ジャニーズ事務所による2回目の記者会見は、1回目とは決定的に違った

 昨年のアカデミー賞授賞式で、ウィル・スミスが壇上で同じ俳優のクリス・ロックの顔面を殴ったとき、テレビの前にいた世界中の観客を驚かせたのは、実際のシーンよりも、出席者の”リアクションの薄さ”だった。その後は何事もなかったかのように、最後までスムーズに進行した。ウィル・スミスの行動が問題とされたのは、授賞式が終わった後だった。

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 どうして誰もウィル・スミスを即座に会場から追い出さなかったのか?と後から多くの人が思っただろう。しかし、このように、公の場で何か予期しない問題となることが起きたとき、即座に適切な対応をとるのはそれほど簡単ではない。

1回目の会見とは劇的に違っていた

 しかし、10月2日のジャニーズ事務所の記者会見でジャニーズアイランド社長の井ノ原快彦が驚くような発言をしたとき、出席者の対応は、たんに反応しないというところにとどまらなかった。

 2日、2回目のジャニーズ事務所による記者会見は、1回目の会見とはかなり違っていた。前回より部屋は狭く、時間は短く、ルールを厳格に守られることを求められた。司会者も変わり、しっかりした、しかし理解のある女性ではなく、礼儀正しい中年の男性――要するに日本のエスタブリッシュメントの典型――が務めた。

 300人が詰めかけた会場で、ほとんどの記者が手も挙げない中、何人かの記者は真剣に質問していた。そのうちの2人は、厳しい(が長い)質問で知られる望月衣塑子などベテラン記者だったが、彼らが必死に手を挙げても、司会者は彼らにマイクを渡すことはなかった。

 民主主義が機能していれば、司会者はジャーナリストをそんなふうに扱う勇気はないだろう。会社側は厳しい記者にこそ質問をさせ、ジャーナリスト仲間たちもこれに加担したはずだ。もし、それが行われなければ、ジャーナリズム協会が会見後に事務所に抗議するだろう。

 菅義偉の記者会見では、望月に質問する機会を与えていた。中国外務省による記者会見でさえ、不愉快な質問に対してオープンだ。

あろうことか、記者が記者の質問を遮った

 だが2日、「ジャニーズの国」では、主要メディアは厳しい質問を受けないというジャニーズの姿勢を支持した。そもそも会見に参加しながら質問もないような、年配の男性記者たちが、2人の記者を怒鳴りつけ、黙らせようとさえしていた。

 結局、2人の記者はマイクなしで、直接質問するよりほかなかった。確かに会社側が決めたルールは逸脱していたのだろう。そこで、井ノ原が行ったのが、自分の子どもを含めた子どもたちを盾にすることだった。

「この会見は全国に伝わっておりまして、子どもたちも見ている。(性加害)被害者の皆さんには、自分たちのことでこんなにもめているんだと思ってほしくない」。「ルールを守る大人たちの姿を見せたい。どうか、どうかお願いします」。

 井ノ原が守るべきは、会社が決めたルールよりも子どもたちだったはずだ。しかし、このとき、井ノ原は、ジャーナリストを黙らせるために、あるいは会社の想定したとおりに会見を進行させるために、「子ども」を利用した。

 何十年もの間、井ノ原とジャニーズ事務所の幹部たちが最も遵守してきた "ルール"は「オメルタ(マフィアによる沈黙の掟)」だった。創業者が何百人もの子どもやティーンエイジャーに性加害を行っていたのを、「うわさでは聞いたことがある」として、それを知ろうとすることを避けてきた。

 井ノ原やジャニーズ幹部がこれ以上口にしてはいけない言葉があるとすれば、それは「子ども」ではないだろうか。ジャニーが存命中、井ノ原が自らの子どもをジャニーズに入れたとは思いがたい。

 シャルル・ペローの有名な物語『妖精たち』では、妖精が高潔な若い女性に、話すたびに真珠やダイヤモンドを吐き出すという贈り物を与え、悪質な妹には、話すたびにカエルやヘビを吐き出すという苦境を与える。

 井ノ原の話を聞いたとき、子どもの頃のこのイメージが脳裏をよぎった。しかし、私がカエルやヘビを見ている間、出席していたメディアは井ノ原の口から真珠やダイヤモンドが出てくるのを見ていた。抗議するどころか、会場は拍手喝采に包まれ、報道の自由を阻む井ノ原と司会者の古典的な手法を支持したのだ。

(出所)ジャニーズ事務所の公表資料などから東洋経済作成

会見で露になった主要メディアの「最悪な部分」

 今回の会見は、ジャニーズ事務所の新たな不正や落ち度を明らかにしたものではなかった。今回の会見は日本の主要メディアの最悪な部分を暴露したのだ。つまり、記者たちは生やさしい質問をするだけで国民の知る権利の役に立たないだけでなく、同時に同胞であるはずのジャーナリストが質問しようとしているのを邪魔するのだ。

 このパターンは日本の多くの機関や企業でも同じだ。多くの場合、「認定されたジャーナリスト」はほかのジャーナリストとの接触さえもコントロールする。私の経験では、外国人記者が行政機関の記者会見に立ち入ろうとすると、省庁ではなくジャーナリスト(記者クラブ)に許可を求めなければならない。

「性犯罪はプライベートな問題だと思われがちだが、性犯罪は多くの人の精神衛生にもかかわる大きな問題だ。性犯罪は権力の乱用があるところでは必ず起きる」と、フランスで性犯罪について長く取材してきた記者、マリーヌ・トゥルチ(メディアパート)は強調する。

 同氏は自分の仕事についてこう説明する。「性加害の物的証拠を見つけるのは難しいことが多い。しかし、調査しているうちに、証言がすべて似ている被害者、メールのやりとり、目撃者の証言など、ある時点でストーリーの確かな基礎となる要素を見つけることができる。そして、その被告発者と対峙する。すべての要素を揃えることができたら記事を公表する」。

 フランスでさえ、性暴力はまだそれほど深刻に受け止められていない。「告発の73%が捜査されないということは、性犯罪者が依然として逃亡し、自分は無実だと主張し、被害者を苦しめていることを意味する」と彼女は嘆く。

 日本にとって今回のジャニーズのスキャンダルは、性加害・被害問題報道のあり方、そして、メディアが自らこうした罪に対して黙認という形で加担した場合、どうするべきかを考える契機になっているはずだ。

 ジャニー喜多川による性加害問題を取り上げ、今回の騒動のきっかけとなったBBCドキュメンタリー『J-POPの捕食者 秘められたスキャンダル』を監督であり、調査を主導したメグミ・インマンはこう話す。

「このドキュメンタリーの影響には圧倒された。私たちが波及効果を起こしたのだ。この話は長い間主要メディアでは取り上げられなかったが、ソーシャルメディアが大きなうねりとなった」と彼女は振り返る。

 インマンは日本がまだ性に対して後ろ向きであることに気づいている。「日本ではセックス自体がタブー視されているように感じる。日本で『セックス』という言葉を口にすることはほぼなく、『エッチ』という言い方をされる。だが、セックスについて率直に話さなければ、性的虐待のような複雑な問題についてどう話すことができるのかわからない」。

 インマンはまた、今回のスキャンダルに対する日本の反応を、数百人もの人々に性的暴行をおこなったイギリスの有名司会者、ジミー・サヴィルのスキャンダルに対するイギリス人の反応と比較してこう語る。

「ジャニーが存命中、同氏が所属事務所の少年に性的虐待していたことが民事裁判で確認されたが、それでもその事実はメディア、芸能界、テレビ局、ジャニーズ事務所、警察によって無視され、深刻に扱われることはなかった。事務所はジャニーが従来通り働くことを容認し、裁判所が指摘した加害を繰り返させた」

 一方、「サヴィルの場合、亡くなった後に性的虐待疑惑が浮上した。新聞社やテレビ局は同氏の犯罪を暴露すると同時に、BBCやその他の機関は(メディアなどが)隠蔽していたことについて報道した。BBCは何週間にもわたって、自社の報道や、芸能界、他の報道機関についても検証報道を行った。サヴィルが出演した番組は、BBCではもう見られない」。

「しかし、ジャニーが亡くなった後も、日本ではそのようなことは起こらなかった。私たちがBBCのために調査をしていたときも、誰もこの話題に近づこうとしなかった。日本が前進するためには、『なぜこのようなことが起きたのか 』ということをメディア自身が自問自答する必要がある」

「これがスタート」

「日本のメディアの対応は、特にこれだけ多くの被害者が語った後では、十分とは言えない。一部の大手テレビ局などには、このような事態を招いた責任がある。これは始まりに過ぎない」と語るのは、自身も性被害を受け、元TBS記者に対する損害賠償請求で勝訴しているジャーナリストの伊藤詩織さんだ。

「今日、視聴者は変わった。私たちはもう、このような話を無視することはできない。人々は『なぜこの話をもっと早く取り上げなかったのか』とSNSで問いかけている。少しずつだが、性暴力について語られるようになってきたと感じている。これがスタートではないか」

「民主主義は暗闇の中で死ぬ(Democracy Dies in Darkness)」とは、ワシントン・ポスト紙のスローガンである。ジャニーズを取り上げる日本の主要メディアは今こそこの言葉を噛みしべるべきだろう。


レジス・アルノー Régis Arnaud
『フランス・ジャポン・エコー』編集長、仏フィガロ東京特派員
ジャーナリスト。フランスの日刊紙ル・フィガロ、週刊経済誌『シャランジュ』の東京特派員、日仏語ビジネス誌『フランス・ジャポン・エコー』の編集長を務めるほか、阿波踊りパリのプロデュースも手掛ける。小説『Tokyo c’est fini』(1996年)の著者。