放送作家・⾼⽥⽂夫(75)撮影/山田智絵

 マイクとペン。その2つだけをずっと操ってやってきた。マイクとペン。そこにちゃめっ気をのせられることが、最大の強みだった。

 マイクはラジオ、ペンは活字。しゃべることと書くことで世の中を徹底的に遊び倒し、大人の娯楽や教養、洒落っ気やおふざけを放ち続けている。

立川志らくの運命を変えた⾼⽥⽂夫

大学1年生のときに落語『堀の内』を披露する高田

 今秋、十三回忌を迎えた落語家・立川談志師匠には「東京のお笑いはおまえに任せる」、そう遺言を残された。証言者は、談志師匠の弟子で「高田センセーが私の運命を変えた」と断言する立川志らく(60)だ。こう付け加える。

「高田センセーが目をかけた芸人は、みんな売れているんです、これはすごいこと」

「高田先生」ではなく「高田センセー」。現在は俳優としても活躍する伊東四朗(86)、戸塚睦夫さん(1973年、42歳で没)とお笑いトリオ、てんぷくトリオを組んでいたコメディアンの三波伸介さん(1982年、52歳で没)が司会を務めていた番組『三波伸介の凸凹大学校』(テレビ東京系)で、センセーは構成作家を務めていた。

 俳句の授業のコーナーに「高田センセー」として登場し、三波さんが「うちのセンセー」と言い出したことがきっかけで、日本で唯一、カタカナの「センセー」が誕生した(ちなみに三波さんは大学の先輩だったため、センセーに優しくしてくれたという)。

 日本大学芸術学部(日芸)卒業後に飛び込んだ放送作家の世界。「10年間で睡眠時間は8時間だった」とセンセーが大仰に多忙さを例える地獄の20代、『ビートたけしのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)での構成とたけしの相方としてさらなる多忙を極めた30代、40歳のときに始まり今へと続く『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』(ニッポン放送)のラジオパーソナリティーとしての姿を通し、笑いに溺愛されたセンセーの核心へ迫る。

35年続くラジオでのルーティン

2019年には『ラジオビバリー昼ズ』30周年イベントを

 月曜日、センセーの1週間は『ラジオビバリー昼ズ』のオンエアから始まる。

「1日の時間割? そんなの普通だよ、アイドルじゃないんだから」と照れながらも明かしてくれたのは、朝8時起床、新聞を読み、ワイドショーをザッピングし、9時30分から朝食。10時半に、落語家の立川志らら(50)が運転する迎えの車に乗り、10時40分には局入りする流れだ。

「(放送前には)スタッフとバカ話をするだけで、打ち合わせはしない、もう35年だよ。反省もしない。放送したらそれでおしまい。(放送作家でタレントの)永六輔は『放送とは字のとおり送りっ放し』と言っていたからね」

 オンエア後の午後は書斎で本を読んだり原稿を書いたり。夕方からライブに出かけたりするが、何もなければ7時には晩酌を楽しんでいるという。

 ラジオ局でセンセーを迎えるのは、株式会社ミックスゾーンの山口美奈さん(60)。アルバイト時代から出たり入ったりしながら約30年ぐらい、『ラジオビバリー昼ズ』に関わってきた古参ディレクターだ。

「もしかしたら、高田センセーという人は3人くらいいるんじゃないか」と、山口さんは真顔で“高田センセー3人説”を唱える。「だって、追いつかないくらい『あれ見たか』『これ読んだか』と聞かれるんです。センセーはテレビも見ているし、ラジオも聴いている。その上ライブにも行く。とにかくマメ。おまけにご自身も出演する。3人どころか、こんな75歳いる?っていう感じです」と、毎週会うたびにドギマギさせられるという。実際にセンセーの吸収力は、高性能の感度に裏打ちされている、

「75年間、アンテナ立ちっぱなし。今がいちばん鋭いし、言っていることもいちばん面白い」

 そう本人が自認するように、芸能界はもとより、世の中全般への感度が高い、高すぎる。

週刊誌も新聞も全部目を通す

「週刊誌も新聞も全部目を通す。スポーツ紙の芸能面を読んでいれば、『新しい学校のリーダーズ』が流行っているのだってわかるし、ニュースの裏で芸能界の誰が動いているのかもわかる(笑)。宝塚も歌舞伎界もわが日大も、きちんと見続ける。最近は、ジャニーズも大変だなって。今の代々木公園が昔、アメリカ軍人の住むワシントンハイツだったころ、ジャニー(喜多川)さんの少年野球チームと、こっちの野球チームとで対戦していたからね」と、意外なつながりを打ち明ける。

 フリーアナウンサーで司会者の玉置宏さん(2010年、76歳で没)が司会を務めていた『ロッテ 歌のアルバム』(TBS系)の構成に関わったことが、センセーの芸能全般への視線を耕したという。

「玉置さんは歌謡界の生き字引。そんな人から歌謡曲の歴史や芸能界の力関係を教わった」

 ニッポン放送の3スタが、『ラジオビバリー昼ズ』の根城だ。センセーに快適にしゃべってもらうための環境づくりは、申し送りノートに記述されている。

「日本茶とコーヒーを準備しますが、コーヒーはミルク半分、砂糖半分。それをセンセーの右側に置きます。喉をいたわるためのフィニッシュコーワも必需品。それからドーナツクッション。あれをイスに置いて、イスの高さはいちばん上まで上げる。センセーいわく『俺は座高が低いんだ』です」(前出・山口さん)

 11時までQシート(進行表)をチェックして、新聞を読み、トイレに行き、センセーは準備を整える。

「ラジオのマクラにあたるオープニングでしゃべることは、ある程度事前に決めているようです。われわれスタッフにも秘密にしていることもあるし、逆にわれわれの反応を見て、ウケ具合を探ることもあります」という笑いの儀式を経てのいざ本番。「いちばんいい席で楽しませていただいている」と山口さんはニコニコだ。

 センセーはスタジオに入るとまず靴を脱ぐ。スリッパにはき替える。「こうしたほうがしゃべりやすいよ」と、前出・玉置さんが教えてくれた。実際、リラックスしてしゃべれるという。

 本番に入れば、あとは共演者との丁々発止。猛スピードでしゃべり倒す。

「調子がいいときも悪いときもこれが俺だから。それを聴かせりゃいいんだよ、というスタンス。“今”と“ライブ”をとことん大切にする」と前出・山口さん。同局の生ワイドショーで最長、35年の歴史を誇る『ラジオビバリー昼ズ』は、センセーの今日を生で聴かせる、そんなドキュメンタリー性も帯びている。

 1989年4月10日に始まった同番組は、ニッポン放送開局70年の来年、放送開始35年を迎える。東京人の暮らしぶりや芸能界の先輩後輩の近況などをタイムリーかつふんわりと伝え続けている番組。来年6月28日、東京・有楽町の東京国際フォーラム ホールAで『高田文夫のラジオビバリー昼ズ リスナー大感謝祭~そんなこんなで35周年~』を開催する。

気がついたら元号が平成に

『ラジオビバリー昼ズ』が始まる直前、1989年の正月をセンセーは病院のベッドの上で迎えていた。39歳の暮れにダウン。原因は多忙による過労だった。放送作家としてレギュラー番組や特番の台本を何本も書く一方、立川談志に認められ落語立川流の真打ちに昇進し、披露パーティーやら披露目の会が続き、身体が悲鳴を上げた。

「内緒で病院に入ったんだけど、気がついたら元号が平成になっていた」

 と、小渕恵三官房長官(当時)が掲げる『平成』の文字も、後日知ったという。

 もうじき40歳、不惑になる直前。「やるだけのことはもうやったし、ぼんやり1、2か月過ごしていたんだけど、うちの母ちゃんも『やめていいわよ、何とかなるわよ』って。一緒になって50年になるけど、収入のことは若いころから何も言わない」とセンセーは回想する。「古本屋がやりたかった」と言う。

 敬愛する放送作家の先輩、永六輔さん、青島幸男さん、大橋巨泉さんの発言も、気になっていた。それは「40過ぎて放送作家やってるバカいねぇよ」という言葉。「40過ぎたらアイデアなんて出てこない。若いやつの商売だよ。40過ぎたら俺たちの商売は3つしかない。政治家か小説家かラジオパーソナリティーか」

 その言葉を意識する30代の後半、センセーが「やるだけのことはもうやったし」と満足感を得ていたのは、30代を通して巷を騒がせた『ビートたけしのオールナイトニッポン』の成功を指す。

「お互いに単体では世の中には出られなかった。合体できたから出られたと思う。何しろたけしの気持ちを同時通訳できたからね。わかりやすく伝えられた。いってみれば“笑いの戸田奈津子”」とセンセーが振り返るビートたけしとの出会い。なぜそんな運命が待ち受けていたのか。時を巻き戻してみる。

 22歳、大学卒業と同時に放送作家の大御所、塚田茂さん(2008年、82歳で没)に弟子入りした。テレビ局の入り口で、幹部が総出で迎える存在。『夜のヒットスタジオ』『新春かくし芸大会』(共にフジテレビ系)や『8時だョ!全員集合』(TBS系)など放送史に刻まれる伝説の番組を立ち上げた巨匠のもとで、センセーは腕を磨き始める。

「テレビ局の制作デスクで夜中に原稿を書いて、俺の字が読める印刷屋に原稿を渡して、飲みに行って、帰ってきてはテレビ局のソファで寝る。すると朝、『高田ちゃん、こういうのあるんだけど書いてくれない』とどんどん依頼が舞い込む。高田に頼むと早くて面白いよ、と評判になる。(塚田一門の)いちばん下っ端だから、頼みやすい」

 そんな多忙な日々を送っていたが、ふと、わびしくなる瞬間があったという。

「コントを書いても、それをやるのはアイドル。フィンガー5とかアグネス・チャン、天地真理とか。軽いオチで成立するんだけど、書いているうちに虚しくなって。三波伸介さんの仕事が入ると、笑いのプロは面白いなと思うんだけど、当時の演芸は隅っこの隅っこだったから」

 そんなセンセーに、コメディアンのポール牧さん(2005年4月、63歳で没)と青空球児(82)が同じ情報を耳打ちしてきた。

「高田ちゃん、最近浅草行った?」「たまには行ってみなよ、たけしっていう頭がおかしいのがいるから」「放送では使えないよ、でも高田ちゃんと気が合うと思うよ」

若かりしころのたけしとの運命の出会い

2019年に『江戸まちたいとう芸楽祭』にてビートたけしと

 両者の誘い文句に乗って、センセーは浅草・松竹演芸場へと足を運ぶ。そこで出会ったのが若かりしころのビートたけしだった。

「たけしさんの歌で『浅草キッド』ってあるだろう。あの中で、♪客が2人の演芸場で♪っていう歌詞があるけど、あの客の1人は必ず俺だから」

 すぐさま、飲もうかとなり、朝まで飲んですっかり意気投合。

「別れ際には、明日どうしてんの、って恋人同士みたくなっちゃって、毎日飲んでたね。世の中に出たら面白いんだけど、出ちゃいけないんだろうな、と思うほど、ハチャメチャなネタだったね」

 そう考えたセンセーに、'80年代が味方した。漫才ブームの到来。吉本が売り出したB&B、紳助・竜介、ザ・ぼんちに対抗し、関東にもこんなのがいますと、ツービートを押し出すことに成功。それがハマった、今風に言えばバズりにバズった。

 ニッポン放送はそんなたけしに目をつけ、仲介者としてセンセーに相談を持ち込んだ。

「岡崎(正通)さんっていうタモリさんを仕掛けた、タモリさんと同じ早稲田のジャズ研の先輩にあたる人が、『高田ちゃん、話があるんだけど、漫才師を1人だけを使うってできない?』って。俺なんかもずっと、漫才師は2人で使うっていう頭があって、この常識に凝り固まっていた。漫才師のバラ売りはありえなかった」

 まさにコロンブスの卵。早速センセーは、たけしの所属事務所・太田プロダクションに掛け合った。

「これはこれは高田亭、何のご用件で」と迎えてくれた社長夫妻に用件を伝えると、副社(=副社長)はイスを180度回転させたという。

「四谷三丁目の通りを30分ぐらい無言で眺めている。エーゲ海でも見えんのかなと思っていたら、ぐるっとイスを回して『わかりました、お貸ししましょう、高田ちゃんなら』。ただし条件があって、『高田ちゃんがそばについていること。周りが知らない人ばかりだと、たけしは人見知りが激しくてしゃべれないから。太田プロのお願い』」となったという。

 ビートたけし&高田文夫コンビが成立した瞬間だった。

『ビートたけしのオールナイトニッポン』

 1981年1月1日、新聞のラテ欄を見たセンセーは驚いた。そこには『ビートたけしのオールナイトニッポン』と表記されていたからだ。

「芸名を知らなかった(笑)。たけちゃんとかツービートのおしゃべりのほうとか思ってたから、『ビートたけし』にはびっくりだったね」

 1クール、春までの3か月の約束で始まった番組。スタジオに一緒に入ったものの、当初、しゃべるのはたけし1人で、センセーはメモを差し入れていたが、たけしのしゃべりのスピードに追いつかなくなり、口をはさむようになった。それがリスナーに大ウケ。作家の小林信彦さんが、

「木曜日の深夜のラジオが大変なことになっている、放送の歴史を変える革命だ」

 という評論を書いたことで、番組の継続が決定。1990年まで10年続く長寿番組になった。

 同時期、テレビでは伝説のバラエティー番組『オレたちひょうきん族』が放送され、タケちゃんマン人気が大爆発。コントの台本を書いていたのはセンセーだった。

若い才能をきちんと育てる“選芸眼”

『ビートたけしのオールナイトニッポン』は、笑いを模索する多くの若者を刺激した。

 ノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランの影響を受けた後輩ミュージシャンを“ディランズ・チャイルド”と呼ぶが、脚本家の宮藤官九郎(53)や爆笑問題の太田光(58)ら、多くの“たけし&文夫ズチャイルド”を、同番組は生み出した。

 センセーに影響を受けた逸材が芸能界のまん真ん中に育つ一方で、センセーは若い才能に目をつける、選球眼ならぬ“選芸眼”を持つ。

「高田センセーに目をかけられた」という立川志らくは「恩人も恩人ですよ」とセンセーに深く感謝し続けている。

 出会いは、日芸の落研の夏合宿。大学4年のときだった。センセーの前で各自が得意ネタを披露したが、本寸法(正統派)でアプローチする学生が圧倒的な中、志らくは現代風ギャグをちりばめて落語『後生鰻』で笑いを取りにいった。

「これがハマって、『目に浮かぶよ、おまえが売れている姿が』とまで言ってもらいました」

 夏休み明けに家元、立川談志師匠を紹介され、そのまま入門。ラジオの生番組で「放送コードアウトのネタをしゃべってセンセーを嘆かせたり、映画『異常暮色』を撮った際には、『こんな映画作りやがって』と落胆された」が、それでもずっと志らくを見守ってくれたという。

ベースが人情。理屈でどうのこうのじゃなくて、人情で物事を判断してくれる」というセンセーの物差しに、救われたことがあったという。

「ドラマの『タイガー&ドラゴン』が流行り、落語ブームになり始めたころ、私は映画や演劇に夢中になって、調子に乗っていた。ある日、センセーに銀座に呼び出されて『おまえはそこにいるやつじゃないだろう』って朝まで小言ですよ。軸足が落語にあればいいんだけど、なかった。そこを高田センセーに見透かされていた。すげえ怒られ、釘を刺されましたね」

 その結果、志らくは軸足を落語に戻すことになる。さらに、談志の「どうして志らくはテレビに出ねえんだ」の言を受けたセンセーは現在の所属事務所、ワタナベエンターテインメントの会長に「志らくを頼む」と直談判してくれたという。

 きちんと芸人を引き上げる一方、そそのかすことも忘れないのがセンセーの流儀。志らくが続ける。

TBSの『ひるおび』にコメンテーターとして出演が決まったとき、『おまえ、終わりだな。まじめになっちゃうな、コメンテーターになったらつまんないこと言うようになるよ、つまらないヤツがこの世でいちばんの悪』

 そう面と向かって言われた志らくは「これは何か言わなくちゃいけない。乱暴でもくだらなくても、炎上しても構わない」と決断。置きにいくコメントでお茶を濁さないことを、センセーに注入された。

「要は、どれだけふざけるか。談志は非常識で生きろ、高田センセーは全部ふざけろ、その指針を守っています」

やはり高田センセーは3人いる!?

 センセーに気に入られること、気にされることは、芸人にとって大きな励みになる。

 毎週金曜日、『ラジオビバリー昼ズ』の前番組『春風亭一之輔 あなたとハッピー!』を担当している落語家の春風亭一之輔(45)は、オンエアの合間に「憧れの人ですよね」というセンセーに会いに行くことを習慣にしている。

「どうだ最近、何かあったか、という話をしますが、手ぶらでは行けない。最近見た映画や読んだ本など、何かしら持って行くようにしています。感想を後で言ってくれたりするんで」と喜ぶが「楽しみだけどちょっと緊張しますね」と本音もチラリ。

「結構、私の番組を聴いてくれたりしているんです。『聴いてるぞ』ということは言わないんですけど、『あのネタはいいよな』とにおわせてくれる。ドキッとしますね。トークのスピードと語彙力も75歳とは思えない。芸人が横並びでいると、誰をどうツッコんで生かすのか、本当に適切にツッコんでくれる」

 つい先日、漫才師ロケット団の三浦昌朗(49)と一緒に一之輔は、センセーにごちそうになったという。

「芸人は売れなきゃダメだって。売れないヤツのそばにいくと貧乏がうつる。売れてくれると俺はうれしい、可愛がっている芸人が有名になるのはうれしい、と言っていましたね」

 前出・山口ディレクターも「センセーは必ず、活躍する若い人を認める」と証言するように、若い才能をきちんと育て上げる。春風亭昇太(63)や松本明子(57)、松村邦洋(56)、磯山さやか(40)ら多くの逸材が『ラジオビバリー昼ズ』でトークの才を開花させた。そして誰もが「人気とは高さではなく長さ」というセンセーの了見を体現している。

 有名な人だから付き合う、得するから付き合う、ということをセンセーは一切しない。

「ただのファンでした」というところから、現在ではセンセーと2人で映画を見に行ったりする間柄になったテレビマンユニオンの渡辺誠さん(47)は「生」を重視する姿勢、人と会わなきゃいけないというセンセーの姿勢に影響を受けたという。

 今年公開された、俳優の筒井真理子主演映画『波紋』(荻上直子監督)のプロデューサーを務めた渡辺さんは、いわゆる業界人として情報に接しているが、「センセーのアンテナにはかなわない」と脱帽する。「人にも会う、落語会にも行く、頻繁に本屋に行っては面白そうな本を買い求め、新刊見本にも目を通して、映画もメジャー作だけでなく、『福田村事件』や『DAIJOBU』なんかも押さえている。どうしたらあんなふうになれるのか……」

 こうなると『ラジオビバリー昼ズ』の山口ディレクターが提唱した『高田センセー3人説』ががぜん真実味を帯びてくる。

 ちなみに渡辺さんは、高田センセーに直談判し、子どもにセンセーの一文字を頂戴し「文」と命名。現在、小学4年、10歳になったという。

意識を失い8時間も心肺停止状態に

「人が好き。人を楽しませるのが芸能だから、人が好きじゃないとダメなんだよ。それに“人間”というんだから、人の間がいいヤツがいいんだよ。間のないヤツをマヌケ」というセンセーは、小さなころから大人の世界を垣間見る環境に育った。

 父親は出版社の経営者として手広く、羽振りもよく、あまり家に帰ってこない。

「遠洋漁業に出ているのかと思うほど、家で見るのは年に数回。そのころは給料が現金手渡しだから、5人きょうだいの末っ子の俺がよく、オヤジのところへ取りに行かされた。見知らぬ家に行くと『高田』って表札がかかっていて、きれいな人が出てくる。これじゃ家に帰ってこないな、子どもながらに思ったね(笑)」

小学校の学芸会で自作のコントを(左から3番目)

 小学校のころすでに、東京の柳橋や神楽坂の料亭にも顔を出し、座敷のまん真ん中で、粋な世界を観察していた。

 自分の家が普通だと思っていたから、友達の家に遊びに行き、その家の父親が夕方帰宅すると「え? お父さん、帰ってくるんだ」と友達の常識を揺さぶった。家政婦が2人いて、文雄(本名。文豪・丹羽文雄と父が銀座のバーで飲んでいるときにセンセーが生まれ、その場で『文雄』をもらった)専属の家庭教師も3人。友達の家の父親が車を運転すると「え? 運転手いないの?」。

 車の後部座席から街並みを眺めながら、父親が指定するお座敷のある街へ。大人の世界に触れる文雄少年の、喜びだった。

 一方、家の中は、鳶の娘で、明るくしゃべり上手の母親がしっかり仕切っていた。

「おふくろ目当てに兄貴の友達やおまわりさんや渋谷の愚連隊だった安藤組も、ご飯を食べに来る。毎日宴会やっていたね。おふくろのしゃべりが面白くて、おまわりさんと安藤組に『ケンカしちゃダメよ』って。そこで子どもだった俺が時々、茶々を入れる。大人相手にしゃべって笑わせていると、大人に物おじしなくなるので年上に緊張しない。後年、芸能界でいちばん怖い人といわれていた喜劇俳優の三木のり平さんに可愛がってもらったのも、胸に飛び込んでいくからだったね」

 学校で父親のことを聞かれたら「出張って言いなさい」。それで出張という言葉を覚えた。

 小学校低学年から詩吟を習い、全国大会で3位になったこともある。小学3年生のころには、『雲の上団五郎一座』に興奮し『どんぐり一座』を結成。高校時代の文化祭では、エレキバンドのボーカルを務める一方で、早着替えで任侠の国定忠治役になる風変わりな生徒だった。ファッションではVANに目覚め、中学3年ですでにおしゃれ番長。雑誌『平凡パンチ』にも載ったほどで、「今も着ている。自分で服も靴も買いに行く」。

高校の学園祭で歌いまくった高田(右)

落語家・古今亭右朝との出会い

放送作家・⾼⽥⽂夫(75)撮影/山田智絵

 日本大学芸術学部に入学すると、後に古今亭志ん朝の弟子になる落語家・古今亭右朝(2001年4月、52歳で没)に出会い、センセーのプレーヤーとしてのマインドに火が付いた。

「今日あるのは、右朝のおかげ」とセンセーは感謝を忘れたことがない。「大学1年のときに、田島道寛(右朝の本名)はすでに落語が200席できた。それをマンツーマンで教えてくれた。くすぐり(ギャグ)はこっちがうまいから。明るさとギャグは完璧だけど、人の機微がわからないと指摘されて、山本周五郎を読むようにと言われた。機微ってなんだ? 18歳が言うか?と思ったけど、おかげで今、こうやって食えてる」

 放送作家になった22歳から今に至るまで「一度もレギュラーが途絶えたことはないね」という幸運の女神に溺愛され続けたセンセー。

「高田センセーの教えはとにかくふざけろ。どれだけふざけるかっていうと、高田センセーは全部ふざけている」と前出の志らくが指摘するとおり、いやいやそこで、そんなこと言う!という場面があった。

 2012年4月11日、センセーは自宅で「DVDで映画『マネーボール』を見ていたら、そのまま」不整脈で意識を失い、8時間心肺停止。その後、集中治療室で3か月意識がなかった。担当医も「ありえない。奇跡中の奇跡。8時間心臓が止まっていて生きている人はいない」と驚くほど、センセーを生かさないといけないという力が働いた。意識を取り戻したあと、大勢の医師や看護師に両脇を囲まれベッドのまま移動している際、センセーが言った一言こそふざけの極意!

「花魁道中か」。

 そう言ってみたが、医療従事者は聞こえないふり。小学校の同級生だった奥さんだけが聞き逃さなかったが、「ああいうときに、言うもんじゃないわよ」とぴしゃり。それを聞いた2人の息子も苦笑いだったという。

 ちなみに入院先は日大病院。「母校だから先生方が頑張ってくれたと思う」とセンセーは感謝する。

 どんなときでもちゃめっ気を忘れないセンセーは、「いちばん影響を受けたね」という人物に、放送作家の先人でタレントの永六輔さん(2016年7月、83歳で没)の名前を挙げる。

いちばん影響を受けた幻の師匠の永六輔さんと

 大学卒業後に放送作家になろうと決断したセンセーは、永さんに弟子入りを懇願する手紙を書いたという。

 返事が来た。そこには『私は弟子を取りません。私は師匠なし、弟子なしでここまで来ました。友達ならなりましょう』と書かれていたという。それから10年後のある日のこと。一通の手紙が、すでに自力で売れっ子になっていたセンセーのもとに届いた。
『今からでも遅くはありません。弟子になってくれませんか』。互いに江戸っ子ならではの、粋なやりとり。

 ちなみに『人間ドキュメント』の題字は、永六輔さんの揮毫。永先生と高田センセーの10年越しのエピソードで、この稿無事にお開きです。

<取材・文/渡邉寧久>

わたなべ・ねいきゅう 演芸評論家・エンタメライター。文化庁芸術選奨、浅草芸能大賞、花形演芸大賞などの選考委員を歴任。ビートたけし名誉顧問の『江戸まち たいとう芸楽祭』(台東区主催)の実行委員長。東京新聞、夕刊フジなどにコラム連載中。