福岡県小倉のストリップ劇場  撮影/紅子

 売春防止法が施行され、赤線が廃止されて今年で66年。再開発や建物の老朽化、転業後の後継者不在などさまざまな理由から、かつて遊郭や赤線と呼ばれた色街が姿を消している。その残照を追って全国各地に飛び、シャッターを切り続けているのが、「色街写真家」の肩書で活動を続ける紅子さんだ。初の本格写真集『紅子の色街探訪記』は、ページをめくるたび情念が匂い立つ。彼女の写真の源には、一体何があるのだろう?

19歳から32歳まで風俗の仕事に従事

 人々を虜にする女体に魅入られて、19歳から32歳まで、ソープランドをはじめとする風俗の仕事に従事していた紅子さん。色事に興味を抱いたのは、それより早い幼少のころだった。

「私は双子の姉なんですけど、妹が親戚から『明るい』とか『かわいいね』と言われる一方で、私は暗いし、声は低いし、言うことは聞かないしで、まったく好かれていなくて。一見、陰湿だったから寄ってくる子もいなくて、本当に居場所がなかったんです。そういったなか、公園の藪とかに捨てられていたエロ本を見て、『大人になってこういう世界に入ったら、人に受け入れてもらえるんじゃないか』と思っていました」

 紅子さんが幼少期を過ごした'70年代は、今よりアダルトな規制が緩かった。チャンネルをひねればお茶の間に裸の映像が流れ、子どもが秘密基地を作りそうな場所にはアダルト雑誌が。それらを見て、男性を魅了する女体に紅子さんは魅力を感じた。

愛媛県松山市の青線跡地  撮影/紅子

 小学校に上がっても周囲となじめず、いじめを受けていた紅子さんは、不登校になった。もともと絵を描くのが好きだったこともあり、学校に行けない時間は女性の裸の絵を描いたり、どうやって裸にされるのかの妄想に費やした。

「どうにか中学、高校と上がったんですけど、高校は半年ほどでやめてしまって、美術の専門学校に入ったんです。油絵を専攻していたんですけど、とにかく画材が高くて。アルバイトずくめの毎日を送っていた時期、家のポストに“日給1万円以上! フロアレディ募集”というチラシが入っていたんです。どんな仕事をするのかもわからないまま行ってみたら、透け透けのワンピースを渡されて

吉原のソープ嬢をやっていた20代のころの紅子さん

 そこは埼玉県西川口のピンサロだった。期せずして風俗の世界に飛び込むことになった紅子さんだが、両親からの援助がまったくなかったわけではない。しかし、小さな菓子店を営む実家は明らかに経済状況が悪く、自分で何とかしたい、家計を助けたいという思いもあった。

28歳で“日本3大ソープ”の有名店へ転職

初めての風俗店には1週間もいられませんでした。男の人の扱いはわからないし、明らかに下手で、店長からもお客さんからもダメなやつと思われて。子どものころから裸になれば人に受け入れてもらえると思っていたので、挫折を味わいました。とはいえお金がないので、その後もピンサロやヘルスを転々として

 時はギャル文化全盛の'90年代前半。紅子さんは渋谷のピンサロで働いていた。周りの嬢はガングロギャルばかりで話が合わず、そこでも完全に浮いていた。

 ある日、説教好きの客から、「吉原に行ったら人生終わる。あんな本番あるところ」と聞かされた。人生が嫌になっていた紅子さんは、そんな場所があるなら行ってみたいと考えた。

風俗向けの求人情報誌で“素人募集! みんな集まれ!”みたいな広告を見つけて、翌週には面接を受けに行きました。安いお店でしたが、講習で椅子洗いやマット、添い寝の仕方まで丁寧に教えてもらって、『なんてありがたいんだろう!』と思って。終わったらボーイさんや店長が、『講習修了おめでとう~』なんて拍手してくれる。まぁノセられたわけですが、これまでの人生でこんなに温かく迎えられたことはないと思いました」

 22歳で吉原のソープ嬢として働き始めた紅子さんは、専門学校に通いながら、天ぷらを揚げるバイトも掛け持ちしていた。しかし、ソープの仕事は全身を使うため、日に日に疲労がたまっていく。特に疲れたのがマットを使ったプレイだ。

 ここが自分の居場所だと思って働いてはいたものの、一歩外に出ると、自分の仕事を人に言うことさえできない。谷間の奥底から眺めるように世間を見ては、「なぜ自分はそこに行けないんだろう」と自問するも、這い上がり方がわからなかった。肉体の疲れは精神的なダメージにもつながった。

 3年ほど勤めて、マットがないヘルスに転向し、「週に1度ぐらいなら」と川崎の堀之内にある安いソープで2年働いた。夜になるとピンクのネオンが灯り、外に立つ嬢が浮かび上がる。その光景を、紅子さんは今も覚えている。

ところが28歳のとき、極めたいとかではないんですけど、ちゃんとソープの仕事をしたいという気持ちが芽生えてきたんです。高級店で働いている知人に、『吉原でちゃんと働きたいんですけど、どこのお店がいいですか?』と尋ねたら、日本3大ソープのひとつといわれていた『ピカソ』の名前が返ってきて。そこは1度のプレイに8万円かかる高級店なのですが、面接を受けたら、私みたいな普通っぽい人を求めていたようで、採用されたんです

 32歳まで『ピカソ』で働き、結婚を機に店を辞めた。しかし、子どもが1歳になるころ、夫から「他に結婚したい人ができた」と告げられ、離婚。ひとりで1歳の男の子を育てることになった紅子さんは、ある壁に直面した。

それまで風俗の仕事しかしたことがなかったので、どうやって生きていこうって感じで。漢字もあまり書けなくて、朝5時に起きて字の練習をしたり、パソコンもブラインドタッチから始めました。ようやく事務の仕事にありつき、40代後半になったとき、ふと『このままで人生終わるのかな。何か自分が生きてきた証しを残したい』という気持ちが湧いてきたんです」

紅子さん 撮影/高梨俊浩

 子どもの成長に伴い、再開したのがもともと好きだった街歩きだ。昭和の香りが残る場所、スナック街……心惹かれてスマホのシャッターを切るのは、決まって人生の裏街道のような場所だった。紅子さんは写真をインスタに投稿するようになった。

風俗嬢だった過去を後悔したくない」

テキストを書くためにその場所にまつわる歴史などを調べると、赤線や青線、遊郭の跡地であることが多かったんです。そんなことを繰り返すうち、『そういった場所の歴史をひもといて、何かしらメッセージのあるものとして伝えていきたい』という思いが募っていったんです

 フォロワーが増えるにつれ、「スマホで撮っています」とは言いづらくなってきた。そこで、2年前に一眼レフを購入。最初はシャッタースピードや露出が何を指すのかもわからなかったが、ユーチューブを見て勉強した。

 時を前後して動画撮影や編集も同じようにして学び、チャンネルを開設して色街の情報を配信し始めた。

撮影も都内、関東近郊、東北や四国など徐々に遠方にも足を延ばすようになり、そのあたりから『写真展をやりませんか?』とお声がけいただくようになったんです。最初はSNSで発表できるだけでもありがたいし、写真展なんて恐れ多いと思っていましたが、いざやってみると、いろんな方と交流が生まれて

 彼女が撮る色街は、キッチュな看板や豆タイル、アールデコ調の意匠など、建築やデザインとしての美しさを秘めているが、刻み込まれているのはそれだけではない。

写真を撮るときは、その場所に刻み込まれた営みの跡を意識しています。また、昔は身寄りのない遊女がそこに売られ、ご苦労を重ね、葬られてきた。そういった歴史があったことも感じ取っていただきたいです

 そんな写真をたっぷり収めた写真集『紅子の色街探訪記』の帯には「風俗嬢だった過去を後悔したくない…」とある。

風俗嬢だったころ、この世に自分の居場所はないと思ってつらい時期もありました。けれど、子どもを育てるとなったらスキル的なものを身につけ、普通の仕事に就くことができた。もちろん、守るべきものができて強くなった部分もあると思います。

 だからといって過去のことを後悔したって、時間は巻き戻せません。そんな私が赤線や遊郭の跡に惹かれて写真を撮るようになった。これをお導きというと大げさですけど、過去の経験があるから今伝えたいことがあり、それが今の活動につながっている。ですから、過去を後悔したくないんです

取材・文/山脇麻生 

『紅子の色街探訪記』(OPTICOPUS) 3800円+税