「去年の夏、人生で初めて手術を受けました。検査をしたら、血管の一部が細くなっているのが見つかって」と言うのは、俳優の野村宏伸(58)。
血管を拡張するカテーテル手術を受け、3泊4日の入院治療を行った。もともと自覚症状はなく、家系的に心臓に不安があってのことだった。
「母が心筋梗塞で3年前に82歳で亡くなり、祖父もやはり心筋梗塞で亡くなっています。母もそうでしたけど、この病気は前日まで元気だった人が亡くなることもある。遺伝や隔世遺伝についていろいろ聞いていたので、念のためという気持ちがありました」
「彼女が20歳になるとき僕は70歳」
50歳のとき授かった愛娘の存在も彼の背中を押した。かつてアイドル的人気を博した彼も、再来年には還暦を迎える。
「娘は遅くできた子なので、彼女が20歳になるとき僕は70歳です。そういう意味でも少しでも健康でいなければと思って。何より僕たち俳優は体力勝負で、健康でないとできない仕事。若いころは気にしなかったけれど、やっぱり年齢とともに健康が一番大切だと考えるようになりました」
デビューは1984年の映画『メイン・テーマ』で、2万3000人の中からオーディションで薬師丸ひろ子の相手役に抜擢された。彼の人気を決定づけたのが1987年のドラマ『ラジオびんびん物語』を皮切りに始まった“びんびん”シリーズ。田原俊彦とのタッグで一世を風靡した。しかしオーディションの応募は妹の推薦で、彼自身はもともと芸能界に憧れはなし。周囲の盛り上がりをよそに、あのころは冷めていたと振り返る。
「周りがどんなに騒いでも自分は意外と冷静でした。日本人って流行りモノが好きじゃないですか。パッと人気が出ても、また新しい人が出てきたらそっちに行くんだろうなと、客観視していた感じです」
ドラマで演じた好青年のイメージが定着すると、周囲にそれを求められるようになる。イメージと自身のギャップは大きく、常にどこか息苦しい思いにとらわれていたと話す。
「コマーシャルに出ていると、こういう役はできません、こういう髪形はしちゃダメだという制限が出てくる。今はだいぶ緩くなったのかもしれないけれど、当時はかなり縛りがあって。アイドルのように扱われるのもすごく嫌だった。アイドル雑誌にも出ていたけれど、やりたくなかった。いろいろ不満を感じていました」
一方、バブル景気の恩恵も受けた。20代で最高月収6千万円、28歳で世田谷区の一等地に110坪、2億4千万円の豪邸を衝動買いしたとメディアで取り上げられている。
「あのころは1億円が貸せた」
「たまたまコマーシャルの振り込みが重なっただけ。月によっては0円なんてこともありましたから。メディアってなんでもオーバーにするじゃないですか」
とは言うものの、今の時代とは大きく違い、何とも夢のある話ではある。
「確かにそうかもしれません。あのころは単価が高かったですからね。今の若い子と話すとすごく不安を抱えてて、“30歳で役者を辞める”なんて言っていたりするんですよ。僕自身は20代後半まで不安は抱えていなかったし、“まだこのまま大丈夫だろう”なんて感じでいましたから」
しかし絶大だったアイドル人気も次第に陰りが訪れる。一時は10本以上あったCMもやがて消滅していった。そんな中、友人からの詐欺被害に遭い、約1億円の負債を抱えている。
「それでもあのころは1億円が貸せたんですよね(笑)。でも結局立ちいかなくなって、一時期アルバイトをしていました」
友人の紹介で中古車店のバイヤーとして働き、さらに豪邸を売却して借金を完済した。
私生活では34歳のときスタイリストの女性と結婚し、1男1女に恵まれた。しかし2009年に離婚。その後自身の個人事務所を設立し、再スタートを切っている。
「以前と違って仕事を選ばなくなりました。自分で会社をつくるとなると、この仕事は嫌だ、これはやらないとは言えなくなってくる。昔は出なかったバラエティー番組にも出演するようになりました。営業もしていなくて、いただける仕事はできるだけやろうと考え方が変わりました」
50歳のとき15歳年下のヘアメイクの女性と再婚し、1女を授かった。娘は現在8歳で、インスタグラムでたびたびツーショット写真を公開している。
「今が一番いい時期じゃないですか。もう少し大きくなると友達のほうが良くなってくるだろうし。それまではと思って、今はなるべく娘と一緒に過ごすようにしています」
娘を優しく見守るその顔はほっそりシャープで身体もぐっと引き締まり、何とも若々しい。聞けば、10キロもの減量に成功したとのこと。
「肥満遺伝子検査を受けて、自分のタイプを調べてもらったんです。僕は脂質で太るタイプだとわかって、それからは揚げ物やマヨネーズは避けたりと、脂をできるだけとらないよう意識しています。以前はスポーツジムに通ってもなかなか痩せなかったけれど、脂質を控えてから体重がキープできるようになりました」
“あぁ素敵な職業に就いたな”
1984年にデビューし、今年で芸能生活40周年。記念公演を計画中だと明かす。
「僕の企画で9月ごろ下北沢で公演をする予定です。舞台はやっぱりライブ感が魅力。いつも演出と脚本を手がけてくれる後輩がいて、彼と今どういうものをやろうか話していて」
アイドル人気から一転、不遇の時期も味わった。波瀾万丈の俳優人生を振り返り、「よくやってきたねと自分を褒めてあげたい」と笑う。
「この仕事でよく40年もやってこれたなと思います。俳優で40年食べていく、残り続けるのってなかなか難しいから。人気だけではダメで、運もあるし、人とのつながりも大きい。人とちゃんと接していれば、助けてくれる人もいる。一番はそこなんじゃないかなって最近思うようになりました。僕が大切にしているのは、嘘をつかずに正直に生きること。最近はいい子が多いけど、僕は正直に言いたいことを言っています(笑)」
若いときとは仕事との向き合い方も変わった。そこで改めて気づいた思いもあるようだ。
「若いときは、この仕事を選んでしまったからにはやるしかない、逆に言えば、他には何もできないからという気持ちでいました。でも今は、健康でセリフがきちんと話せる限り俳優を続けたい。この年齢になって“あぁ素敵な職業に就いたな”って本当に思います。今の目標は、あと10年、70歳までこの仕事を続けること。でも本音を言えば、80歳まで俳優でいられたらいいなと思っているんですけどね」
取材・文/小野寺悦子