三上博史が約8年ぶりに舞台に立つ。寺山修司没後40年を記念した『三上博史 歌劇―私さえも、私自身がつくり出した一片の物語の主人公にすぎない―』。副題には寺山が紡いだセリフを添えている。
超進学校に通う中、受けたオーディション
「今回の歌劇をどんなものだと想像していますか?」
と、三上から逆質問。歌あり、お芝居あり。だけど、そのどちらとも言えない不思議なものに?
「そうですね。いわゆるミュージカルとも違うし、面白がってもらえたらいいなと思うんですよね。結局、役者というのは“待ち”の仕事で。誰かが作りたいものに自分の肉体を提供して、その世界を生きるのが仕事。だから、いつもジレンマを抱えるんです。“僕を生かしきれていない”とか“僕がやりたかったのはこんなことではなかった”とか。
今作、僕は作詞もしないし、全部が寺山のテキスト。押しつけられたものじゃなく、僕がやりたい言葉たち、発声したい言葉たちを抽出して、それを構成して届けたい。いわゆる、お仕事的なアプローチはどこにもなくて、僕の好きなことだらけなので大失敗、大暴走のおそれもあります。でもみなさん、その目撃者にはなれる(笑)。そこに価値を置いてもらって。よくも悪くも、きっとすごいものにはなるとは思いますね」
浅川マキなど寺山が生み出した歌、言葉、登場人物たちが三上による舞台で存分に表現される。インタビュー中に『健さん愛してる』や『かもめ』などを口ずさむ三上はとても愉快そうだ。
そもそも、三上は高校生のときに寺山修司に見いだされ、寺山が脚本・監督を務めた仏映画『草迷宮』('79年、日本公開'83年)で主演デビュー。“俳優・三上博史”はここから始まっているのと同時に、“呪い”と語るほどに寺山の影響を受けている。
'08年からは毎年、寺山の命日(5月4日)に『三沢市寺山修司記念館』(青森)で追悼ライブを行っている。三上と寺山。その運命の出会いはどのようなものだったのか?
「当時、朝日新聞だったかな。『草迷宮』の主人公募集の要項が載っていて。それを高校の同級生が見つけて“出てみろよ”と。そもそも、僕は映画や俳優にはまったく興味がなかったんですよね。ガチガチのレールを自分で敷いていた人間だったので」
小学生のころから、将来は職種は問わず“高給取りのサラリーマン”と決めていた。学歴必須と考え、オール5を目標にしたのは小学3年のとき。唯一5が取れなかった音楽では、
「先生に媚売って(笑)。卒業までにオール5を取ったわけです」
ばかじゃないか、この大人たちは
中学を経て、高校は超進学校へ。高給サラリーマンになるまでの残り7年間(高校3年+大学4年)で“人生の寄り道”のようなことはすべてやってしまおう。そんな考えのもと、『草迷宮』のオーディションを受けた。15歳、高校1年のときだった。
「学生服を着たまま、外苑前のオーディション会場へ。エレベーターのドアが開いた瞬間、“なんだ、これは!?”。カモメの絵がバーンっとあって、紫色の光が降り注ぎ、裸の女性が踊っている……。オーディションに来ている子たちがシーンとしてる中で、後ろからカランカランカランとすごい足音が聞こえて。
“うるせえな”と振り返ってにらんだら、寺山さんのぽっくり(下駄)の音だった。“マズイ!”とあわてて顔を前に戻したら、寺山さんから肩を叩かれて“君はオーディションに来たの? 名前と番号教えて”と。あの一瞬で決まったんだと思います」
『草迷宮』の撮影は夏休みに参加。しかし、冷めた高校生だった三上は、
「“ばかじゃないか、この大人たちは”って思いましたね。(寺山は)大先生と呼ばれてるのに大した弁当も食べていないし、雨の中でズブ濡れになりながら撮っていて。“何が楽しいの、この人たち?”と思って。大金持ちになるという考えは変わらなかったですね」
しかし夏休みが明け、学業に戻るとだんだん胸に隙間風が。
「何がこんなに寂しいんだろう? 予算のないインディペンデント映画なので、全然システマチックではなかったわけです。女優さんが衣装さんもやったり、助監督が僕の身なりを整えてくれたり。もう家族みたいなもので、お祭りだったんですよね。そのお祭りに戻りたかった。
だから(寺山が主宰する)『演劇実験室◎天井棧敷』(後継劇団・演劇実験室◎万有引力)に出入りするようになって。当時、寺山さんはすでにご病気だったので、ほとんど会話はしていません。20歳で映画『さらば箱舟』('84年)でご一緒して、すぐ亡くなられたので。でも、その5年間で僕が吸収したものはものすごく大きいですね」
王道エンタメ作品にも出演した理由
映画『私をスキーに連れてって』('87年)でブレイク。以後、ドラマで大活躍。『君の瞳をタイホする!』『君が嘘をついた』(ともに'88年)、『世界で一番君が好き!』('90年)、『あなただけ見えない』('92年)、『チャンス!』('93年)、『この世の果て』('94年)……。
三上出演のトレンディードラマに夢中になった女性は多いだろう。しかし、寺山に俳優としての命を吹き込まれた背景を思うと意外な気もする。
「いまだにわかんないんですよね、“トレンディードラマ”というカテゴリーの定義が(笑)。男女の恋愛だというなら『あなただけ見えない』なんて全然違うし。女性人格を含めた三重人格の男の話ですからね。『この世の果て』は薬物中毒の男が、妊娠した女の子の腹を蹴る話ですし」
ただ、王道エンタメ作品への出演は母親からの言葉が大きかったという。
「もともとは売れない女優だったんです。僕が21歳、映画『戦場のメリークリスマス』('83年)に端役で出演してもまだ俳優の道に進むか迷っていたときに、母親が亡くなりました。その間際、病院で“役者をやってもいいけど、性格俳優にはなってほしくないわ”と言われたんですね。
そのときは意味がわからなかったんですが、“寺山さんが作り出すような通な映画もいいけど、多くの人に名前を知ってもらいなさいよ”ということかなと思って。そこからのドラマ出演は自然の流れでした。でも、自分には寺山の門下という自負もある。アーティスティックなインディペンデントの映画もやりつつ、メインストリームもやっていった要因はそこにありますね」
俳優・三上博史の志とその歩みに、寺山も三上の母親も、きっと天国で目尻を下げているはずだ。
寺山修司没後40年記念/紀伊國屋ホール開場60周年記念公演『三上博史 歌劇―私さえも、私自身がつくり出した一片の物語の主人公にすぎない―』
'24年1月9日~14日。東京・紀伊國屋ホールにて。全席指定8800円(税込み)。前売りチケット好評につき、アーカイブ配信決定 https://www.mikami-kageki.com/