斜里町がある知床は医師不足が深刻化しており、鈴木先生はなくてはならない存在だ。「患者さんの体調が少しでも良くなって笑顔が増えることが私の喜び」

 オホーツク海に面した北海道斜里町に移り住み、地域医療を支える鈴木夕子医師。大腸がんが発覚し、49歳で原発がんを手術で除去するものの、その後転移が見つかり、闘病7年、今も治療を続ける。「この地区に呼吸器内科専門医は私だけ。患者さんのためにも絶対、この病気を治すんです」抗がん剤治療をしながら、仕事と趣味を楽しむ鈴木先生の原動力とは。

49歳で大腸がんが見つかる

 12年前、地元の大阪から北海道の知床半島にある斜里町に移住した鈴木夕子先生。大腸がんの闘病を続けながら、呼吸器内科医としてへき地医療を支える貴重な存在だ。

移住のきっかけはサケ・マス漁師の夫との出会い(笑)。大阪の病院で働いていたころ、登別の関連病院が医師不足となり応援に行ったとき、出漁できない時季に流氷ダイビングのインストラクターをしていた夫と出会いました。趣味だったダイビングと阪神ファンという共通点で意気投合。43歳で結婚し、斜里町へ移住しました」

 5年後、49歳で大腸がんが見つかる。その1年前には便潜血検査で陽性だったものの、「自分は大丈夫」という過信があった。

実は中学2年のころ、虫垂炎になったのですが診断がつくのが遅れて腹膜炎まで進んでしまい、腸が癒着してしまったんです。それが原因で30年以上ひどい便秘体質。下剤が欠かせなかったので、潜血があったと聞いても『便が硬かったせいかな』としか思いませんでした

 体調が優れない日が続いたため、採血を依頼。そのときに測った腫瘍マーカーを見て、自ら大腸がんと確信した。

数値が桁違いに高かったので、初めて『私、がんなんだ』と認識しました。CT検査をしたら、大腸にあるがんがはっきりわかるほど。かなり進行していると思いましたが、転移はなく、このときの進行度はステージ2Bという診断でした

 手術は成功し、「これで治った」と安堵したはずなのに、次々と転移が見つかる。

「お腹の中のがん細胞が炎症を起こす『がん性腹膜炎』になったと同時に卵巣への転移が見つかり、両方の卵巣と腹膜を切除し、抗がん剤治療をしました。その後、さらに子宮転移で全摘出。肺にも転移しました。肺転移は腫瘍が約50個あったのですが、抗がん剤治療後に1個になり、ラジオ波で焼きました

 安堵したのもつかの間、今年に入ってから腹膜に転移したがんが大きくなり、腹直筋に広がった。

「お腹の表面から触れられるくらいの大きさに。このままだと、皮膚を突き破る可能性があるということで、8月に手術をしました。今は肝転移が多発していてステージ4。不安にもなりますし、決していい状態ではないですが、絶対に諦めません。自分でもまさか次々と転移して、こんなに苦労が続く闘病になるとは想像していませんでした

鈴木夕子先生のがん闘病ヒストリー

 しかし、へき地医療を担う鈴木先生に、仕事を休んで治療に専念するという選択肢はない。

今は2週間に1回、勤務している網走厚生病院の外来で抗がん剤治療を続けています。副作用もあって正直キツいですが、投与した翌日も外来を休んでいません。吐き気があって一日中ごはんを食べられない日もありますし、患者さんに『先生、今日具合悪そうだね』なんて気を使われたりする日もあります

生きがいは「クレイジーケンバンド」の“推し活”

 外来は基本週3回、気管支鏡などの専門的な検査も行っている。抗がん剤以外の治療は、母校の奈良県立医科大学の附属病院に飛行機で行き来して通院する。大病を抱えながらも地域医療を支えるのは、“代わりがいない”という責任感と自分がやらねばという使命感だ。

「ずっと寝ていられるならそのほうがいいですが、私しかいないですから。広大なオホーツクエリアで、呼吸器の専門医は私を含めて3人。半径100キロ以上の遠方から患者さんが来院されます。私が診ている患者さんは肺がんのステージ3以上の手術ができない人が多い。医師がいなければ治療を諦めざるを得ない人たちです。だから休んでいられないんです

 笑って話す姿は、壮絶な治療を続けているとは思えないほど明るい。そんな先生を漁師の夫も支えてきた。

夫だけは私が助かると信じてやまない人で、『おまえは運のいい女だから、死なない。大丈夫だ』と言うんです。そう言われ続けると私もそんな気がしてくるんです。悲観的になることがなく、ありがたい存在です

 誰でも再発を繰り返せば落ち込むのが当たり前。しかし先生は、「この転移の治療が終わったら治るかも」と毎回ポジティブだ。

夫婦共々阪神ファンなので、夫は『今年は阪神が日本一になったから、おまえのがんも治る』と言うんですよね。阪神優勝と私のがんにどういう関係があるんやろ?って笑いましたが、楽天的な夫に助けられています

 がんになると仕事や趣味を諦め、それまでの楽しみを手放してしまう人が多いが、鈴木先生は真逆。「楽しいことは諦めない」がモットーだ。

何もかもやめて治療だけに全精力を注ぐ人が多いですが、私は『がんなんかに人生の楽しみを奪われたくない』と思うんです。ただの病気のくせに人の命を奪うなんて図々しい。こうやって私の身体を徐々にむしばんでいくことに、ものすごく腹が立っています。自分の生活を守るために、私はとことん諦めずにがんと闘います

 がんになってから鈴木先生の生きがいとなっているのが、横山剣さんがボーカルを務める「クレイジーケンバンド」の“推し活”だ。

病気になったときに友人がくれたCDに『生きる。』という曲があり、ものすごく勇気をもらえたんです。そこから大好きになってファンクラブに入り、追っかけをしています

クレイジーケンバンド斜里町公演はものすごく盛り上がって大成功。「興行を企画するなんて人生初(笑)。斜里町のみなさんにも楽しんでいただけました!」

 好きな気持ちと持ち前の行動力が合わさり、なんと「クレイジーケンバンド斜里町公演」を1人で企画し、今秋に実現。実行委員長を務めた

事務所の方とやりとりしたり、斜里町に働きかけて助成金を申請したり、最初のころはほぼ1人でやり遂げました。10月に無事終わり、みなさんから『第2回もやって』と言われているので、元気でいなくてはいけません

次はがん完治が夢

 公演準備が大詰めを迎えていた8月には、腹膜に転移したがんの手術に伴い、腹直筋を切除。腹筋に力を入れる運動が制限されるようになり、長年の趣味だったダイビングやクラシックバレエ、ヨガをやめざるを得なくなった。だが今は、ウクレレサイズのギター“ギタレレ”を新たな趣味として始めたところだ。

ギタレレは、クレイジーケンバンドのギター・小野瀬雅生さんにすすめられて始めたばかり。まだ2回しか教室に行けていないので、これから猛特訓するつもりです

 がん闘病は今年で7年目になる。女性の死亡率1位でもある大腸がん。予防するためにも、「恥ずかしがらず検診に行ってほしい」と話す。

お尻から内視鏡を入れる検査はハードルが高いですが、進行してしまってからでは本当に遅い。がんは早期発見することが何より大切です。最近は女性医師が担当してくれる検診も増えています。40歳以上の方は3年に1回は大腸内視鏡検査を受けましょう

 転移を繰り返してもめげずに自分のがんに向き合う“不死身”の鈴木先生。現在の夢はがんの完治だ。

クレイジーケンバンドの公演も実現できたし、医師として自分に課したハードルも越え、たいがいの夢はかなってきました。だから、次はがん完治が私の夢。ステージ4の私が克服することで、地域の患者さんをはじめ、多くの大腸がんサバイバーの方に希望を与えたいと思っています

取材・文/釼持陽子

鈴木夕子先生●呼吸器内科医。大阪厚生年金病院(現:JCHO大阪病院)を経て、2011年、結婚を機に北海道斜里町に移住し、JA北海道厚生連網走厚生病院へ。働きながら大腸がんの闘病を続ける姿が、テレビなどで話題に。