'70年代に日本で生まれたシティ・ポップ。海外から“逆輸入”の形でブームが再燃している中で、竹内まりや、山口百恵らへの提供曲をはじめ、700以上の楽曲を手がけたブームの立役者が語る“あの時”と“現在”。
「日本では売れないよ」とずっと言われ続けてきた
「この前、15歳の子からファンレターをもらいました(笑)。若いお客さんが増えて、こういう音楽をまたみなさんが聴いてくれるのは本当にうれしいですね。ただ正直なところ、この盛り上がりはどこか人ごとのような感覚があって……」
と話すのは、シンガー・ソングライターの杉真理(69)。1970年代から'80年代に広まった、洋楽志向で都会的に洗練されたメロディーや歌詞のシティ・ポップブームの立役者のひとりで、竹内まりや、山下達郎、大瀧詠一、松任谷由実らと共に一時代を切り開いてきた。
しかし昨今のシティ・ポップ人気再燃には、「台風の目の中にいるみたい」と戸惑いを口にする。
「というのも、僕を含めて'70年代にシティ・ポップを始めた人たちは、“君のような音楽は日本では売れないよ”とずっと言われ続けてきたんです。自分でも売れるわけがないと思っていたから、武道館を満杯にしてやろうとか、そんな野望を持つことはなかった。その分、エネルギーは全部音楽のクオリティーに向けられてた。だからあの時の音楽には純粋な“熱”が詰まっている気がするし、だからこそ今の人たちが聴いても耐え得る音楽になっているんじゃないかと思っています」
杉の音楽の原点はビートルズで、小学生のとき『のっぽのサリー』を聴いて衝撃を受けた。ビートルズを皮切りに、レオン・ラッセル、ハリー・ニルソン、ギルバート・オサリバンと、洋楽を聴きまくった少年時代。中学に入ると曲作りを始め、慶應大学在学中にメジャーデビューを果たす。シティ・ポップの黎明期だ。
「歌謡曲ではない、日本の洋楽っぽいものを作りたかった。湿っぽい感じやお涙頂戴が苦手だったんです。僕は当時マイノリティーだと思っていたし、歌謡曲の人とは違うことをしたいという意識があった。何か新しい音楽を作りたいという強い気持ちがありました」
昭和の歌謡曲とは違うシティ・ポップの楽曲は、今改めて聴き直しても新鮮だ。
「憧れの洋楽に少しでも近づこうと奮闘して、気づいたら違う進化をしていたという感じ。洋楽のメロディーをお手本に、日本語という表現方法をのせたら融合する瞬間があったんです。海外の文化をもとに日本ならではの進化をした結果、本物とは違うものになった。例えるなら、カレーやラーメン。インドのカレーとは違うけど、日本のカレーっておいしいじゃないですか。それがシティ・ポップなんじゃないかな(笑)」
『ウイスキーが、お好きでしょ』はウケないと思っていた
シティ・ポップを代表するポップ・メロディー・メーカーとして知られ、これまで数多の楽曲を世に送り出してきた。自身の楽曲は300曲以上、提供曲を合わせると実に700以上の楽曲を手がけている。驚異的な数に思えるが、
「CMを合わせるともっと多いかもしれません。そう考えるとすごいですね」
と軽やかに笑う。絶えず楽曲を生み出し続ける、そのモチベーションはどこにあるのだろう。
「いつも僕は曲を作るとき、その曲に恋をするんです。この曲が僕の中で代表作だというような気持ちで作る。これが最後の曲でもいいやっていう気持ちになるんです。だからもう全精力を注いじゃう」
杉の代表的なCMソングといえば、『ウイスキーが、お好きでしょ』。ところが─。
「あの曲には当初、恋してなかったんですよね……」
と意外なセリフ。
「当時はウイスキーを飲む人がほとんどいない時代でした。だから“この曲はウイスキーと一緒に埋もれていくんだろうな”と思いながら作っていました。みんなにはウケないだろうなと思っていたんです。だって、ウイスキーなんて誰も見向きもしない時代に、“ウイスキーが、お好きでしょ”ですよ(笑)」
歌手は石川さゆりで、“ウイスキーが、お好きでしょ”のフレーズはすでに決まっていた。ジャズっぽい曲を、というリクエストのもと、ジュリー・ロンドンの『クライ・ミー・ア・リヴァー』をイメージして書き上げている。
「スタッフさんたちの反応は、“ちょっと暗いんじゃない?”というもの。でも名物ディレクターの大森昭男さんが、“私が責任を持ちますから”と採用してくださって。いざCMが流れ出すと、ハイボールと共にウイスキー人気が復活した。みんなが歌ってくれるようになって、あの反響には僕自身驚かされました。後になって僕もあの曲に恋をし直した感じです(笑)」
松田聖子に山口百恵、堀ちえみ、早見優、竹内まりや─。楽曲を提供してきたアーティストは多岐にわたり、その引き出しの多さに圧倒される。
「自分が歌うとなると変に構えてしまうけど、提供曲はある意味、無責任で自由になれるところがあって。その人に合った曲を作りたいけど、ほかの人と同じことはしたくない。その人にとっての初挑戦になることを何かしら入れたい、という気持ちが常にあります」
竹内まりやは大学時代に結成したバンド『ピープル』のメンバーで、彼女がシンガーになるひとつのきっかけをつくったのも杉だった。
竹内まりやは「名を残す人だと思っていました」
「まりやは大学の1年後輩で、バンドでは最初コーラスばかりやっていたんです。“まりやちゃん、ソロで歌ったら?”とすすめたら“いや、私は……”なんて言うから、“じゃあ曲を作るから歌いなよ”と歌わせたのが最初でした。彼女は売れるかどうかはわからなかったけど、名を残す人だと思っていました。バンドに入ってきたときからそう。そういう勘は結構当たるんです(笑)」
近年盛り上がりが続くシティ・ポップの再ブーム。YouTubeをきっかけに海外のZ世代から火がつき、竹内まりやの『PLASTIC LOVE』(1984年)は約7000万回再生を記録している。
「シティ・ポップの再燃を感じ始めたのは数年前からでしょうか。ライブ会場で金髪で海外のお客さんをちらほら見かけるようになって。thの発音に気をつけなきゃ、なんて思うようになりました(笑)」
再ブームの後押しもあり、今年2月にシティ・ポップのオムニバス・ライブ『シティポップ・スタジオLIVE』の開催が決定。杉をはじめ、桑江知子、EPOら総勢14人のアーティストが集い、シティ・ポップの名曲を披露する。
「自分の好きな音楽をずっとやってきて、こうして世間が評価してくれた。今回久しぶりに会う人もいて、またみんなと集まれて本当にうれしいですね」
デビューから今年で47年。700曲以上の楽曲を手がけ、今なお新曲を作り続ける。そこには当然生みの苦しみがあると思いきや、「それがないんですよ」と言うから驚きだ。
「僕の場合、苦しんで作るとあまりいいものができないんです。たとえ悲しい曲でも、どこかでワクワクしながら作らないといい作品にはならなくて。苦しみより、早くできあがりが見てみたいという、ワクワク感がいつもあります」
シンガー・ソングライターはまさに杉の天職といった感がある。しかし彼自身、当初はその意識はなかったと話す。
「天職だと思えたのは50歳を過ぎてから。フランク・シナトラやビートルズとか、世の中には歌のうまい人がいるじゃないですか。彼らに比べたら、自分がシンガーと言ったらおこがましいと思っていたんです。でももういいやと開き直って(笑)。
やっぱり音楽って深いですね。理想の音楽に全然届かなくて、だからやるしかないとずっと思ってきました。いくらやってもまだ先があって、だから続けてこられた。理想にはまだ届かないけど、今は音楽が天職だといえるし、すごく楽しい。これまでの人生で今が一番音楽を楽しんでいる気がします」
取材・文/小野寺悦子
『シティポップ・スタジオLIVE』日程:2月12日(月・祝)17:00開演。会場:神奈川県民ホール 杉を筆頭にシティ・ポップを代表するアーティストたちが勢ぞろい。問い合わせは0570-550-799(キョードー東京)