作家・フットリンガル代表、タカサカモトさん(38)撮影/吉岡竜紀

 巧みなフェイントでディフェンダーをかわし、ドリブルでゴールまで颯爽と駆け上がっていくその姿は、ピッチでひときわ輝いていた。ボールを身体の一部のごとく自在に操り、まるで遊んでいるかのようだ。サッカー王国、ブラジル代表のエース10番を背負うネイマール選手─。

 その華麗なプレーをYouTubeで初めて目にしたのは今から10年以上前、作家のタカサカモトさん(38)が東京大学在籍8年目の初夏だった。

ブラジル代表・ネイマールのプレーを見て

ブラジル代表フォワードのネイマール選手と。彼との出会いが、後のフットリンガル創業にもつながった

「あの映像を見た時の衝撃が強すぎて、ブラジルへ行くことを決意し、1年以内に実行に移しました。ポルトガル語は挨拶程度しかできなかったのですが、その後もブラジルに足を運んで独学で勉強して、最終的にはネイマールの来日時通訳を務める機会にも恵まれました。彼には本当に人生を変えられました」

 そう振り返るタカさんが現在、作家業と並行して生業にしているのが、「フットリンガル」と呼ばれる独自の事業だ。サッカーと国際教養(リベラルアーツ)という2つの軸を通してアスリートの人生を豊かにするコンサルティングサービスという。

 オンラインの語学レッスンを軸としながら、指導相手が滞在する国の文化や社会、あるいは国民性を踏まえた異文化コミュニケーションも同時に教えている。生徒に名を連ねるのは、サッカー日本代表の主将で英プレミアリーグの強豪リヴァプールに所属する遠藤航選手(30)、2018年のロシアW杯で躍動したドイツ1部シュツットガルトの原口元気選手(32)など、世界を舞台に活躍するアスリートたちだ。

「組織の時代から個人の時代への移行が加速する現代の日本において、世界を相手に戦うスポーツ選手は個の力でたくましく生きていく象徴的な存在です。そんな彼らが知的な側面でも社会的なロールモデルになってくれたらうれしいなと思っています」

 そんな理想を掲げてフットリンガルという事業を確立させたタカさん。トップアスリートに関わる人生を歩むきっかけになったのが、ネイマールの映像だったのだ。

サッカー王国の「天才」との出会い

 タカさんがブラジルの地を踏んだのは2012年2月。それから2か月後の再訪時、同国サッカー界の名門、サントスFCの食堂で、クラブスタッフに紹介される形で初めてネイマールと挨拶を交わしたという。当時のネイマールは弱冠20歳だが、すでにブラジル代表のメンバー入りを果たしており、南米年間最優秀選手賞も2度獲得するほどの逸材だった。

「ポルトガル語で『よろしく!』と言って手を伸ばし、握手をしました。ブラジル人にしては手の握り方がそれほど強くなく、柔らかい感じ。不思議な目の色をしているのも印象的でした」

 ネイマールとの出会いを皮切りに、やがて日本のサッカー選手たちとも関わりを持つようになる。

 '17年、ネイマール一行のアテンド通訳として東京に滞在していた時のことだ。内輪で開催されたパーティー会場で出会った元日本代表、李忠成選手(38)と意気投合し、ほどなくして遠藤選手を紹介された。

「それをきっかけに遠藤選手はフットリンガルの最初の生徒になりました。他の多くの選手に比べ、遠藤選手は中学生の時、塾に行って英語をまじめに勉強していた下地があったので、文法の知識はありましたね。当時は週に何日間かリモートで教え、長い時は4時間ぶっ続け。そのうち3時間ぐらいは雑談でしたけど。子育てから国際情勢まで、とにかくいろんなことを話していました」

 遠藤選手はリヴァプールへ移籍した昨年夏以降、流暢な英語でメディアのインタビューに答えている。この背景には、タカさんの指導があったのだ。

「例えばユーモアについて、海外の選手はどう捉えるかを解説することもあります。ほかにも原口選手の場合は、ブラジル人のメンタリティーに興味があったので、ブラジル人の知り合いが多い僕の経験から伝えられることを話しました」

 そんな原口選手からは「ブラジルをどうやったら倒せるの?」と尋ねられたこともあるほど、タカさんの見識は信頼されている。

 日本人選手の海外移籍が特に盛んになったのは、2010年に南アフリカで開催されたワールドカップ以降だ。ところが言葉の壁や異文化への適応につまずき、思うような結果が出せずに日本へ帰国する選手も一定数存在した。それを伝えるニュースに、タカさんは着目していた。

「海外移籍できるだけの実力や才能があるのに、言語や適応の問題で挫折するのはもったいない」

 この時に感じた素直な気持ちが後に、「フットリンガル」という事業を生み出したのだった。

夕焼けが見えない都会生活への戸惑い

 タカさんは英語とポルトガル語に加え、スペイン語も堪能だ。外国語の習得は、勉強次第である程度のレベルには到達できるが、そこから先は母語の能力、つまり日本人であれば日本語の語彙や表現力が関係してくる。

「外国語が母語のレベルを超えるとは考えられません。僕の語学習得が比較的スムーズだったのも、日本語のベースが背景にあったからだと思います」

 そう語るタカさんの日本語力は、どこで身についたのか。鳥取県出身の彼は、地元テレビ局に務める父、そして絵描きの母というクリエイティブな家庭で長男として育った。

「母からは小さいころ、絵本の読み聞かせをよくしてもらいました。父はディレクターをしていた関係で、たまに知らない言葉が出てくると、すぐに広辞苑を引いていましたね。そんな環境が影響したのか、小学校でも中学校でも自然とたくさん日記を書いていました。本もそれなりには読んでいたと思います」

 初めて海外を意識したのは小学校6年生だ。学校行事の一環で韓国の春川市を訪れ、韓国の小学生と交流を深めた体験が、世界の広さを知る出発点になった。

「バスに乗った時に韓国の子から『ベースボール、ライク?』と聞かれて、『ライク』の意味がわからなかったんです。それぐらい英語はできなかったのですが、いわゆる国際交流の魅力に目覚めた数日間になりました」

 塾通いはしていなかったが成績は優秀で、高校は県内の進学校へ入学した。3年後、東京大学文科三類に一発合格。鳥取出身の学生が下宿する寮「明倫館」に住み、晴れてキャンパスライフがスタートした。しかし、長年住み慣れた地方都市と大都会に漂う空気感のギャップに、戸惑った。

「特に感じたのは時間の流れ方の違いでした。建物が多くて夕焼けが見えなかったこともつらかったですね。僕は鳥取にいたころ、可能な限り毎日、沈む夕日を見ながらその日お世話になった人を思い浮かべるような変な習慣があったのですが、それが東京に来た途端にできなくなったので、自分のペースが崩れていく感覚がありました。人が歩くスピードも速いし、駆け込み乗車にも違和感を覚えました。あまりうまく適応できませんでした」

 そんな悩みを、履修していた授業を担当する生命倫理学者の小松美彦教官に、思い切って相談してみた。すると思いがけない回答が返ってきた。

「苦しめばいいんじゃないかな。東京の時間に無理して合わせるのはやめて、自分の内側に流れている時間を生きればいい。好きな時に好きな本を読み、好きな場所で好きな人と会う。そうすれば外側を流れる時間とはズレていくから、その狭間で苦しむことになるけど、そういう苦しみなら、むしろ徹底して苦しみ抜いたほうがいいと思う」

 自分の時間を生きる─。そうアドバイスしてくれた小松先生の授業は最後の回まで満員で、名言がちりばめられていた。

「自分の目で見て、自分の心で感じて、自分の頭で考える」

「何かが語られている時に何が語られていないか、何かを見せられている時に何が見せられていないか。常にもう一方の現実に目を向ける批判的な姿勢を持ってください」

 小松先生の教えが、タカさんの人生を揺さぶった。

「人生で一番見たかった景色」

 恩師との出会いに先立って、もうひとつ、タカさんの人生を動かした出会いがあった。

 それは受験のために鳥取から上京し、前述の明倫館を利用した時のこと。スタッフに案内されて図書室に入ると、1人の寮生が座って『ナショナルジオグラフィック』誌の英語版を閲覧していた。挨拶をすると自分が受ける東大の先輩で、合格後に同じ寮で生活を始めて親しくなった。

「先輩の落ち着いた話しぶりや成熟した雰囲気に惹かれました。僕がそれとは真逆の人間だったので興味を持ち、彼の落ち着きの源泉を探ろうといろいろ話をしていたら、信仰を持っている人だとわかったんです」

 先輩について、都内にあるクリスチャンの教会へ足を運んだ。いわゆる「宗教」という堅苦しいイメージはなく、そこに通う人たちと共にごはんやお菓子を食べ、歌を口ずさみ、好きなテーマについて話し合う「居場所」だった。礼拝は日本語と英語の両方で行われていたため、英語のほうにも参加した。

「牧師さんの説教も含めてすべて英語だったので、結果的に語学力も身につきました。最初は居眠りしてしまうこともありましたが、だんだん聞いていられるようになって、途中からは英語でメモを取りました。海外から日本に来た留学生も参加していたので、礼拝後には彼らとランチに行っていましたね」

 道しるべをつくってくれた先輩は現在、東南アジアに駐在し、金融関係の仕事をしている。ちょうど20年前の出来事を、リモート取材で懐かしそうに振り返った。

「入学時から国際的な分野に関心があった彼には、宗教というより、ひとつの生き方、生きざまに触れて、自分なりに感じてみてほしいというくらいのつもりで教会のことをお伝えしたんです。自分の中の核みたいなものをしっかり見据えることのほうが、人生では大事なのではないかと。それさえ押さえていれば、どんな生き方をしても、その原点に立ち返ることができる。そんな話をしたところ、彼は強く興味を引かれたようでした」

 教会で世代も職業も国籍も多様な人たちと交流したことは、タカさんの視野を大きく広げた。その後、初めて大学を休学した4年生の時に、自らの国際志向の原点となった韓国を再び訪れる。世界各国の学生たちによる国際交流イベントに参加するためで、百数十か国から学生たちが集まっていた。そこでコロンビアやボリビアといったスペイン語圏の南米の学生たちと仲良くなり、再び刺激を受ける。

「世界のさまざまな国の学生たちと気兼ねなく話をすることができた体験がすごく大きくて、人生で一番見たかった景色のひとつでした。特にラテンアメリカのノリが心地よかったんです。出会った瞬間から親しいみたいな。そこで人との距離の近さと温かさを感じ、彼らには『生きている感』がにじみ出ていました」

 これを機にスペイン語の勉強に目覚め、その半年後には観光がてらメキシコに2週間滞在。再び休学した大学6年目の夏からは、メキシコ政府の奨学生として留学する。

メキシコのタコス屋で汗水流した日々

メキシコでタコス屋をしていた時のタカさん(写真奥)

 留学先は首都メキシコシティにあるメキシコ国立自治大学。ラテンアメリカで最大規模を誇り、メキシコ国内で唯一、ノーベル賞受賞者を輩出した名門である。そこで外国人向けに開設している語学学校へ通った。1日3時間の授業を週5日受けていたが、8か月ほどがたったころに飽きがきた。すでにある程度、スペイン語を使いこなせていた上、通っていたタコス屋の店主と会話しているほうが、地元の顔なじみも増え、「生きたスペイン語」を体得できたからだ。

 メキシコの食文化を象徴するタコスに関われないか。以前からの思いを実現するため、生活費が支給される国費留学という立場をあえて放棄し、いったん、日本に帰国。再びメキシコへ戻り、店主に頼み込んでスタッフの一員になった。

 独立行政法人、日本学生支援機構(JASSO)が実施している「日本人留学生状況調査」によると、タカさんがタコス屋で働いていた2010年度、海外の大学などに派遣された日本の学生は約2万8800人。このうち留学当初の目的から離脱し、現地の飲食店勤務へと進路を変更した学生は、0・001%未満とみられる。

 稀有な体験とはいえ、地元で愛されているタコス屋だから、仕事は厳しかった。屋台の組み立てに始まり、清掃、その日の食材の用意、開店後の接客、閉店後の後片づけなど、やることは大量にあった。そこで夕方から深夜までみっちり3か月間、働いた。タカさんが回想する。

「店主のレオナルドは現地では考えられないぐらい几帳面でまじめな性格でした。それでいてユーモアのセンスもあり、知的で愉快な人でした。会話の最中にわからない単語が出てくると、必ずメモを取らせるんです。そのおかげで語学学校では教えてくれない表現も身につけることができました」

 海外生活における時間の「密度」をはかるバロメーターのひとつは、現地社会に溶け込めているか否かだ。一般的には年齢が若いほうがその耐性は高いが、これには語学力も含めて個人差がある。ローカルのタコス屋でメキシコ人スタッフに囲まれ、日本人が1人で働く。当然、そこでしか見えない景色がある。そんなタカさんの“コミュ力”と環境への適応力を、後に妻となる直美さん(34)も現地で感じ取っていた。

 出会いは2人が語学学校に通っていた時で、共通の知り合いを介してだった。直美さんが語る。

「夫は友達が多かったですね。性別や国籍を問わず、いつも見かけるたびに違う人と歩いていました。広く深く付き合っている感じです。だからコミュニケーションがうまいんだろうなと思っていました」

 直美さんはある時、居住先の部屋を探さなくてはいけなくなり、別の日本人学生とのシェアハウスで暮らしていたタカさんから「一部屋空いてるよ」と声をかけられたことを機に、親しくなった。抱えていた心の悩みにも寄り添ってくれた。

 直美さんは日本人の父親とメキシコ人の母親のもと、日本で生まれ育った。物心ついた時には日本語の家庭環境だったため、もともとスペイン語も英語も話せなかった。ところが周囲からは、「お母さんが外国人ってことは英語できるんだよね?」

 などと頻繁に尋ねられる。容姿が周囲と異なることも気になって、いつしかコンプレックスを抱くようになった。高校を卒業した後は、自身のルーツをたどる目的で、メキシコへ留学した。だが、治安も含めて異国の地での気を張った生活に心が疲弊し、うつ状態に陥った。

「そんな時に夫が『もっと肩の力を抜いて生きたらいいじゃん。このままいくと危ないよ』と、ストップをかけてくれたんです。もうこれ以上頑張らなくていいと。それで一気にネジが緩んでしまい、学校にまったく行けなくなりました。

 自分が崩れる直前の、ギリギリの状態だったんだなと。そこまでガッツリ私の人生に関わってくれたので、この人だったら大丈夫だなと思いました」

人生の迷走から一転、ブラジルで「飛び込み営業」

これからは作家活動にも力を入れていく、とタカさん(撮影/吉岡竜紀)

 1年間のメキシコ「遊学」を終え、学生生活も7年目になっていたタカさんは、日本へ帰国して復学する。再びキャンパスライフが始まったが、タコス屋で味わった「全身全霊で今を生きている」ような感覚はそこにはなく、閉塞感のある日常に失望してしまう。就職活動を始めるという選択肢もあったが、リクルートスーツを着て、企業説明会に参加する自身の姿を想像できなかった。その時に抱いた不安を、タカさんはこう吐露する。

「自分の時間を生きると決め、その感情に素直に従って生きてきました。ところが次第に世の中の『主流』からズレていき、結局はどこにもたどり着かず、遅かれ早かれ人生に行き詰まってしまうのではないかと。とはいえ4年間、回り道をしてきて、今さらシレッと就職活動をやってしまったら、これまで自分が歩んできた道のりに対する冒涜ではないかと感じたんです」

 考え抜いた結果、リクルートスーツには袖を通さなかった。だからといって明確な道筋が決まっていたわけではない。直美さんとはすでに婚約していたから、何かしらの生活の糧も得なければならない。まさしく「自分の頭で考える」という原点に立ち返らざるを得なかった。そうして迷走を続ける中で、動画の中のネイマールに出会い、半ば衝動的にブラジルに飛んだのだ。

 夫婦で移住する計画で、現地で日本語を使える仕事を探したが、うまくいかなかった。そこで思い立ったのが、ネイマールが所属するサントスFCへの飛び込み営業だった。

 形式や前例を重んじる日本とは異なり、海外では行動力で道が切り開ける場合がある。もっともこれは、相手を説得するだけのスキルやアイデア、そして情熱が伴って初めて成立するのだが、タカさんはそれにぴったり当てはまった。

 同クラブのスタジアムを見学中に見かけたスタッフらにいきなり声をかけ、自分の思いを熱弁したのだ。

「サントスFCが日本語の公式サイトを開設してくれて、うれしく拝見しました。ところが日本語の間違いが残念ながら散見されます。せっかくの素晴らしい取り組みがもったいないので、修正したほうがいいし、僕なら解決できます」

 すると日本に帰国してから1か月後、クラブの担当者から好感触のメールが届いた。これを機に、サントスFCの日本語広報担当として日本からリモートで携わるようになった。日系ブラジル人の家庭教師もつけ、ポルトガル語によるサッカーの実況中継を聴きまくり、通訳レベルまでスキルを高めた。もっともこれには、スペイン語に堪能だったという素地が大きい。

「おかげさまでポルトガル語はわりと、頭で考えずに話せます。一応普通に雑談できるくらいのレベルです」

 涼しい顔でそう語るタカさんはその後、ネイマールだけでなく、現在はスペイン1部レアル・マドリードに所属する、同じくブラジル代表のヴィニシウス選手の通訳などを務めた。こうした実績が評価され、後に日本人選手を対象に活動の場を広げたのだ。

「子育てこそが夢だった」

「子育てに多くの時間を割くのは親として当たり前。サポートやイクメンという言葉は好きじゃない」と話すタカさん

 世界を舞台に活躍するアスリートたちを相手にしているタカさんだが、「正直、自分の中での仕事の優先順位は一貫して高くないんです」と語る。むしろ「子育てこそが夢だった」と言う。

「学生のころから、仕事上のキャリアより結婚生活や子育てのほうに興味や憧れがありました。長男が生まれてからは育児の合間にできる仕事だけをやるようにしていて、実はフットリンガルもそれで始めたことのひとつです。オンラインで完結していますし、息子が寝た後の時間は欧州との時差も合うので。ただ、2022年に執筆業を始めてからは息子との時間を取れない日が増えてしまいました。最近で一番の課題です」

 一方の直美さんは、昨年9月に生まれたばかりの次男の世話にかかりっきりのため、小学校に通う長男についてはタカさんがほとんどの面倒を見ているという。

「私は授乳の寝不足で朝、起きられない日も多いので、長男の身支度や朝食の準備は今のところ、夫に任せっきりです。宿題や習い事もですね。あとは学校のママ友との連絡も、コミュニケーションが得意な夫の担当です。

 子どもへの接し方や可愛がり方を見ていると、夫は、私と比べても母性が強いんですよね」

メジャーリーガーにも広がった活動の場

サンディエゴ・パドレスに移籍する松井裕樹選手(左)に英語を教えて5年。信頼関係はバツグンだ。子育てについて話すことも多いという

 1月18日夜、タカさんの語学レッスンを一度のぞいてみた。Zoom(ズーム)の画面に映るのは、ドレッド風の髪形をしたタカさんと、著名なサッカー選手、ではなく、米メジャーリーグ・パドレスへの移籍が決まったばかりの松井裕樹選手(28)だった。タカさんは埼玉県内の自宅兼仕事場、松井選手は自主トレ先の奄美大島のホテルからZoomに参加していた。

「今日はちょうど取材に入っていただいているので、パドレス入団会見のリハーサルをやりましょう」

 タカさんが真剣な表情に変わり、本番さながらに英語で司会者になりきった。

「それではこれからわがチームに新しく入団した松井裕樹選手をご紹介します。ユウキ、皆さんに自己紹介をお願いします」

 松井選手がやや緊張の面持ちで口を開く。

「Hi! Hello evryone! My name is……」

 話の内容の一言一句が正確に伝わってくる、流暢な発音の英語だった。

 共通の知人を介して、松井選手と出会ったのは5年ほど前だった。以来、オフシーズンを中心に、オンラインで英語のレッスンを1日当たり60〜90分ほど続けてきた。松井選手がこれまでのレッスンを回想する。

「テキストを使った英語学習もあったのですが、最初は1か月近くかけて英語の歌を1曲マスターしました。楽天時代のチームメートで、中継ぎの米国人選手が大好きだった曲を覚えたんです。『一緒に歌ったら距離が縮められるよ』と言われて始めたのですが、実際に彼の退団後も交流が続いています。ほかにもスペイン語圏の選手と仲を深められるようにと、流行っているラテン系のアーティストの曲だったり、スペイン語の簡単なスラングを教わって、大いに役立ちました」

 これまでは楽天に所属し、外国人選手を迎える立場だったが、これからは逆に、相手の土俵で勝負しなければならない。松井選手が力説する。

「日本に来た外国人の方が日本語を積極的に話そうとしてくれていたら、やっぱりこちらもうれしいし好意的になりますよね。今度は僕が外国人の立場になりますので、積極的に相手の言葉や文化を学ぶ姿勢を見せることが大切だと思っています」

 入団会見に向けたスピーチの練習は、こうした思いに後押しされていたのだ。

 フットリンガルを通じたアスリートへのサポートはこれからも続けていくつもりだ。本格始動したばかりの文筆業では、すでに2冊目の執筆を終え、3月の刊行が決まっている。今回のテーマはスポーツビジネスだ。これらに加え、これまで最もエネルギーを注いできた、子育て・教育分野での活動も増やしていきたいと考えている。「自分の時間を生きる」タカさんの輝ける場所はどんどん広がっている。

タカさんの半生が書かれた『東大8年生 自分時間の歩き方』(徳間書店)は'23年3月に発売され「若い人に贈る読書のすすめ」2024のリーフレットにも掲載され、若い人にぜひ読んでもらいたい一冊※書影クリックでAmazonの販売ページへ移動します

<取材・文/水谷竹秀>

みずたに・たけひで ノンフィクションライター。1975年生まれ。上智大学外国語学部卒。2011年、『日本を捨てた男たち』で第9回開高健ノンフィクション賞を受賞。最新刊は『ルポ 国際ロマンス詐欺』。10年超のフィリピン滞在歴をもとに「アジアと日本人」の関係について、また現代の世相に関しても幅広く取材。ウクライナでの戦地取材も経験している。