だから明かせる、当時の切羽詰まった状況だ。
謝罪会見当日、よくないことが重なった。タレントのベッキーが円楽師に先駆けて不倫釈明会見を開いたが、質疑応答をしなかったため、取材陣は不満たらたら。その現場から流れてきた芸能リポーターや記者は皆カリカリしていたという。彼らを和ませたのは、植野のひと言だった。
取材陣に段取りを説明しているときに「円楽師匠はお子さんは1人ですか」と聞かれた。植野はとっさに「隠し子がいなければ、私が知る限り1人です」。それが取材陣を笑わせ緊張を緩和させ、空気が一変。円楽師とバトンタッチする際、植野は「温めときましたよ」と伝えたそう。
会見を眺めていた植野は、円楽師のしゃべりや表情から、うまく乗り切れる、と確信したという。
「しゃべり始めると、口から生まれたような人だから、すごくリラックスしていくのがわかりました。緊張はしていましたが、しゃべることで人との距離を親密に縮められる人」という植野の予感はずばり的中し、翌日のワイドショーやスポーツ紙は好意的に報道し、番組降板などの大きな実害もなく、収拾できた。
「そのときも、師匠からの謝罪や感謝の言葉はなかったですね。よく乗り切ったと、自分で自分を褒めましたけど」
円楽師の晩年に寄り添い続けた日々
芸人人生最大の危機も乗り切り、いつもどおりの仕事をこなしていた円楽師に、最後に立ちはだかったのは病だった。仕事に影響が出ないためあえて公表はしなかったが、58歳のとき初期の大腸がんの手術をした。病院から仕事先へ向かうこともあった。そのあとも肺がんや脳腫瘍を患ったが、そのたびに短期間で復帰していた。
芸人生活に致命的な影響を及ぼすことになる脳梗塞で倒れたのは亡くなる約9か月前、2022年1月のことだった。そこから8月の高座復帰まで、長期にわたる療養生活。意欲的だった『笑点』への思いを少しずつ諦める姿。落語家が無理ならプロデューサーとして演芸界に関わり続けられるのではないかと望み始めていた円楽師の、今となっては晩年に植野は寄り添い続けた。
「確かそのころ、久しぶりに会ったときのことでした」
柳家三三は、植野の目から涙が流れ落ち、互いに驚いた場面を振り返る。落語会の楽屋で、たまたま2人きりになったときのこと。
「責任感が強いので、1人で頑張りすぎたり背負い込んだりしないでと、確かそんなふうに声をかけたら、あれ?っていう感じで涙が流れて、当人も不思議だったんじゃないですか。しっかりしなきゃいけないと思ってやってきたところに久しぶりに会った友達の前で、ふと気が緩んで涙がこぼれた感じでしょうね」
病と闘う円楽師を支え、スタッフが減った事務所を切り盛りし、子育てに奮闘する植野は、三三の気遣いの言葉に心が甘えたという。「三三さんがそこにいてくれたことが、ただうれしくて涙が……」
2022年8月、国立演芸場で復帰高座を務めた円楽師は、軽度の肺炎で再入院した。
「体調は悪かったですね。6月、7月は比較的よくて、これなら国立(演芸場の8月中席)に出られるという感じでした。ただ直前、体調が悪化し、国立は大丈夫かとなったけど、本人は出たがった。初日は高座に座りましたが、それ以外の日は車いすに座ってやりました」
円楽師の一挙手一投足が浮かび上がらせる、芸への執着、落語に対する執念。
「本人は、死を全然覚悟していなかったと思いますよ。師匠が強く望んでいた三遊亭圓生襲名に関しては最悪、病院にいる状態でも襲名できたらいいな、という提案はしましたし、植野に任せるよ、と言ってくれていました」
だが、圓生襲名は叶わない祈りだった。大名跡に手が届かないまま、大名跡への未練を抱え円楽師は旅立った。
冒頭の深夜の電話の着信は、亡くなる数時間前のこと。
「出られたらよかったかな、ってそれは後悔です」と植野はじくじたる思いを口にするが、同じような思いを円楽師から聞いたことがあるという。
「国会議員を長らく務めた中川昭一先生が、自ら命を閉じる前に、師匠に電話をかけてきたそうです。2人は仲良しで、よくホテルのバーで飲んでいました。亡くなる直前に着信があったのに、師匠は寝ていて気づけず出られなくて、後々まで後悔していました。当時、それはつらいだろうと思っていたのに、自分も同じことをしてしまったなぁ、と後悔しています」
最後の電話で、円楽師が何を植野に伝えたかったのか。本人に確認することはできないが、数時間後の死を直感した円楽師が、これまであまり口にしなかった、植野に対する感謝の言葉を伝えようとしたのかもしれない。
「植野、22年間ありがとな。心から感謝してるよ」
そんな幻の声を植野は、今もふとしたときに耳にするという。
<取材・文/渡邉寧久>