現代では誰もが知る『源氏物語』の著者・紫式部だが、平安時代中期を生きた彼女の本名や生没年など、基本情報の大半がはっきりしていない。放送中の大河ドラマ『光る君へ』では本名が「まひろ」とされるが、これは完全な創作だ。
容貌に関する信頼できる情報もゼロだが、公開を前提として書かれた『紫式部日記』には「殿方からの求愛を断った」という話が散見されるため、それなりに美しい女性だったのではないか。
“陰キャ”で“ネット弁慶”で“鬼嫁”!?
しかし、彼女の初婚年齢はかなり遅く、当時の結婚適齢期を10歳以上過ぎた20代後半くらいだったようだ。現代の年齢感覚ではアラフォー世代に相当するだろうか。お相手は藤原宣孝という遠縁の貴族で、生年不詳。紫式部より20歳以上年上だったとされる宣孝だが、彼には5人以上の妻がいた。派手好きなイケオジの宣孝はモテたのだ。
紫式部の父・藤原為時の紹介で知り合ったと思われる2人だが、気が強い紫式部は、「あなた一筋」的な宣孝からの手紙に「浮気者のくせに」的なツッコミを入れ、彼からの返事に「血の涙を流しています」と返した。結婚後でさえ、昼間に彼女の屋敷を訪れようとした宣孝を拒絶した逸話もある。
当時の女性にとって、異性に明るいところで顔を見せることは、現代風ならば一緒にお風呂に入るような気恥ずかしい行為だからだが、手ごわい鬼嫁だったようだ。
紫式部といえば、清少納言を「風流ぶっているだけ、知的ぶっているだけの底の浅い女」と酷評した『紫式部日記』の文章で有名だが、紫式部は他人とは仲良くなるまで物静か。それが周囲の女性たちから「人を見下しているようだ」と思われ、いじめられたこともあったが、いったん打ち解ければ「気立ての良さ」で人気者になれた。
しかし、紙と筆を持てば、気に入らない人物について毒舌まみれの文章を書いてしまう。紫式部は、裏と表の差が激しい女性だったようだ。
現代風にいえば「陰キャ」で「ネット弁慶」の彼女は、「陽キャ」の宣孝にとっては「おもしれー女」だったのかもしれない。手紙の中でさえ口論の絶えない2人ではあったが、この夫婦にとっては、それも好きなことが言い合える仲の良さの表れだったようだ。
しかし、長保3年(1001年)、宣孝は紫式部との間にひとり娘・賢子を残して急死し、結婚生活は3年ほどで終わってしまった。憔悴した紫式部は、夫の死の悲しみを創作で紛らわすことにした。それが後に『源氏物語』として完成された長編小説の執筆動機だったとされる。
勝手にリモートワークを宣言!
夫の死後、4年もの間、創作と育児にだけ取り組んだ30代後半の紫式部が、藤原道長の愛娘で、一条天皇の中宮(=皇后)の彰子のもとで女房として仕える話を引き受けたのは、経済的な不安が大きかったからかもしれない。紫式部が宮中に初出仕したのは寛弘2年(1005年)の年末だった。
しかし数日ほどで職場を抜け出し、勝手にフルリモート勤務にしてしまった。彰子からの出勤要請も無視し、職場復帰したのは秋だった。紫式部は宮中でも人気の『源氏物語』の著者で、物語の続きの執筆が、彰子の女房としての彼女の主な仕事だったからこそ、クビにならずに済んだようだが、問題の多い新人社員である。
紫式部が仕える彰子は当時18歳だったにもかかわらず、一条天皇との間にすでに敦成親王を授かっており、中宮の地位も安泰であるかのように見えた。しかし、道長のライバルの貴族たちが自慢の娘たちを後宮に入内させ、彰子から天皇の寵愛を奪い取ろうと画策していたので、道長は一計を案じ、彰子の部屋に行けば『源氏物語』の続きが読めますよ……と、文学好きの天皇を誘ったという。
道長は、紫式部のもとに紙や筆、墨などの道具の差し入れをしているが、半紙一枚が、現代の価値で1000円以上したころの話だ。『源氏物語』は最終的に400字詰めの原稿用紙だと2000枚以上の大作になったが、その何倍もの紙が下書きに使われたに違いない……。
“道長の愛人説”は本人の吹聴!?
鎌倉時代に成立した『尊卑分脈』という系図集にも、紫式部が「道長妾」として記されている。しかし、信頼できる史料を見る限り、紫式部と藤原道長が恋愛関係にあったと断定できる証拠はない。
唯一、なまめかしい印象の逸話が、ある夜更けに道長が紫式部の部屋を訪れて扉を叩いたが、彼女は彼を迎え入れなかったというものだ。『紫式部日記』で一番有名なシーンである。長身でたくましく、明るい性格の道長のそばには多くの女性たちがいた。源倫子、源明子という2人の「正室」、一説に2人の「側室」、そして「召人」と呼ばれる、つまみ食い中の女たち……そうした道長の女性関係の中に、紫式部が踏み込む勇気があったかどうかだろう。
ただ、道長の訪問を断ったという話をわざわざ、公開を前提とした日記に書き残した紫式部は、憧れの道長から女性として意識されたことを内心、うれしく思っていたのではないか。しかし紫式部にとって道長は恋愛対象ではなく、遠くから見守りたい「推し」だったように思える。
紫式部は、男性との恋愛より女性同士の関係を好んだともいえる。若き日には、早逝した姉を慕うがあまり、妹を亡くした境遇の年上女性を見つけ、疑似姉妹として交流した。また、『百人一首』に収められた「巡りあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな(要約:やっと巡り逢えたのに、あっという間に雲の中へ消えてしまう月のように別れなければならなくて残念)」という歌も、実は女友達との再会時に詠まれたもので、男性に向けた恋歌ではない。
当初は宮廷での仕事を嫌がっていたものの、そのうち職場に入り浸るようになったのは、同僚に好みの女性が多かったからだと考えられる。お気に入りの1人が、宰相の君というぽっちゃり美少女で、顔を隠して寝ていた彼女から掛けふとん代わりの着物を引きはがし、そんな彼女の「照れて赤い顔がとてもかわいい」という感想を『紫式部日記』に記した。
小少将の君という女性も「恥ずかしがり屋で子どもっぽい性格」ゆえに、紫式部のお気に入りで、彼女とはよく同室に寝泊まりし、他人を寄せつけないほどの仲のよさを周囲に見せつけていた。2人の部屋を訪れた道長から「どちらかが知らない男を連れ込むようなことがあっても、驚かないようにね」と、からかわれてしまったことがある。しかし、紫式部は「私たちに秘密はない」と答え、この対応からも、道長と彼女は男女の仲ではなかったと考える研究者もいる。
紫式部の好みは、ほんわかとしたお嬢様で、事あるごとに知性をアピールするタイプ……例えば清少納言のような女性は大嫌いだった。そんな清少納言の未来はロクでもないことになると、予言のようなことまで言っている。清少納言の悪口は、ひとり娘の賢子が、紫式部に似て賢く、亡夫・宣孝ゆずりの社交性まであったので、人前でインテリ女として振る舞えば嫌われると教えるためとの説もある。
しかし、紫式部は総じてインテリ女性が嫌いで、溺愛する弟・惟規の恋人で、斎院の中将という女性のことも「自分だけが思慮深く、世間の人を見下しているように思えるところが、無性にむかついて憎らしい」と酷評し、交際に反対していた。これは紫式部自身が、彰子のもとに初出仕した際、同僚女性から嫌われた理由と同じで興味深いのだが、彼女には同族嫌悪の傾向があったのかもしれない。