同僚から“ノジマのばあば”と呼ばれる、熊谷恵美子さん(82)は69歳から13年間、家電量販店ノジマの店頭で働いている。現在も原付バイクで通勤する熊谷さんは、ノジマの80歳以上雇用継続者の第1号だ。
接客は最高の脳トレ
「80歳になったときは辞めようかと思いましたが、店長に相談したら、まだ働けるなら続けたらって言ってくれたんです。私は店長を通じて聞いたのですが、社長も本人がやりたくて元気ならいいと言ってくださったそうで」(熊谷さん、以下同)
今は週3回、1日4時間のシフトで働いている。
「ほかの店舗でも同世代がいますし、シニアが働きやすい職場であることも大きいです」
業務内容は多岐にわたる。そのひとつが朝から行う“品出し”だ。バックヤードでパソコン画面に表示されたその日の入荷商品と、実際の納品伝票を照らし合わせてチェックして、店頭に並べていく。
また、お客さんから部品の注文などが入れば、伝票を作るのも熊谷さんの仕事だ。間違いがないように細心の注意を払い、完璧にこなす。
「慣れているからできるだけですよ。ただ、視力は年齢なりに下がっているので、商品の品番を間違えていないか不安になることも(笑)。そんなときは、レジのスタッフに確認してもらいます」
特にレジ担当の若い女性2人とは付き合いも長い。彼女たちにとって、年上の熊谷さんはお母さん的な存在だ。悩み事などの相談にも気軽に乗り、関係性も良好。
「私も仕事面でわからないことや不安なことを2人によく相談しています。面倒を見てもらえて助かっていますね」
ノジマの店頭業務は適材適所。熊谷さんは慣れないと操作が難しいレジは担当していない。その代わり、商品を探す高齢客を見つけ出し、接客をするのが得意だ。
「同年代のお客さんの気持ちがよくわかるので、じっくり話を聞いて要望に合う商品を紹介します。わかりやすい言葉での説明を心がけていますが、要は“おせっかい焼きのおばあさん”なのよ(笑)」
腰痛がある熊谷さんは実際、電気マッサージ器を購入。自宅で愛用しているが、新製品が出れば必ずスペックを確認するクセがついている。
また、手先が器用なのでプレゼント用の包装もうまく、スタッフに重宝されている。クリスマスや子どもの日、敬老の日などのギフトシーズンには、進んで包装を手伝う。
「人と関わっていることが好き。この仕事が私にとっては最高の脳トレね」
夫の介護で悩んだ60代、仕事が息抜きに
実は68歳のとき、働く上で大きな岐路に立たされた。当時72歳の夫が認知症を発症したのだ。
「夫は最初、自分が話したことを忘れる程度の症状でしたが、そのうちに台所のガスコンロの消し忘れを頻繁に起こすようになりました」
帰宅して目にしたのは、真っ黒な鍋。みそ汁が焦げたにおいが漂っていた。火事を恐れ、対策として火が止まるガスコンロに替えたり、極力、火を使わないようにした。
しかし、夫の症状が悪化していくと、熊谷さんは追い詰められ、心身を消耗した。とはいえ、同居する娘も仕事が忙しく、なかなか介護に参加するのが難しかった。
「今まで怒ることも、意見を押しつけることもなかった夫が、物を蹴ったり投げつけたりするように。予想外の行為に戸惑いました」
介護と仕事の両立は難しいと考え、夫の主治医にも相談したという。
「先生は『介護だけをしていたら心身共に疲れ切ってしまう。周りの人の力を借りて、仕事を続けられる環境づくりをしてみては』と、おっしゃったんです。自分の不安な気持ちを受け止めてもらえて、救われました」
近所や職場の人に、夫の認知症について包み隠さずに話したところ、励まされ、心も身体も楽になった。
「当時の店長にも相談をすると『気にせず、今までどおりで大丈夫ですよ』と受け入れてくれてうれしかったですね」
その後、出勤日を減らし、勤務時間を2時間短縮してもらい15時までの勤務に。夫が亡くなるまでの7年間、在宅介護を続けることができた。
「家の中で認知症の夫のお世話を一日中していたら、おそらく私は途中でギブアップしていたと思います。周りの人の助けがあったから、働きながら夫の介護という困難を乗り越えられましたね」
伯母の家を出たくて手に職をつけた20代
熊谷さんの人生は「働きづめ」だったという。その記憶は幼少期にまでさかのぼる。
戦後、父が亡くなり、母は父の弟と再婚するが、家は貧しかった。そのため、熊谷さんは小学校3年生から20代まで岩手県で呉服店を営む母方の伯母の家に身を寄せる。商人である伯母一家はとても厳しく、小学生のころから遠い井戸への水くみ、風呂焚き、店番などの仕事をさせられた。
「母に捨てられたという悲しみもあって、伯母の家での暮らしはつらかったですね。『働かなくてはいけない』という思いが染みつきました」
高校卒業後、洋裁学校と編み物教室で手に職をつけた。24歳のとき、編み機の販売会社に頼まれて、編み機を購入したお客さんの自宅を訪問し、無料で1回2時間ずつ3回、編み機の使い方を指導する講師の仕事に就いた。
「家で働いても給料はもらえないし、伯母の家から出て、ひとりで暮らしていきたかったんです。手に職があれば食いっぱぐれないかなと(笑)。当時は必死でしたね」
その後、32歳で結婚。トラック運転手の夫とともに埼玉県に移り住む。子どもが小さいころは内職をしていたが、夫の失業を機に44歳で呉服店に正社員として入社した。
「バブルの時期で着物はよく売れたんです。伯母の家業でしたから、呉服の知識もあったのもよかったですね。その女社長はすごくいい人で気が合って、今でも仲良しです」
15年間、精力的に働いたが時代が変わり、呉服店は閉店。59歳からノジマに買収される前のラオックスで働き出した。
「身内に恵まれず、『なんでこんな人生なんだろう』と愚痴をこぼすこともありました。でも、出会う人には恵まれて、どこの職場でも嫌な思い出はないんです。
50歳ごろ、知人に占ってもらったら、『熊谷さんは老後がいいよ、すごく』と言われたことがあります。今になって思うと当たっていたのかも。自分でも信じられないぐらい、いい人たちに巡り合ってきたんだと感謝しています」
生活費には基本、年金を充て、パートの収入は孫へのお小遣いや趣味の旅行に費やす。
「70歳からボウリングサークルに入会したんです。週に1回、仕事のあとに参加するのが今の楽しみ。メンバーは60~70代の人が中心で、今、私は女性の最高齢。スコアは全然上がりませんが、90歳まで続けるのが目標です。
昔はすごい頭痛持ちだったんですが、年をとってからはなくなってすこぶる健康体に。好きなことをしているから健康でいられるんだと思うんです」
充実した老後を過ごす熊谷さんだが、できないことも増えてきた。
「困ったときは便利なものを使うように。得意だった洋裁では針に糸を通せなくなったんですが、糸を押し込むだけの新しい針があるんですよ。最近、耳の聞こえが悪くなってきたので補聴器も検討しようかと思っています」
まだ働けるうちは仕事を続けたいと語る、その表情は明るい。
(取材・文/松澤ゆかり)