マダム信子

「大阪や兵庫の人ならみんな知っとるんちゃうかな。マダムブリュレも、会長さんも。もろたらうれしいスイーツやし、パンチが効いた豹柄のパッケージも、あのど派手で元気な会長さんも、大阪らしうてええやんなぁ」(50代・主婦)

 卵とバターとメープルシロップをたっぷり使って焼き上げたバウムクーヘンの表面を、赤砂糖でキャラメリゼするという、従来のバウムクーヘンのイメージを覆した関西発の大人気スイーツ、「マダムブリュレ」。

 その人気を底上げしているといえるのが、「マダムブリュレ」の考案者であり、パッケージ同様に自身も豹柄をトレードマークとしている、株式会社カウカウフードシステムの川村信子会長。通称“マダム信子”さんだ。

“難波のスイーツ女王”が、人生を振り返る

 年商50億円を誇る企業を率い、真夏の太陽のような明るさとゴージャスぶりで知られる信子さんだが、少女時代は凍てつく真冬のような極貧生活やさまざまな差別を経験したことも。

 銀座のオーナーママを務めた後、帰阪して始めた焼き肉店が狂牛病騒動や放火に遭い借金に苦しんだりと、枚挙にいとまがない山あり谷ありの人生を送り続けて今年で72歳。会長となった今でも表舞台に立っている。

 古希をゆうに超えているとはとても見えない若々しさも魅力である信子さん。そんな彼女がこのたび、ライフスタイルブック『私は女豹 Je Suis La Panthere』(主婦と生活社)を上梓した。

 豪華絢爛な自宅やクローゼット、迫力満点の真っ赤な高級車など、「シンプルライフの紹介」が主流である昨今のライフスタイルブックとは完全に真逆の内容で、「これぞナニワのスイーツ女王」「まるでマダム信子版“動物図鑑”」などと話題を呼んでいる。

「ほんまうれしいですわ。死んだ両親に見せたかったですね。貧乏で苦労した私が、頑張ってここまできたんや、って」

 目に涙を浮かべながらこう語る信子さんに、今回の書籍を出版した経緯と、今後の展望を聞いた。

極貧、差別を乗り越えて

 在日韓国人二世として島根県で生まれ、子ども時代は豚用の残飯や腐ったおにぎりも食べなければならないほどの極貧生活を送ったという信子さん。国籍でいじめを受けたこともあった。

 父親の一存により18歳で結婚させられるも、耐えられず婚家を飛び出して離婚。その後死にものぐるいでさまざまな職業にチャレンジし、今も「日々チャレンジやねん」と笑う。

大阪での少女時代のマダム信子

「神様は見てはるんですよ。上から私らのことを見て、“チャンスを与える人”を選んでんの。でも神様は意地悪で、すぐにくれたりせえへんから。私はそのチャンスをつかもうと、ボッコボッコいろんなところにぶつかってんねん。せやけど、人生一度きりやから、その過程も楽しまなあかんね。チャンスをつかもうと。もがくことこそが生きてるってことなんやないかと、私は思いますよ。死んだらなんもできへんしね」

 今回のライフスタイルブックの出版も「チャンスやね」と振り返る。

「客商売が長いから、みんなを喜ばせることが大好きなんですね。私の家の中や、アニマル柄のコレクションをもっと見たいと言ってくれはる人が多いんですよ。実際、なんか色が少ないなんにもないところより、ど派手なほうが元気が出るやろ? 最近元気ない人多いやん。そんなら皆さんにお見せしましょう、見ていただきましょうと(笑)」

 とはいえ、こんな心情も。

「頑張った証しを残したかったのもあります。思い出の写真もたくさん載せてもらったから、見ると苦しかったこと、悲しかったことも思い出すんですよ。みっともないこともあった。でも、それも私の歴史やからね。反省して、次に生かす。何言われてもええやん。今つらい人がこれを見て“こんな人もいる。これでもええんや”って思ってくれたら」

 もうひとつ、信子さんにとって、まさしく神からもらったチャンスといえるのが、ビジネスパートナーであり、20歳年下の夫、川村幸治さん(カウカウフードシステム副会長)だろう。

 信子さんが銀座でオーナーママをしているとき、従業員募集の知らせを見てやってきたのが、当時24歳でモデルをしていた幸治さんだった。信子さんの清々しさ、人間らしさに「一途に惹かれていった」という幸治さんから告白し、交際がスタート。その後入籍。2人の“婦唱夫随”はもうすぐ30年になる。

銀座のオーナーママ時代のマダム信子

「いえいえ、“元銀座のママが考えたおしゃれな洋菓子”という、“マダムシンコ”のブランドイメージを考えてくれたのは幸治くんなんですよ。私は幸治くんあっての“マダム信子”なんやから。

 でも幸治くんには、狂牛病や放火で借金背負ったりとか、若くて一番いいときにいらん苦労させたしね。幸治くんにね、いつも言うてるの。私が死んだらもっと若いお嫁さんもらうんやで、って。

 でも幸治くんたら『何言うてんの。ママのほうが長生きするに決まってるやん』って」

 2023年3月に、信子さんの甥である松本保純さんが社長に就任し、それまで社長だった幸治さんは副会長となった。経営にも関わりつつ、今後は夫婦で会社の広告塔となり、社会貢献に本腰を入れていきたいという。

「お客さん、家族、従業員たち……。感謝する人もたくさんいるしね。私みたいに貧乏や差別でつらい思いをした人を助けてあげたいし、世の中をもっと元気にしていきたいです。自分が世の中に何ができるかを考えるだけでワクワクします。これからもみんなをびっくりさせたいわー」

 そう語る信子さんの瞳の輝きは、まさに獲物を狙う“女豹”のよう。これからも彼女から目が離せない!

マダム信子の華麗なる歴史

1951年(0-1歳) 在日二世として島根県に生まれる。5人きょうだいの長女。貧しいながらも厳しさと優しさに満ちた家庭に育つ。このころ、お祝い事の際に母が作ってくれたホットケーキの味が、のちのマダムブリュレの原点となる

1962年(10-11歳) 一家で大阪に移り住む。当初住んだアパートは、家族9人で6畳と2畳の2間のどん底状態。持ち前の負けん気の強さで、差別にも真正面から立ち向かった

1970年(18-19歳) 父親の指示で見合い結婚をするも離婚。家を飛び出し、職業を転々とする。9月、のちに夫となる幸治さん誕生

1972年(20-21歳) 喫茶店兼スナックを経営しつつ、北新地の高級クラブホステスに。不動産事業、高級クラブ経営、貴金属販売などを次々に手がけ、実業家としての頭角を現す

1990年(38-39歳) 東京・銀座にクラブ『銀座シンコ』をオープン

1996年(44-45歳) このころ、幸治さん(当時24歳)が面接に訪れる

1999年(47-48歳) 大阪府高槻市に『焼肉かうかう倶楽部』をオープン

2002年(50-51歳) 幸治さんと入籍。会社設立

2005年(53-54歳) 狂牛病騒動に見舞われ、売り上げが激減

2006年(54-55歳) 2月、『焼肉かうかう倶楽部』が放火による火災に見舞われる。そんな苦難を乗り越え、11月に洋菓子店『マダムシンコ』をオープン。“マダム信子”として多方面で文化活動を開始する

2007年(55-56歳) 『マダムブリュレ』がメディアなどで取り上げられ、大ブレイク。現在も『楽天ランキング』で常に上位をキープしている

2009年(57-58歳) 専務でもあった兄が若いころのアスベスト吸入が原因の肺がんで急逝

2010年(58-59歳) 当時住んでいたマンションで空き巣被害に遭う。被害総額3億円

2012年(60-61歳) 念願だったゴルフ番組をスタート。現在も『マダムシンコのゴル友!』(サンテレビなど)として放映中

2018年(66-67歳) 自伝をもとにした映画『やまない雨はない』(主演・川上麻衣子)が公開

2022年(70-71歳) 本社機能を豊中クーヘン工場へ移転

2023年(71-72歳) 3月、甥の松本保純さんが代表取締役社長に就任。幸治さんは代表取締役副会長に

2024年(72-73歳) 3月、大阪・北新地に大人の社交場『クラブマダムシンコ』をオープン予定

『私は女豹 JeSuisLaPanthere(ジュ・スィ・ラ・パンテール) マダム信子の波乱万丈人生と華麗なるライフスタイル』(マダム信子著 主婦と生活社刊 税込み1760円)※記事の中の写真をクリックするとアマゾンの紹介ページにジャンプします

『私は女豹 Je Suis La Panthere(ジュ・スィ・ラ・パンテール) マダム信子の波乱万丈人生と華麗なるライフスタイル』(マダム信子著 主婦と生活社刊 税込み1760円)大阪発の大人気スイーツ「マダムブリュレ」。その生みの親であるマダム信子が、豪華絢爛で豹柄づくしのクローゼットと苦あり楽ありの人生を大公開。

かなつ久美さんが書籍内の『漫画 マダムシンコ物語』で描いたマダム信子

かなつ久美●1990年漫画家デビュー。1999年に週刊女性で連載スタートした『OLヴィジュアル系』が大ヒット。テレビ朝日系で2回ドラマ化もされた。その後を描いた『アラフィフヴィジュアル系』も電子書籍で発売中。マダム信子さんとは10年以上の交流があり、今回の書籍内では『漫画 マダムシンコ物語』を担当

(取材・文/木原みぎわ)