《あんまり気にしない。どーせ何をしても言われます》
飄々として脱力感がありつつも、どこか優しさに満ちた言葉。これは、X(旧ツイッター)で23万人、インスタグラムで20万人を超えるフォロワーを持つ僧侶・籔本正啓さん(41)が書にした言葉だ。
僧侶・籔本正啓の言葉
籔本さんは“ネコ坊主”のアカウント名で、自身が住職を務める融通念佛宗の寺院・専念寺がある大阪市平野区の地域猫や、自らしたためた書の写真をSNSに投稿している。フォロワーの数が物語るように、その言葉の数々が多くの人の共感を集めている。
専念寺は「大坂冬の陣・夏の陣」が始まる少し前の1600年ごろ、豊臣方の家臣の離散に伴い、この地域で寺院を建立したのが始まりだという。
「この寺は、本当は50年ごとに建物を修繕しなきゃいけないのですが、もう80年ぐらいそのまま。しかも、当時の修理なんで、けっこうアバウトなんですよ」
本堂を見つめながらそう話す籔本さんが、自身の生い立ちを語ってくれた。
「この寺の先代の住職は、母の祖父でした。父は医療従事者で、寺の仕事には関わっていません。でも、幼少期から祖父・祖母の家として寺にはよく遊びに来ていました。私が5歳くらいのころから、父はかなり身体が悪くなっていたので、元気なイメージはあまりないんです。父は病院勤めでもあったので、常に病院にいた印象です」
幼いころから、寺は彼の居場所だった。
「当時はこの寺に跡継ぎがいない状態で、母は掃除など、祖母をよく手伝いに来ていました。その間、私は庭でどんぐりを拾ったり、虫を捕まえたりと遊んでいて。祖母の誕生日に葉っぱで作った似顔絵をプレゼントしたこともありましたね。そんな生活だったので、心情的には自分の家よりも“家”に近かったかもしれません」
母・啓子さんは、当時の生活をこう振り返る。
「夫が入院しているときは、ほとんど寝たきりの状態だったから、病院にごはんを食べさせに行っていました。その間は息子とその妹で留守番させていたので、ずいぶん寂しい思いをさせたと思います」
しかし、籔本さんの心にはこんな思い出が。
「父が病気で、家計が苦しいことは子どもながらにわかっていました。『小学一年生』とか、子ども向けの雑誌、あれを誕生日にねだることすら、ためらいがあった。ただ、いつかのプレゼントで母が『コロコロコミック』を買ってくれたことがあって、それがすごくうれしかったのを覚えています。1冊を2年くらい熟読していました(笑)」
小学6年生で寺を継ぐことを決意
籔本さんが7歳のとき、父が逝去。啓子さんと妹と3人で、寺に身を寄せることになった。
「父が亡くなる前は、母の親族の家を転々とする生活でした。妹と僕は別のところに預けられたことも。そんな背景もあって、父の死を聞いたときは、正直、悲しさよりも“母や妹とやっと一緒に生活できるのか”とホッとする気持ちもあったんです」
啓子さんは、当時の籔本さんの様子を鮮明に覚えている。
「夫が亡くなったときはちょうど息子の遠足があって。この子は父親が死んだってこともまだわからなかったから“遠足に行きたい”と言って聞かなくてね。私の姉が“お葬式は1回しかないんだから”と言い聞かせていました」
夫の治療にお金がかかっていたことを母は表に出さなかったが、何となく察していたという籔本さん。そんな大人びた一面を持つ一方で、はちゃめちゃなところもあった。
「授業中に消しゴムを投げるなど、落ち着きがなかったですね。授業中にふざけすぎて、母が先生に呼び出されたことも。そんなとき決まって“お寺の子なのに”と言われるのが、当時は嫌でした。そんなの関係ないだろ、と常々感じていましたね」
啓子さんは、そんな息子をいたく心配していた。
「目を離したらいつの間にか道端の溝にはまるなど、じっとしていられない子でしたね。私がお寺の仕事と祖母の介護で手いっぱいだったから、息子も気持ちが落ち着かなかったんでしょう。人に迷惑をかけることだけはしないでほしいと思っていました。道を外れたら、母子家庭を理由にされて、“あの家の子と遊んだらダメ”なんて言われるのはかわいそうじゃないですか」
息子の将来を案じていた母
その後、小学校時代の卒業式で、人生のターニングポイントとなる出来事が。
「卒業生が1人ずつ、壇上で“将来どういう人になりたいか”を発表したんです。そこで私が“人の役に立ちたい”と話したのを母が聞いて、別の寺で住職をしている伯父に伝えたところ、“そういう気持ちがあるなら、その子はお寺に向いている”と。ちょうど跡継ぎ問題もあって、私が継がない場合は母や妹とともにいずれ寺を出ていかなければならなかったので、使命感に似た気持ちを感じていました」
一方、啓子さんは、息子の将来を案じていたという。
「私は、お寺を無理やり押しつけることはしたくなかったんです。檀家の役員さんがいい方で、大学の費用も気遣ってくれたのですが、私は一切、手をつけなかった。もし息子が寺を継ぐことを拒否したときは、全額返さないといけないと思ったから。息子には“自由にしていいよ”って言っていました」
その後、親族が集まって会議が開かれ、気持ちを問われた籔本さんは、数日考えた上で寺を継ぐことを決意した。
「息子の思いはうれしかったけど、当時は義理人情に厚い時代だったから、若いこの子にそういうものが伝わるのかな、うまくやれるのかなって、心配な気持ちもありました。でも、人間が好きな子だから、性格的には合っているとも思いましたね」
籔本さんが大学を卒業するまでは、伯父が“代理住職”のような形で2つの寺を掛け持ちして面倒を見てくれた。
「専念寺の仕事で入ったお金は、すべて母に渡してくれました。伯父は母の姉の夫で、血はつながっていませんが、旅行に毎年連れていってくれるなど、父親のように私たちを可愛がってくれました」
“跡継ぎ”となることが決まると、中学生のうちから修行が始まった。
「私たちの宗派では、住職になるために10年かかります。伯父は、私が大学を出たらすぐに寺を継げるよう、中学に入ったら僧侶の資格を取るための“入衆”という儀礼を行い、仕事を手伝わせてくれました」
学生生活は修行の日々
そこから、普通とはちょっと違う学生生活が始まった。
「中学・高校時代は、夏休みや冬休みを利用して、融通念佛宗の本山に寝泊まりして修行。毎朝4時ごろに起きて、お経を読んだり講義を受けたりを夜9時まで。これが、意外と楽しかったんです。同年代で自分と同じような生まれの子たちと交流できる機会はなかったし、修学旅行のような感じで。家に帰るのが毎回、寂しいくらいでした」
高校に入学するとラグビー部に入ったが、途中で退部することに。
「夏休みの練習に参加できない理由を説明するには、寺の跡継ぎであることを言わなくてはならない。でも、“ちょっとお経読んで”とか言われるのが嫌で、言いたくなかった。だから“旅行です”なんて嘘をついたら、許してもらえなくて。うまく説明できず、やめることにしました」
大学に入ると、寺の手伝いがどんどん増えていった……と思いきや、籔本さんは意外な生活を送っていた。
「18歳のころ付き合っていた女性にフラれたのですが、あまりのショックで立ち直れないでいました。その女性に言われたのが“あなたは『自分』がなくて、頼りない”と。当時は意味がわからなかった。でもその後、スノーボードにハマって、自分でサークルを立ち上げて、とにかく熱中した結果、自信を持つことができたときに、“こういうことか”と。
まず自分の得意なテリトリーを見つけて、そこで一番を目指すことの大事さに気づいたんです。自信がついた結果、彼女もすぐにできました(笑)。面倒をみてくれていた伯父は、本当はもっと寺の仕事を手伝ってほしかったはずだけど、何も言わずに見守ってくれた。本当に感謝しかありません」
住職なのに字が下手すぎて…
青春を謳歌した籔本さんは、大学卒業後、当初の予定どおりすぐに寺を継ぐことに。
「23歳で住職はかなり早いので、周りにも“すごいな”と言われました。それまでずっと支えてくれた伯父は、言葉であれこれ言うよりも背中で教えてくれる人でした。大学を出るまでは伯父として接していましたが、23歳になって“師弟関係”になった瞬間から、自然と敬語に切り替わりました。住職に就任する式って、お金もかかるし、執り行うのがすごく大変なんです。でも、そこでも伯父はお膳立てしてくれました。その恩返しをしたいと思いましたし、檀家さんたちも自分が寺を継いだことを喜んでくれたので、“自分がなんとかするぞ”とスイッチが入りました」
現在、専念寺の檀家のまとめ役である“総代”を務めている淺井敦美さんは、当時の心境をこう語る。
「籔本さんが大学を卒業して住職として帰ってきたときは、うれしかったですね。みんな安心しましたよ。とにかくまじめで何事もコツコツやってくれますし、お寺に関することは檀家とみんなで話して決められるようにやってくれますから、そういう姿はすごく信頼できました」
一方、母・啓子さんは複雑な思いを抱えていた。
「うれしい反面、“この子の人生はこれでよかったのかな”というのが正直な気持ちでした。私が苦労してるから、この子も無理してるんじゃないかと。お金の面でも、苦労するんじゃないかと心配でした」
ところが、住職となった籔本さんが抱えたのは意外な悩みだった。
「とにかく、字が汚かったんです。下手すぎて、みんなに噂されてるんじゃないかと不安になるくらい。悩んでいたら、同じ宗派の住職さんが“習いにおいで”と声をかけてくれ、通うようになりました。その方は“ただ書いているだけじゃ上手にならないから、掲示板に書を張りなさい”と。当時、専念寺に掲示板はなかったのですが、檀家さんを交えた会議で、住職として初めて提案をさせてもらい、用意してもらえることに。初めのころは、難しい仏教用語なんかを張り出していました」
檀家とのコミュニケーションもとりつつ、順調に寺の業務をこなしていたが、一抹の不安を抱えていた。
「住職に就任したころから、将来的な“寺離れ”の予兆を感じていました。同世代の友人と話すと、“自分たちは世間とずれている”という違和感があったんです。核家族化が進む中で“お布施がしっかりいただける状態はいつまでも続かないと思いました。実際に檀家さんが離れたわけではなかったけど、社会の状況を考えてそう考えたんです」
結婚相手が見つからない
結婚相手を探すことにもかなり苦労したという。
「合コンに参加して“お坊さんです”と言うと、最初の食いつきはいいんです。でも、お付き合いとか結婚となると、サッと切られちゃうんですよ。寺に住むというのがハードルになるようで。先入観を持たれずに知り合いたかったので、住職であることを最初に言わないようにしていました。でも、いつかは言わなきゃいけないし、いざ伝えたら“別れる”と言われたことも5、6回あります。今考えれば、私の魅力不足だったと思いますが、当時は悩みましたね。“この人と結婚したいけど、寺だからダメなんだ”と」
そんな悩みを抱えていた籔本さんだったが、後に結婚する妻・綾香さんと出会ったのもまた、知人を交えて居酒屋で開催された合コンだった。
「当時、私は28歳、妻は20歳でした。初対面の印象は、笑顔がすごく可愛いなと思いましたが、8歳下なので、まさか結婚するとは思いませんでしたね。出会ったときも、寺のことは一切、話しませんでしたが、友達がバラしていました(笑)」
出会ったころの記憶を、綾香さんはこう振り返る。
「彼だけ仕事で30分くらい遅れてきたから、目立っていたんです。友人からお坊さんだということを聞いて、“初めて絡むタイプの人間だな”と思っていました。まじめそうなわりに、スノボやキャンプ、サイクリングとかアウトドアな趣味がたくさんあって、“面白い大人が来たな”と思いましたね。初デートは大雨の日に、明石の海沿いのカフェに行ってフェリーに乗ったのを覚えています」
出会って3か月ほどで籔本さんが告白し、交際がスタート。そこから思い出を重ねながら過ごして3年。結婚したのは籔本さんが32歳のとき。
「私からは、寺の大変さや仕事内容についてまったく話さなかったのですが、結婚後、妻には“それがよかった”と言われました。妻のご両親も40代と若く、寺に対してそこまで大変なイメージを持っている世代ではなかった。“お寺って何? 法隆寺?”みたいな感じで(笑)。快く受け入れてくれました」
とはいえ、何かと多忙なイメージがある“寺嫁”。実際に結婚してみて、困惑することはなかったのか。
「チームワークが大事なので、親戚付き合いは大切にしないとダメだなと、そこは粗相がないように気をつけていましたね。でも“お付き合いのストレス”みたいなのはありません」と綾香さん。
不妊、ヘルニア、お金…落ち込む日々
人生を共にする伴侶とついに結ばれた籔本さんだったが、その後の30代半ばは「人生でいちばんつらかった」と話す。
「まず、不妊治療に悩みました。私のほうに原因があって、より精神的にもキツいし、治療費がかさむ。1回で数万円なら安いほうで、数十万円かかることも……。そんな時期に、私がヘルニアを患って歩けなくなり、手術が必要に。加えて、将来的な“寺離れ”を考えると、お金の面でもどんどん不安が積み重なっていきました。人に相談できなかったのもつらかったです。寺の内部事情って、お坊さん同士ではあまり話さないんですよ」
不妊に関しては、跡継ぎのことを考えるとプレッシャーもあったが……。
「私はけっこう悩んでいたのですが、妻は精神的にすごく安定していて、すごいなと思いましたし、そのタフさに救われましたね」
そして結婚から7年後、籔本さんが39歳のとき、待望の長男が生まれた。
「医者には“今のままではできない”と言われていました。だから、生まれてきてくれたときは本当にうれしかったです。母も檀家さんも、子どものことは言わないようにしてくれていたけど、生まれたらすごく喜んでくれました」
お金に関する不安には、いったいどう向き合ったのか。
「当時、腰が悪かったこともあって、とにかく本を読んでいました。お金に関する本も読みました。それまでは、僧侶として金銭のことはあまり考えないのが美徳だと思っていたのですが、間違っていました。まずは寺の修繕に必要な金額を明確にしないと、この恐怖は拭えないと思ったんです。業者から見積もりをとって、用意すべき金額や時期がわかってくると、スーッと楽に。いちばん怖いのは、ゴールが見えていないとき。得体の知れない恐怖を感じていたんです」
“目標金額”がわかった籔本さんは「檀家さんだけに頼る必要はない」と考え、SNS発信を始める。そのきっかけは、先輩僧侶の言葉だった。
「“君のところは檀家さんが何軒いる?”と聞かれ、だいたいこれくらいですかね、と。“じゃあ、君の地域にはどれくらいの人が住んでる?”と聞かれ、平野区には約25万人が住んでいますと。そうしたら、“それが檀家さんだと思いなさい。25万人に伝わるような活動をするべきだ”と。言われた瞬間にはあまり意味がわかっていませんでしたが、後になって、そのとおりだなと。では、25万人に伝えるためにはどうしたらいいかと考えたときに、SNSで25万人にフォローしてもらえたら、お寺の活動が広がるんじゃないかと考え、力を入れ始めました」
最初の発信は掲示板に張り出していた“書”
それが2019年3月のこと。まず発信したのは、掲示板に張り出していた“書”だった。SNSも、ネット上の掲示板のようなもの。そこに“猫”の要素が加わった背景については、こう語る。
「結婚当初、私は本山の仕事も手伝っていたため、泊まりで家を空けることが多かったんです。妻が“お寺に1人でいるのが怖い”と言い、彼女は実家に猫がいたので、じゃあ飼おうと。里親募集のタイミングもよく、迎え入れることになりました」
藪本さん自身は、もともとは猫にいいイメージは抱いていなかった。
「うちの地域は、猫の交通事故やいわゆる“猫害”がすごく多かったんです。寺も柱を引っかかれたりお供え物を食べられたり、糞害もあったり。“困った子たちだなぁ”と思っていたほどでした。
でも、実際に飼い始めて違った一面に気づきました。猫って、仏教的な存在なんですよ。人との距離感をすごく大事にします。その姿勢から学ぶことは多いですよ。加えて、猫を飼い始めてから『さくらねこ』という地域猫活動の存在を知りました。簡単に言うと、猫が増えすぎないようにする活動ですが、猫に餌をあげていると“猫を増やしている”と誤解されることも多い。正しく伝えて広める必要があると思いました。そこでSNSで書を発信する際に猫の写真と『さくらねこ』の情報も添えるようになりました」
同じ地域で『さくらねこ』の活動を行っている内山たかこさんが、説明してくれた。
「野良猫が増えないようにするための活動として、TNRというものがあります。T=トラップで捕獲して、N=ニューター、すなわち去勢・避妊手術を施し、さくらの形に耳をカットして、R=リターン、猫を元の場所に戻す。これによって野良猫が増えるのを防げますが、手術を施された猫たちは“その代限り”の命になる。それならせめて、生きているうちは寝床やごはんを用意して、幸せに生きてもらおう、という思いが地域猫活動の根底にあります。決して、猫をいたずらに可愛がって増やすものではないんです」
こうした活動を広め、寺のことも知ってもらうためSNSを活用している籔本さんについて、隣町の八尾市にある光明寺の副住職・中村有希さんはこう語る。
「私は大学生のころからお寺の仕事をしているのですが、当時からインスタグラムやTikTokを使ってお寺のことを発信していました。その中で、同じようにSNSを駆使している専念寺さんを見つけたんです。2年ほど前、たまたまお寺の前を通ったときに、思い切って挨拶させてもらい、今年5月ごろには“コラボ御朱印会”をやらせていただきました。
籔本さんの御朱印がとても人気なのはSNSで知っていましたが、当日、その様子を初めて目にして、最後の1人まですごく温かく話していたのが印象的でした。参加されたみなさんが、御朱印を書いてもすぐには帰らないんです。籔本さんと話したいから近くにいらっしゃったり、“御朱印仲間”で談話されてたり、SNSを通じてそうしたコミュニティーを作っていることは、すごいなと思いました」
同業者だからこそわかる籔本さんのすごさがあるという。
「観光客が来るような寺じゃないと、人を呼ぶのって、すごく難しいんです。専念寺さんは、門のところにかわいいデザインのおみくじや絵馬なんかを用意していて、“中に入りたいな”と目を引くように工夫されているのを感じます。ほかにも、きれいな迦陵頻伽(仏教画)をキャッチコピーにするなど、お寺の魅力をすごく上手に発信されていると思います」
妻の綾香さんは、SNS活動においても籔本さんにとって良きパートナーだという。
「妻に書を見せて、“意味がわからない”と言われたらボツにして、“わかる”と言ってくれたら採用しています。私はどうしても文章が堅くなりがちなので、妻の反応は参考になりますね。彼女は仏教にもそれほど興味がないのですが、それがいいんです。仏教に詳しくない人でもわかる言葉にしたいので。まあ、SNSに“いいね”やコメントくらいしてくれてもいいのに……とは思いますが(笑)」
籔本さんは、この半年間が自身の大きな成長につながったと語る。
「SNSのフォロワーさんが一気に増えて、こうやって取り上げてもらえるようにもなりました。本来の目標である“寺の本堂再建”に近づけているのはうれしいです。一方で、家族のことをなおざりにしないようにとか、いろいろなバランスを見定める大切さにも気づけました。ひとつのことが成功すると、人間はついそっちを向いてしまう。でも、私には家族がいて、寺がある。いい意味で“中立”でいることを学べた半年間だったと思います。今までは何でも1人でやっていたのを、現在は知り合いを雇って、御朱印は若い子にも手伝ってもらうなど、背負い込みすぎないことも覚えましたね」
自死を踏みとどまらせた言葉
籔本さんの発信する言葉が、1人の命を救ったことがある。
「息子が2歳になったとき《アナタが生まれた時、沢山の人を笑顔にして幸せにしたんです。だから「私なんて」って思わないで》という言葉をプレゼントしました。不妊治療を経験していたから、彼が生まれたときには、みんながとてつもなく幸せを感じたんです。息子には、そのことをぜひ知っておいてほしい。そんな思いも込めて贈り、また自分の記録として言葉をSNSに投稿しました。
すると、私をもともとフォローしてくれていた1人の女の子が、投稿を拡散してくれました。SNSで、仲の良い人がアクションをしたら通知が来るよう設定している人もいますよね。その女の子のアクションに対して通知をオンにしていた別の女の子が、私の言葉を目にしてくれたんです」
ここで思いもよらない結果を呼ぶ。
「私の投稿と出合ったその子は、入ったばかりの高校になじめず、精神的にすごく不安定になっていた。そんな悩みから生きるのがつらくなり、思い詰めた彼女は1人で山に向かったそうです。そこで、偶然にも電波が入るところで、私の投稿を目にした。そして言葉を見たときに、ハッとわれに返り、状況を自覚して自分の行動が怖くなり、ギリギリのところでお母さんに電話をかけたと聞いています」
女子高生の母は慌てて父とともに車で娘を迎えにいった。
「その帰路で、お母さんがSNSに掲載していた私の連絡先に電話をかけてきてくださいました。“あなたのおかげで、娘が踏みとどまったんです。ありがとうございます”と。まさかそんな形で人を救うとは思ってもいなかったので、驚きました。言葉が持つ力の強さと、それを拡散してくれたSNS本来の魅力を感じました。その後、このお話を紹介してもいいかどうか、お母さんとお話しさせていただいたところ“同じような人が踏みとどまってくれるのであれば、拡散していただいて構いません”と、娘さんご本人からもご快諾いただきました。
生きることを諦めかけていた女の子も、自身の経験が誰かを助けたとなれば少し自信もつくだろうし、その経験をバネにして、友達が同じような気持ちで悩んでいるときに寄り添うこともできると思います。SNSは、そうやって人の思いがどんどんつながっていく場所なんです」
普段は活動に興味がないという綾香さんも、この話には驚いたという。
「聞いたときは鳥肌が立ちました。そういう切羽詰まった人に届くような状態になっているのに、驚きました。すごい活動をしてるのかもなって、ちょっと見直しました」
SNSを通じて専念寺が有名になっていることに関して、前出の檀家総代の淺井さんは、
「私はインターネットに詳しくないので、最初に話を聞いたときはびっくりしました。新聞の記事になっているのを見て知ったのですが、うれしかったし、どこか誇らしい部分もありました。彼の言葉で救われている人がたくさんいるというのは、素晴らしいことですね。おみくじが欲しくてほかの地域から来た人なんかを見かけると、有名になっているのを実感しますよ」
と、目を細める。
僧侶として、言葉で人を救った
僧侶として、言葉で人を救った籔本さん。今後の目標を尋ねると、住職ならではの思いを語ってくれた。
「寺の修繕はもちろん、檀家さんがこの寺の檀家であることを誇りに思えるような寺にしていくのが、最終的な目標です。融通念仏宗はかなりマイナーな宗派なので、SNSを通じて知ってくれる人を増やしたいです。“宣伝”という言葉は、もともと宗教者が作ったものですから、私も上手でいたいですね」
そう目を輝かせるが、自身の経験や“寺の子”という背景を考え、子どもとの向き合い方に悩むこともあるという。
「私は幼少期に父が亡くなっているので、“父親像”というのがあまりわかりません。明確な手本がないので、いつか“父親としての責務”がわからなくなるような壁にぶつかるときが来るかもしれません。もちろん、息子に寺を継いでほしい気持ちはあります。
正直、子どもができる前は“誰か継いでくれればいいや”くらいに考えていました。たぶん、そこで僕は悩むことになるでしょうね。もし“継がずに出ていきます”と言われたときに、自分はどうするんだろうな、と。強要することはできませんから。でも、伯父が私に見せてくれたような背中を示すことができていれば、きっといつかわかってくれるかもしれない。そこで、どうするかを考えてほしいですね」
そう考える一方、心から望むことはひとつだけだと話す。
「うちが寺であることは関係なく、大前提として、やっぱり自分が生まれてきたことに関して“よかった”と思ってほしい。おそらく今後、息子は“なんで寺なんかに生まれたんだろう”と思う日が来ると思うんです。でも、いつか“生まれてきてよかった”と思ってくれれば、それでいい」
長い歴史を持つ寺の住職として、その系譜を振り返りつつ自身の思いをこう語る。
「歴代の住職は、この寺を守るために、みなさん自分の一生を犠牲にする気持ちでやってきたと思うんです。今の時代、廃寺になるところも多い中で、ここは残すことができる寺のひとつだと思っています。100年後でも来てもらえる寺にしておきたいです」
伝統ある“寺”と時代の最先端に触れる“SNS”を交える籔本さんの目は、尊い過去と守るべき未来の両方に向けられている。
<取材・文/近藤俊峰>