東京・恵比寿に店を構える人気日本料理店『賛否両論』の店主である笠原将弘さん。
ユーモアのある語り口や、さわやかな笑顔が印象的だが、若いころに両親を亡くし、最愛の妻もがんで他界(享年39)、シングルファザーとして子ども3人を育て上げた苦労人だ。今春、末っ子の長男が家を出て一段落したという。
娘たちはかみさんに似たんだろうな
「仕事以外に趣味もないし、店を閉めたらサウナに直行してますね。それ以外のリフレッシュ方法は……残念ながら今のところないかなあ(笑)。昔ながらのサウナが好きで、ずっと同じ場所に通ってます」
サウナから家に帰る途中にスーパーで食材を買い、帰宅後晩酌のつまみを作る。他界した江理香夫人やご両親も、大のビール好きだったそう。祭壇にビールを供え、グラスを傾ける。娘たちと時間が合えば一緒に呑むこともあるという。
「娘たちのほうが僕より酒が強いくらいですよ、かみさんに似たんだろうな」
と、江理香さんを懐かしむ。
『賛否両論』も開店から20年目を迎え、国内の支店だけでなく海外にも進出。これまでに出版した書籍の累積発行部数は100万部を超す。
「寝る直前までいつもレシピのことばかり考えてますよ。外でおいしいものを食べた時とか、歩きながらひらめいた時はすぐスマホにメモを取るようにしています。この年になるとすぐにメモしておかないと忘れちゃいますからね(笑)」
笠原さんの原点は、生まれ育った東京の品川区、武蔵小山で焼き鳥店を営んでいた父親の後ろ姿にあるという。
「子どものころから親父をずっと見ていたからか、板前という言葉が頭の中にチラついていて。高校3年生の半ばを過ぎたころだったかな。進路を決める時がきて、実は当時は流行ってたテレビの影響で“パティシエになりたい”って言った(笑)
そしたら、親父に日本料理の修業先を紹介するって一蹴されて」
高校卒業と同時に日本料理の名店、吉兆グループの『正月屋吉兆』に入社した。
「今の時代では考えられないくらい、そりゃあ厳しい指導をされていましたね(笑)。メモをとろうものなら、“ここは学校じゃねえんだぞ”とどやされる。だから、その場で必死に頭に詰め込むんですよ」
洗い場で鍋を洗いながら、排水口の掃除をしながら、必死に先輩たちの手つきを目で追い覚えていった。
「吉兆の名物である鯛茶漬けを死ぬほど作ったりもしましたね。それこそ野球でいう千本ノックの勢いで」
大変な9年間だったけど、いい料理人になるための、あの時代の修業を受けられてよかったとふり返る。
深夜に帰宅し早朝からお弁当作り
各種メディアへの出演に店舗経営と、多忙を極める日々の中、今春まで長男の高校のお弁当作りをしていたという。
「学食もあったけど“お弁当がいい”って言うもんだから。上のお姉ちゃんたちも大きくなってわが子にお弁当を作ることももうないと思ってね。これが最後かと腹をくくりました」
妻の江理香さんが他界したのは子どもたちが幼いころ。子どもたちのお世話や家事などは、近所に住んでいた義理のお姉さんがやってくれていた。
「本当にありがたい限りです。お義姉さんには一生頭が上がりません、本当に」
笠原さんも運動会や遠足などのお弁当は作り、入学式や授業参観など節目のイベントには顔を出すようにしていた。それでも、子どもたちが幼いころは仕事ばかりしてきたという負い目もあった。
だからこそ末っ子のお弁当づくりは、いつも面倒を見てくれている義理の姉の力を借りず、自分1人でやり遂げたいと思った。
そして始まったお弁当作り生活。仕事を終えて帰宅後、晩酌をして本を読んだり、録画したテレビを見たりしているとうっかり4時を過ぎる日も。慌てて5時半まで仮眠をとった後、一気にお弁当を作る。……そんな日々だった。
「和食屋らしく、カッコいい曲げわっぱとか使いたかったんですけどね、汁が漏れると息子が文句を言うもんで現代的なプラスチックのお弁当箱に詰めてましたよ(笑)」
笠原さん自身も高校1年の時に母親を亡くし、父親がお弁当を作ってくれた。
「夜遅くまで仕事をしている親父が早起きして作ってくれるのが申し訳なくて、途中でお弁当作りを断っちゃったの。短い期間だったけど、親父のお弁当はめっぽうおいしかった」
長男は高校を卒業し、地方の大学に進学。家を出て1人で暮らすようになった。長女も社会人、次女は大学4年と、長い子育てもようやく一段落した。
修業時代に出会い、お酒好きで意気投合
江理香さんとの出会いは正月屋吉兆で働いていた修業時代。沖縄から上京し、ホールで働いていた江理香さんと仕事帰りに一緒の電車になることもあり、そのうち世間話をするように。聞いてみると同じ年、しかもお酒好きという共通点も見つかる。
「今度飲みに行こうよ」
誘いあうようになり、4年ほど付き合って結婚。3人の子宝に恵まれた。笠原さんが父親の跡を継いだ焼き鳥店『とり将』も大繁盛店となり、その後開店した恵比寿の日本料理店『賛否両論』も客足が途絶えなかった。
多忙な日々を送っていたある日、江理香さんが自身の身体の異変に気づく。それまで病気ひとつしたことがない健康体。忙しいと自分のことを後回しにするのは誰でもよくあることで、健康診断などもまともに受けていなかった。
「ちょっと気になることがあるから病院行こうかな……」と不安げに打ち明ける江理香さんに対し、詳しくは聞かなかったが「絶対に行ったほうがいい」と笠原さんも強くすすめたという。
検査を受けた夫人が持ち帰った診断書には見慣れない文字が並んでいた。2人ともまるで実感が湧かず、
「もしかして、がん……?」
と顔を見合わせた。子宮体がんだった。ドラマなどで描かれる場面と異なり、実際の告知シーンは意外なほどあっけない。主治医からがんの告知と同時に治療方針について話があった。
「そっか……手術で取れるんだ。早く見つかってよかった」
と2人でほっと胸をなでおろした。全摘手術、抗がん剤治療も気丈に乗り越え、江理香さんはすっかり回復したように見えた。
「かみさんの実家がある沖縄にも旅行に行きました。みんなで一緒にプールで泳いで、大好きなビールも飲んで、もうすっかりよくなったと家族全員が思っていました」
再発を告げられたのはそんな矢先の出来事だった。定期検診で病変が見つかり、その後、入退院を繰り返した。
笠原さんは時間をやりくりしては通院に付き添ったり、入院中のお見舞いに行った。“これなら食べられそう”と連絡が入れば作って江理香さんに持っていったという。
「長女は中学生だったけれど下2人は小学生。そんな子どもには酷だろうと闘病中も病名などは伏せていました」
仕事を辞めるという選択肢が頭をよぎるときもあったが
「どれだけの人に迷惑をかけるんだろうと思うと、無責任に辞めるだなんてとても言えませんでした」
しかも当時、名古屋に支店を初出店する話も進んでいた。これまで事業拡大の話には反対していた江理香さんが唯一「挑戦してみたら?」と、背中を押してくれた話だった。
「お店がメディアで取り上げられるようになってから、本当にいろんな仕事の依頼が来たけれど、かみさんはいつも決まって反対していたんです。“今あるお店、お客様を大切にするのが先決”って」
そして“あなたはすぐに人を信用してしまうからそんなんじゃ騙されるよ”と苦言を呈した。江理香さんが応援してくれた支店の話を中途半端に投げ出すことはできないとなんとか踏みとどまった。
亡くなった夫人から粋なプレゼント
待望の名古屋店の開店を見届けることなく、江理香さんの命は尽きた。闘病生活は2年ほど、享年39。
夫人が亡くなってから初めて迎えた笠原さんの誕生日、デパートから腕時計の完成を告げる電話がかかってきた。
それは江理香さんからのサプライズプレゼントだった。その昔「カッコいいなぁ。いつかこんな時計してみたいよなぁ」と笠原さんが語っていた憧れの時計。型番までしっかりと覚えて、夫に内緒でプレゼントしようと生前、予約を入れていたのだ。
「腕時計は僕の宝物です。何度も修理に出したり、ベルトを交換したりメンテナンスをしながら今も大事に使っています。一生使い続けます」
幼かった子どもたちもすっかり大きくなった。
「小さいころはケンカばっかりしていたけれど、今は家族のグループラインで近況報告したり仲良くやっています。
離れて暮らす長男も自炊しているようで、もやしを炒めただけの彩りも何もない料理の写真を上げてきたり(笑)。僕も休みの前には、ごはんに誘ったりしてます」
子どもたちは皆、飲食関係の仕事には関心が薄く、社会人の長女は他業種に就いた。就職活動真っただ中の次女も別の道を目指しているという。
「ヒーヒー言いながらやってるけど、自力で頑張ろうとしてるし、親の僕ができることなんてないですからね」
娘さんたちが小さいころ、バレンタインのチョコを作る時には「手伝うつもりがついつい最後まで仕上げてしまった」という笠原さんだが、今は手を貸さず見守り役に徹している。
今後やりたいことを聞くと、
「落ち着いたら休みをもらって、47都道府県巡りをしたいですね。その地方にしかない郷土料理もたくさんあるし、全国には腕利きの職人がいくらでもいますからね!
漬物上手のおばあちゃんだとか川魚料理の名人とか。そこで修業させてもらえるとうれしいなぁ。仕事終わりに地元の温泉に入ってビール呑んで、せっかくだからエッセイも書かせてもらったり……そんな生活、最高ですね」
笠原さんの夢は膨らむが、
「問題はただひとつ。いつ休みをとるか……(笑)」
YouTubeチャンネルも大好評
開始3か月で登録者が30万人突破!
「こんにちは。武蔵小山の“みのもんた”こと、笠原将弘です」
今年6月末に開設した公式チャンネルでは時折冗談を交えながら笠原家の秘伝レシピなどを惜しみなく公開中。「YouTubeには手を出さないつもりだった」が、顔なじみのディレクターさんに口説かれてついに始動。
「魔が差した」と本人は笑って言うが、人の頼みを断れない人情味あふれる気質ゆえのことだろう。着実に笠原ファンを増やしている。
(取材・文/飯田美和)