あまりにも突然の悲報だった。八代亜紀さんが、2023年12月30日に亡くなっていたことを、2024年1月9日に所属事務所が明かした。
「昨年9月から活動を休止していました。詳しい病状は明かさず、以前より80歳まで歌い続けると言い続けていましたが、容体が急変したようです。膠原病で、肺が悪くなったようです」(スポーツ紙記者、以下同)
近所で目撃された“異変”
八代さんは、1971年にデビューし、『舟唄』『雨の慕情』などのヒット曲を生み出した。
「哀愁を帯びた歌声は絶品で“演歌の女王”と呼ばれていましたが、ジャズやブルースも歌いこなしていました。画家としても活躍し、フランスの展覧会に5年連続で入賞する実力の持ち主。優しい人柄で、悪く言う人はいませんでしたね。私生活では、1994年に結婚するも、2021年に熟年離婚しています」
東京都内の自宅では、近所の人が異変を目撃していた。
「今年の1月6日に八代さんの家の前に大きな袋や荷物が30個くらい積み上げられていたんです。離婚したダンナさんの荷物かと思いましたが、そのときには八代さんは亡くなっていたんですね。30数年前に引っ越してきたときは、八代さんと両親、弟さん一家も同居していました」
気軽に近所を散歩することもあった。
「家から徒歩2分のところに桜並木があって、八代さんはよく散歩していました。離婚したダンナさんが出ていってからは、事務所で長く働いていた80代の付き人と2人暮らし。車椅子だったお母さんは、10年ほど前に施設に入り、そのまま亡くなったそうです」(別の近所の住民)
八代さんは家族との絆を何よりも大切にしていた。1985年に最初の豪邸を建てたとき、その思いをこう語っていた。
「私は子どもながらに誓ったの。大きくなったら、お嫁なんかに行かない。何か仕事で成功して、大きな家を建ててみせるって。そして家族4人で暮らすって」
44歳で人生のパートナーを得たが、思わぬ“不義理”にあってしまう。
「夫は八代さんのマネージャーだった人。陶芸家も名乗っており、アートという共通の趣味がありました。離婚の原因は、彼の不倫といわれています。不倫相手は、八代さんの事務所の後輩の若い女性歌手。八代さんは何も語りませんでしたが、相当ショックだったでしょうね」(前出・スポーツ紙記者)
隣人として、八代さんと親交があったのがタレントの大木凡人。
「僕は40年近く隣に住んでいました。八代さんがTBSに行くときは“凡ちゃんも行くんでしょ、ついでだから乗せていくよ”って、ロールス・ロイスによく乗せていただきました」
“新田くん頼むね”
八代さんの最期を看取った俳優の新田純一は、近くにいても変化に気づかなかった。
「離婚のダメージがなかったとは断言できませんが、何もなかったかのようにしていました。われわれにわからないよう、八代さんはつらそうなそぶりは見せませんでした」
昨年9月に八代さんが活動休止して以降、一緒にレギュラー出演していたラジオ番組『ムーンラウンジ846』を新田は1人で継続している。
「八代さんから“新田くん頼むね”と言われて、やってきました。今年の元日の放送では、逝去されたことを伝えずにオンエアされました。1月9日の収録で初めて打ち明けて、八代さんの曲を流したのですが、涙があふれました。いつ復帰するのかなと思っていた矢先に急変されて、病院に行って、感謝の言葉を伝えました。意識はありませんでしたが、ちゃんと聞いていただいたように感じました」
新田の妻は、八代さんのヘアメイクを長年にわたって担当していた。
「僕たちの結婚の保証人になっていただきました。結婚後に“番組の打ち合わせ”ということで妻とスタジオに呼ばれて、カメラが回っている前で八代さんは花束をプレゼントしてくれた。そして“私が署名したんだから、別れちゃ絶対ダメだからね”って」
新田は25歳のときに『新宿コマ劇場』での公演で八代さんと共演して以来、深い縁を結んできた。
「八代さんは、ギブはしてもテイクは求めない人。一緒に食事をしても奢るばかりで奢られるのは絶対に嫌。こちらが代金を払おうとすると、絶対ダメ、もう連れていかないからねって(笑)。総勢30人のスタッフとバリ島に行ったこともありました。参加費は5万円でしたが、現地の空港に到着すると八代さんは5万円が入った封筒を全員に配って“お土産代ね”って。やることが粋なんですよね」
自分の感情は抑え、いつも相手に寄り添った。
「優しい八代さんですが、肝っ玉が据わっており、弱気なことは言わない。気配りもする人で、僕に“大丈夫? 疲れた顔しているよ”って言葉をかけてくれて、よく人を見ていました。入院直前の旅番組のロケでは、3日間ずっと一緒で、夜は宴会も。普段お酒は飲まないのに、乾杯の際にビールをひと口飲んで……」
人を招いて大勢で食事をするのも好きだった。
“年内には退院して行きますね”
前出の大木凡人は、箱根の強羅にあった八代さんの別荘にも招かれたと話す。
「15人くらい入れるコタツがあって、ロシア式暖炉『ペチカ』の前でお酒が飲めて、魚を焼いて食べられる囲炉裏があって、30人ぐらいで宴会ができる間取り。バルコニーでは、50人ぐらいでビアパーティーもできる。別邸として、陶芸ができる工房もありました。私やダンナさんがゴルフに行っている間、八代さんはいつも絵を描いていました」
八代さんにとっては、夫とともに創作するアトリエでもあった。総工費1億2000万円という豪華な別荘だが、2023年に売却。現在は一棟貸し切りの宿泊施設になっている。
「昨年3月に八代さんから売っていただき、改修工事をしました。9月にはお披露目式をして、八代さんにもお越しいただくことになっていたんです。施設名を『八代別邸』にしていいか相談したところ、いいですよと言っていただきました。“年内には退院して行きますね”と、八代さんにも楽しみにしていただいていたんですが……」(『八代別邸』運営会社社長、以下同)
こだわりの詰まった建物だという。
「八代さんがこだわっていらした囲炉裏などは、そのまま残しながらも、近代的にリニューアルしました。ご本人に来ていただけなかったのは残念ですが、八代さんの名を汚さないものにできたかなと思います」
思い出が詰まっているからこそ、夫の“裏切り”と一緒に“塗り替える”ことを選んだのか。八代さんや夫の作品を展示していた自宅に併設したギャラリーも、今は閉鎖されている。今後について、所属事務所に問い合わせた。
「ギャラリーはコロナ禍以降、閉めております。お別れ会については、これからどうするかを決めます」
不世出の歌姫は去ってしまったが、喜びと悲しみが入り交じる繊細な心のひだを表現した歌は消えない。いつまでも人々の胸に響き続ける。