洋菓子研究家・食卓芸術家、今田美奈子さん(88)撮影/伊藤和幸

 伝統は永遠の流行─。

 フランスの伝統的な焼き菓子「カヌレ」は、昨今、洋菓子店やホテル、コンビニが競い合うように販売するほど人気を博している。もう少したてば、クリスマスソングが聞こえ始めるだろうか。ドイツのフルーツケーキ「シュトーレン」は日本でもクリスマスの定番になった。

洋菓子研究家・今田美奈子さん

カヌレもシュトーレンもチーズケーキも、みんな今田美奈子さんが日本に広めた!

「伝統は本物であり、永久不変に続くものなんですね」

 たたずまいは、どこまでも凛としていて、その口調は温かさと優しさにあふれている。洋菓子研究家、食卓芸術家の今田美奈子さんがいなければ、ヨーロッパの伝統菓子が、日本でこれほどまでに定着することはなかったかもしれない。「カヌレ」も「シュトーレン」も「チーズケーキ」も「クグロフ」も、今田さんによって伝えられた。

 1971年、36歳のときにヨーロッパの国立や州立の製菓学校へ研修旅行に出かけた。子ども2人を育てる普通の主婦だったが、現地で出合った伝統菓子に魅せられ、今田さんは甘くて優雅な新しい轍を切り開いていく。

「人ができない体験をできたのは、時代の声だったと思うんですね。私の財産は、たくさんの人の声を聞けたことです」

 お菓子の作り方を教えるように、一つひとつ丁寧に説明し、自身の人生を顧みる。その言葉は、人生を豊かに彩るためのレシピそのものだ。

部屋の中で海外に憧れた病弱な少女時代を経て

18歳のころ、5人姉妹で。左上が今田さん

 各種の写真フィルムなどを扱う会社や不動産会社などを経営する社長を父に持つ、5人姉妹の長女として、今田さんは育てられた。お嬢さまではあったが、「私の人生はビリから始まったようなもの」と笑う。

 6歳のとき、「夏風邪をこじらせてしまい、40度の高熱で倒れ、3日間生死をさまよいました。私は、一度あの世に行っているんです(笑)。回復したものの、自力で歩行することができず、医師からは小児リウマチとも関節炎とも告げられました」

 外出することが困難になったため、部屋には少しでも運動ができるようにと、天井から吊り輪がぶら下げられたという。

体力をつけるため少しでも運動をするように、吊り輪を下げられた子ども部屋

「本を読んだり、吊り輪にぶら下がったり……外国に行くなんて夢のお話だと思っていました。ただ、海の向こうには広い世界があって、ノーベル賞を受賞する人や、人の役に立つすごい人がいるんだなと思いをめぐらせていました。今思えば、このとき憧れが芽生えたのかもしれません」

 寛解すると、普通の女の子として学校生活を送った。大学を卒業し、22歳で結婚。子どもも授かり、主婦として穏やかな生活を送っていた。時代は、高度経済成長期。「普通」でいることが何よりも「安定」をもたらし、夫が働き、妻が家事をこなすことが当たり前だった。

 36歳のとき、お菓子業界の団体のひとつが25人ほどの菓子職人を募り、ヨーロッパの製菓学校へ研修旅行に出かけるという計画を教えてもらった。その会長は、当時、話題となっていたバウムクーヘンを販売していた「ジャーマンベーカリー」の日本のオーナーで、そのご息女は今田さんと中高時代に仲のよかった学友だった。

「外国に行くという憧れを叶えたかった」

 母に思いを伝えると、母は「子どもの面倒は私が見るから行ってらっしゃい」と背中を押してくれたという。「幼少期の私を見ていたからかもしれないわ、でも母の言葉には続きがあったの」そう今田さんは微笑むと、

「これから先は、日本は洋風の生活を送るようになる。日本のみなさんに、きちんと教えてあげられるようなリーダーシップを持って学びに行きなさい─と。でも、私は教えるなんてとんでもないと思っていました。私は食べるほうが好きで、作るほうはさほど関心がなかったんです。軽い気持ちで参加するつもりでしたから」

 ところが、ヨーロッパでその価値観はひっくり返る。

「今思えば、明治生まれのごく普通のベテラン主婦だった母の言葉が、私の人生を変えてくれたんですね」

 製菓の専門家を対象とした1か月ほどの研修旅行に、名もなき主婦が参加する。異例だったが、異なる視座があったからこそ、新しい風が吹いた。

正しい伝統を学ぶことが本物を知ることに

洋菓子研究家・食卓芸術家、今田美奈子さん(88)撮影/伊藤和幸

 '70年代初頭、日本ではいちごのショートケーキやアップルパイが人気のお菓子として君臨していた。先述の研修旅行に参加した菓子職人は、「ショートケーキを超えるような派手なお菓子を見たいと思っていた」という。

「ふたを開けると、ザッハトルテなど、見た目には地味なお菓子ばかりが紹介されたので、『これでは売れない』とみんながっくり肩を落としていました。しかし、私はヨーロッパの伝統菓子が、同じ形と名前で何世紀にもわたって愛され続け、食卓の文化遺産として定着していることに衝撃を受けました。日本ではおやつに過ぎないお菓子が、文化として根づいている─、そのことを伝えたいと思うようになったんですね」

 熱は冷めることなく、今田さんは短期留学を繰り返し、ヨーロッパの伝統菓子を学んでいく。中でも、マリー・アントワネットをはじめとした、お姫さまが愛したお菓子に魅せられた。

「私は身体が弱かったから、遠くへ遊びに出かけることが限られていました。かごの中の鳥のように育てられるお姫さま生活に、シンパシーを感じたんでしょうね。フランスの美食辞典『ラルース・ガストロノミーク』に記載されていることはもちろん、アントワネットの故郷を訪ねて取材するなど、可能な限り伝統文化を肌で感じるようにしました。プロの世界とは、正しい伝統を知ることだと気づかせてくれたんですね」

 新宿髙島屋4階にあるティーサロン『サロン・ド・テ・ミュゼ イマダミナコ』では、マリー・アントワネットが愛したお菓子を、資料に基づいて再現した「マリー・アントワネット妃のお菓子たち」を食すことができる。今田さんが伝えたお菓子を食べることで、私たちはマリー・アントワネット妃の素晴らしい世界を追体験することができるのだ。

 今田さんの生徒で第1期生でもある、『きょうの料理』(NHK)などに出演し、長年、アシスタントとして行動を共にしてきた菓子研究家の小菅陽子さんは、「先生からの教えで大切にしていることは、本物を求めるという姿勢です」と話す。

「書物からだけではなく、今田先生は体験からもお菓子の歴史をひもといていく。洋菓子の世界において、五感で感じてきたものを伝えるということを実践したのは、今田先生が初めてです。私も現地まで足を運ぶことを心がけています。今は、情報がとても多く、どれが本物かわかりづらい。だからこそ、今田先生の教えが響く」(小菅さん)

 本場ヨーロッパの伝統菓子に触れ続けた今田さんは、伝道者として日本に洋菓子ブームを起こしていく。'74年に発刊された『ぶきっちょにも作れるケーキとクッキー』(主婦の友社)は、全国の女子高生たちの流行本となり、「パティシエ」というまだ耳慣れない職業が、彼女たちの夢の第1位に選ばれるまでに躍進した。

「女性誌『non-no』でチーズケーキの作り方を掲載すると、家庭で作れる身近な洋菓子として全国に広がりました。私が、『伝統のお菓子を紹介しただけです』と告げると、編集長は、『伝統は永遠の流行です』とおっしゃった。この言葉が、今日までお菓子の道を歩み続ける励みとなり、座右の銘になりました」

 例えば、アフタヌーンティーの習慣は、イギリスの第7代ベッドフォード公爵夫人のアンナ・マリアが19世紀に始めたものだが、現在の私たちの生活にまで浸透している。なぜ、そうした文化が残り、貴族でもない私たちは、今なお嗜んでいるのか?

 アフタヌーンティーのシンボルである3段のティースタンドを前にして、今田さんがまさしく「先生」のように説明する。

「アフタヌーンティーの習慣は、サロンで行われていました。サロンは、紅茶を飲みながら、夫の悪口を言ったり愚痴をこぼして輪ができる場所。そして、サロンのテーブルは食卓ではないため小さかったんですね」

 場所を取らない3段のティースタンドは、狭いテーブルでも気兼ねなくお茶菓子を楽しめるように生まれたそうだ。歴史を知ると、目の前のティースタンドから物語が見えてくる。なんだか得した気分である。

 本来、広いテーブルであればティースタンドは必要ないそうだが、「お茶を飲みながら優雅な気分でお互いに心が癒される。今の時代にも必要ですよね(笑)。それに、お姫さま気分を味わいたいという人は、いつの時代にもいらっしゃる」

 伝統は、時代に必要とされている文化。らせん階段を上るように、決して同じ場所は通らないが、めぐりめぐって永遠の流行となる。

お菓子の世界の可能性を広げて人生を豊かにする

作成したシュガーデコレーションの前で

 前出の小菅さんは、「今田先生はアイデアマンであり実業家でもある。お菓子の可能性を広げた方」と付言する。

 '82年に、日本橋三越で行われた展覧会『貴婦人が愛したお菓子展』は、その最たる例だろう。王妃たちが愛した40~50点のお菓子を並べ、彼女たちの生涯を添えた同展は、新聞で特集が組まれるなど社会現象になるほどの盛況を博した。

「展覧会の提案を岡田茂社長(当時)にすると、『あなたは10万年に一人しかいないアイデアマンだ』と言われました(笑)。きっと、みなさんにもそうおっしゃっていたんだと思うのですが、パッと扉を開けてくれるような人に出会えるか否かは、人生においてとても大事なこと。そうした空気ってあるんですね。不思議な感覚なのですが、その不思議な世界を楽しまないといけませんね」

 人が人を呼び、これまで全国の美術館やホテル、有名百貨店で行った展覧会は90を数え、延べ1000万人以上が訪れた。「作る」「食べる」という実用的なイメージしか持たなかったお菓子の世界は、「憧れ」や「夢」をまとうものへと広がった。

 かつて、普通の主婦だった今田さんの活躍は、お菓子の世界にとどまらず、女性の生き方にまで影響を及ぼし、彼女たちは今田さんが教えるお菓子教室に殺到した。

 その象徴が、現在の「今田美奈子食卓芸術サロン」の母体ともいえる、原宿の「薔薇の館」だった。この場所に通い、自身の結婚式のウエディングケーキを作ったのが、俳優の三田寛子さんだ。

「最初の出会いは、女性誌の企画でバレンタインのチョコレートの作り方を今田先生から習うというものでした。私は、お菓子作りが趣味だったので、そのときに『いつか自分の結婚式のウエディングケーキを作りたいんです』とお話しすると、先生は『あなたならできるわよ。大丈夫。その夢を実現しなさい』って。当時、私はアイドルでしたから、そんな夢を人に伝えるとみんなから笑われました。でも、先生だけは『私がお手伝いするわ』って背中を押してくれたんです」(三田さん)

 それから7年ほどがたった24歳のとき、三田さんは中村芝翫(当時・橋之助)さんと婚約する。

「結婚式まで1年あるので、夢を叶えたいと思いました。ですが、先生とは久しく会っていない。自分で作りたいと中村の母に伝えると、私も驚いたのですが……、今田先生は女学校時代の2つ上の先輩にあたると。『素敵な先輩だから連れて行ってあげるわ』って、再びめぐり合わせてくれたんです。先生もとても喜んでくださって、『責任を持って教える』と言ってくださいました」(三田さん)

 仕事の合間をぬって、「薔薇の館」へ通った。徐々に完成できるようにと、長期保存が可能なイギリス発祥のシュガークラフトのウエディングケーキを、指導を受けながら作った。砂糖で作ったペーストや砂糖細工でコーティングしたケーキは、湿気を防いで保存すれば長くもつといわれる。

「ウエディング・シュガー・ケーキの上段は、これから生まれてくる子どもの記念日など、特別な日に食べるんですね。伝統の世界である歌舞伎役者の妻となる私と、イギリスの伝統あるケーキは、『ぴったりだと思う』と先生からおうかがいし、子どもができるまで、ずっと大切に保管していました。長男の橋之助が生まれ、お食い初めのときに口にしたことは、忘れられません」(三田さん)

 夢を叶えてもらった存在─、そう三田さんは話す。

「人生ってお菓子作りと似ていて、うまくいかないときもある。それでも、やっぱり甘い香りが漂うと幸せを感じてしまう。先生は、お菓子を通じて人生を教えてくれる。17歳から57歳の今にいたるまで40年間、ずっと憧れの存在。憧れなんて口にしていいのかわからないですけど、私にとって恩師です」(三田さん)

フランスの古城で暮らした日々が与えてくれたもの

 今田さんと話していると、自然と「先生」と呼んでしまう。ジャンルを作り上げた偉大な先駆者に違いないはずなのだが、権威からくる「先生」ではなく、親しみからくる「先生」なのである。

「いつからか“お菓子の女王”なんて呼ばれていますけど、私はお姫さまが愛したお菓子を研究し、みなさんに紹介しただけ。女王なんておそれ多いけど、今は面倒なので、『はい、そうです』と答えています、ふふふ」

 チャーミングな立ち居振る舞いに、ついつい調子に乗って、あれこれ聞いてしまう。

 今田先生にとって大きな転機は、やはり36歳のときの研修旅行だったのでしょうか? そう尋ねると、「生きていると、運命としか表現できないようなことがあると思うんだけど」とぽつりとこぼし、「そういう意味では、1990年に購入したフランス、ロワール地方のお城を持ったことが、私の人生で大きな転機だったと思います」と続ける。

 まるでおとぎ話のような話だが、今田さんは15年ほどロワール地方にある18世紀の古城・ロゼール城で城主として過ごしていた時代がある。

「バブルの影響で、原宿のワンルームマンションが1億円でした。ところが、たまたま案内されたロゼール城は、それよりも安かったんです(笑)。広大な3万坪の敷地に加え、和訳すると『薔薇の城』。その名のとおり、とても美しいお城でした。私は即決して購入し、生活できる状態に戻すだけでなく、18世紀当時のアントワネットがいた時代の様式に復元させるべく依頼しました。すると、城をよみがえらせた日本人ということで、現地の貴族の方と交流を持つようになったんですね」

城主をしていたフランス・ロワール地方のロゼール城

今田美奈子食卓芸術サロン

ロゼール城のテーブルセッティング

 自身が主宰する「今田美奈子食卓芸術サロン」(今田美奈子お菓子教室)では、お菓子作りだけではなく、テーブルセッティングと食卓芸術の授業である「サヴォアール・ヴィーヴル」や、世界共通の礼儀作法と日常のマナーを学ぶ「ラ・プリュ・ベル・ヴィ」といった講座も手がける。ロゼール城での生活があったからこそ、「私の人生は国際的なものになり、本物の食卓芸術やマナーをお伝えすることができた」と振り返る。

 どんなことを教えてもらったのかと質すと、「今でもゾッとする話があるんです」と微苦笑する。

「ロゼール城の修繕が終わり、貴族の方々を呼んでお披露目パーティーをする当日です。観音開きで開くはずの正面の扉の片方が開かないんですね。片方だけでも入れますから、私は気にしなかったのですが、侯爵夫人が血相を変えて、『開かない片方の扉は壊してでもいいから開放しなさい』と言うんです。聞くと、貴族社会では片方の扉しか開いてないと、『自分よりも目下の人を迎え入れる』という意思表示になると。築いてきた信頼をすべて失うと指摘され、慌てて扉をこじ開けました(笑)。おもてなしというのは、文化なんですね」

 イタリアでは、歴史の教科書に登場するあのメディチ家の末裔とも交流を深めたという。皇室や外国のロイヤルファミリー、それこそモナコ大公やダイアナ妃などとも親交を育むことができたのは、今田さんが日本に西洋菓子を広く伝えた「有名人」ということ以上に、国際的なプロトコール(国際儀礼)を知る本物の「文化人」だからだった。

「老朽化やフランスの税金の問題もあり、ロゼール城は手放しましたが、シャトーでの生活が私を成長させてくれました。結婚前に備えるべき社交的なお付き合いや文化的な教養を教える学校をフィニッシングスクールといいますが、生きるための美学は、一生学ぶことができるんですね」

 だからこそ、「本物に触れることが大事」。今田さんの言葉には、とてつもない説得力が宿っている。 

 本物を知る人物として、今田さんと交流を持つ高級中国料理レストラン「銀座飛雁閣」オーナーの藤本進さんに話を聞いた。数々の国内外のVIPが訪れる本物を提供する名店である。

「彼女に会った人はみな、大きな刺激を受けるはず。今田先生は、広く言えば女性の権利を高めた人物でしょう」

 開口一番、藤本さんはそう今田さんの印象を語る。「今田美奈子食卓芸術サロン」はこれまでに全国から学びに訪れた生徒が2万人を超えるそうだ。藤本さんは「すごいこと」だと舌を巻く。

「慕われていなければできないことです。もちろん、その裏にはご苦労もあったと思うが、今田先生は決してネガティブなことを口にしない」

「達人ですよ」、そう藤本さんは語る。

「偽物に興味がないという視点を持てば、おのずと本物にだけ触れていくことができる。嫌なこともあったでしょうが、必要なものだけ、自分に意味のあるものだけを口にする。そうじゃないものは口にしない。口にするということは、影響を受けているわけだからね。影響を受けているうちは勝てない。だから彼女は、負けないんでしょう」(藤本さん)

 過去、今田さんに苦難がなかったわけではない。妬みや嫉みを抱かれたこともあったであろう。

 怒りやむなしさとはどのように向き合ってきたのか、今田さんに問うと─。

「思わぬ大きな損害を受けたり、誹謗中傷に遭ったりしても引きずらず、問題を大きくしないで終えることです。そして、咎め立てを口にしないこと。何事も貴重な体験と受け止めて、学びとします。逆に友人や応援してくれる人たちを思い、感謝する気持ちを強く抱くことです。そして幸運を呼び寄せる努力に切り替え、幸せの風が吹く日を信じて前進していくことが秘訣であり、人生の目標のひとつとしています」

 アントワネットをはじめとしたお姫さまたちも、これほどまでに達観していたのだろうか。

まだ夢の途中。健康の秘訣は未来に希望を持つこと

日本ペンクラブ会長でもあった作家の故・遠藤周作さんとのつながりで日本ペンクラブ会員にも

 9月14日、東京・代官山にあるフランス料理店「レストラン・パッション」に、今田さんはいた。

 鮮やかな白のスパンコールのドレスと白いヒール、胸元にはマダムイマダブランドの「青蜂」の美しいブローチが輝く。三越カルチャーサロン特別企画「今田美奈子先生の華麗なる世界〜歴史が伝える伝統のフランス料理」で熱弁を振るう今田さんは、1時間のトーク中、一度も座ることはなかった。

「ただのおもてなしではなく、幸運を呼ぶおもてなしでないといけない」と話すように、「青蜂」のブローチには幸福、聡明、裕福、勇敢を意味するアクアマリンが使用され、蜂は勝利の象徴だという。来客に幸せを感じてもらう─、徹底してその意思が通底している。

「乾杯はグラスを必ず下から上に上げてください。それでパワーを上げるんです。私も応援してますから、みなさんも応援してくださいね。では、乾杯」

 今田さんがそう挨拶し、乾杯を終えると、会場は心地よい高揚感でいっぱいになった。

「ムースの会」会員たちと研修旅行の記念撮影

「今田先生は、生き方を教えてくださるメンターでもある」と話すのは、この日、愛知県から参加した伊藤さよ子さんだ。「今田美奈子食卓芸術サロン」の卒業生からなる「ムースの会」の会長でもある。

「先生のサロンや教室には、人生に迷いを感じて学びに来られる方もいます。先生は、そうした人を寛容に受け入れ、パワーを与え、生き方を教えるんですね。指導するときも、穏やかで優雅、女神のようです」(伊藤さん)

 写真に応じ、たくさんの人に囲まれる今田さんの姿は、確かに光を灯していた。

 まるで、ニューヨーク港の自由の女神像のような、船上から目にする象徴のようでもあった。

 今田さんは、「まだ夢の途中にある」と語る。日本に、ヨーロッパの伝統菓子を本格的に紹介し、また、第一線で活躍し続け半世紀がたとうとしている。

「私がこれほど長く続けることができたのも、応援してくださる方々、卒業生の『ムースの会』、生徒、『アソシアシオン(友の会)』、各界の応援してくださる方々や身近な人々の支えがあったからこそと感謝の思いしかありません。

 母から『リーダーシップを持って学びに行きなさい』と言われたときは、まったくそんなつもりはなかったのですが、今では私の使命であると気づき、これまで生きてきました」

 取材中、今田さんの背筋はブレることなく、まっすぐ目を見て話し続ける。

「私の健康の秘訣は、年齢を気にせず、未来に希望を持つことです。これからも美と健康をテーマにしたサロン講座やお菓子セットなどもお届けしたいと思っています。そして私の体験から、未来に希望を持ち自信に満ちた子どもの教育にも力を寄せたいと願っています。希望が多すぎるかしら(笑)」

 成し遂げたいことはたくさんあるといい、中でも民間外交としてのおもてなしを構築したいと目を輝かせる。

「これからこそ、私の夢の集大成です」

 今田さんの教えや哲学は、多くの女性に影響を与え、連綿と受け継がれている。今田美奈子という存在自体が、ひとつの伝統として息づいている感さえある。ともすれば、彼女が切り開いた道はこれからも多くの女性たちの光となり、永遠の流行として憧れ続けられるに違いない。

取材・文/我妻弘崇

あづま・ひろたか フリーライター。大学在学中に東京NSC5期生として芸人活動を開始。約2年間の芸人活動ののち大学を中退し、いくつかの編集プロダクションを経て独立。ジャンルを限定せず幅広い媒体で執筆中。著書に、『お金のミライは僕たちが決める』『週末バックパッカー』(ともに星海社新書)がある。

 

城主をしていたフランス・ロワール地方のロゼール城

 

庭にはプールもあった

 

18歳のころ、5人姉妹で。左上が今田さん

 

体力をつけるため少しでも運動をするように、吊り輪を下げられた子ども部屋

 

体力をつけるため少しでも運動をするように、吊り輪を下げられた子ども部屋

 

専業主婦だったころ。後列左が夫。父母、長女、長男と

 

作成したシュガーデコレーションの前で

 

「ムースの会」会員たちと研修旅行の記念撮影

 

クリスマスイベントの打ち上げ風景

 

日本ペンクラブ会長でもあった作家の故・遠藤周作さんとのつながりで日本ペンクラブ会員にも

 

テーブルアートで世界で初めてフランス政府芸術文化勲章を受章

 

テーブルアートで世界で初めてフランス政府芸術文化勲章を受章

 

ロゼール城のテーブルセッティング

 

日本西洋料理最高技術者協会「八重洲会」の金章授与式にて

 

老舗フランス料理店「レストラン・パッション」にて行われたイベントにて

 

まだまだ夢は続く。「これからも叶えたいことがたくさんある」と語る(撮影/伊藤和幸)

 

洋菓子研究家・食卓芸術家、今田美奈子さん(88)

 

カヌレもシュトーレンもチーズケーキも、みんな今田美奈子さんが日本に広めた!