こんなに楽しそうに、気持ちよく歌う人がいるんだな―。そのステージを見ると、誰もがきっとそう思うに違いない。76歳でデビューした金嶋昭夫さんは、誰よりも幸せそうに歌を歌う。
「とても素敵な歌い方をなさっている。人間味でしょうね。ご自身の性格そのものが、声に表れている」
作曲家・岡千秋さんが評する異例の新人演歌歌手
『長良川艶歌』(五木ひろし)、『波止場しぐれ』(石川さゆり)などの楽曲を手がけた作曲家の岡千秋さんは、異例の新人演歌歌手をそう評する。
「私の人生に、『歌手になる』という予定はなかったんです」
金嶋さんが笑って答える。確かに、遅咲きというにも、あまりにデビューが遅すぎる。
「この年になって、まさか“新人”を体験することになるなんて思いませんでした、ははは!」
御年78歳。実年齢を聞いても、おそらく誰も信じない。少年のような笑顔は、70代にはとても見えないからだ。
金嶋さんの本業は、実業家だ。東京・新宿などでカラオケチェーン『カラオケ747』を展開する金嶋観光グループの会長であり、日本に初めて、カラオケボックスの前身「カラオケルーム」をオープンさせたのが、何を隠そう金嶋昭夫その人だ。
今、そのカラオケに自分の曲が入っている。
「人生は何が起こるかわかりません。多くの方に助けられて、今があります。たくさんの恩を受けてきましたから、今度は私が恩を返す番。多くの方々、社会に恩を返していくことを“恩送り”というのですが、私はこの響きをとても気に入っているんです」(金嶋さん、以下同)
その言葉どおり、金嶋さんは、養護施設や復興事業支援に寄付活動を行う篤志家でもある。そして、演歌歌手として全国に歌を届けている。実業家と演歌歌手。社会にインパクトを与える二刀流は、ここにもいる。
岡さんは、先の言葉の後に、こう付け加える。
「われわれの世界に、年齢は関係ないんですね。歌には人間性が出ます。その人、その年でしか出せない味があるんです」
どのようにして事業を始め、歌手になったのか。響きわたる歌声には、金嶋昭夫の人生模様が宿っている。
母とともに青酸カリで心中しようと…
茨城県下館町(現・筑西市)の6人きょうだいの次男として生まれた。父母は、韓国にルーツを持つ、在日1世だった。
「まったく働かない。お酒を飲んでいる姿しか見たことがなかった」。金嶋さんが振り返る父の姿は、酒におぼれたあげく、母に手を上げる……そんな思い出したくない光景ばかりだったという。
「母が朝から晩まで必死に働いて、私たちきょうだいを育ててくれました。おのずと、いつか母を幸せにしてあげたいという思いが募っていった」
母に親孝行したい─、極貧の中、その一心だけで生きてきた。ところが小学3年生のとき、
「『母ちゃんはもう疲れた。母ちゃん一人が死んだら、残ったおまえたちが父ちゃんにいじめられる。これを飲んで一緒に死のう』、そう母から告げられ、青酸カリを混ぜた水を差し出されました。姉がそれを口元に近づけると、私は慌てて制止した。『生きていれば、いつかいいことがある』。母に叫んだことを覚えています」
母がまた同じことをするのではないかと、その後、怖くて眠ることができなかった。一家の行く末は、風前の灯火だった。
「神様は本当にいるんだな」
ある日、しょうゆを買うために隣り村まで歩いていると、畑の中に数枚の泥まみれの千円札が散乱していた。
「神様は本当にいるんだなって思いました。ただ、このお金は神様が私の懐に入れるためにプレゼントしてくれたのではなく、『出世払いをしろよ』ということだと思ったんですね」
お金を渡すと、母は金嶋さんをギュッと抱き締めたという。拾ったのは数千円だったかもしれない。だが、結果的に拾ったものは命だった。神様からのへそくりがなければ、「今の自分はいません」。そう金嶋さんは微笑む。
高校生のとき、父が肝臓がんで亡くなった。風向きが変わった。
卒業すると、母に楽をさせるため、会社の寮に住み込みながら働くことを決意する。
「いつも端のほうでごはんを食べていた姿を覚えています」
こう懐かしそうに振り返るのは、金嶋さんの妻・みどりさんだ。当時、金嶋さんはみどりさんの兄が経営していた大衆食堂の常連で、美容室で働いていたみどりさんは休日にこの兄の店に時折顔を出していた。
2人は惹かれ合うようになり交際をスタートするが、みどりさんは当時16歳。両親の反対にあい、破局してしまう。
しかし、2人の絆は切れることはなかった。1年後、再び交際を始め、自然の成り行きで共に暮らすようになる。
「運命めいたものを感じたんです。主人は、誠実というかまじめ。そういう人とだったら、どんな苦労があっても、『私はついていける』と思ったんです」(みどりさん)
「両親の反対を押し切ってまで私を選んでくれた。私は、『この人を社長夫人と呼ばれるような人にしないといけない』と決めました。彼女の覚悟が、私を燃えさせたんです」
金嶋さんが20歳、みどりさんが18歳のとき、2人は生涯の伴侶となる。勤めていた会社を辞め、神奈川県相模原市でバラック小屋を改築した焼き鳥店を、手探りで始めた。
「主人はギターを抱えて、時折、小林旭さんの歌を歌っていたりしました。まさかこのときは、後に歌手になるなんて思っていませんでしたが(笑)、歌が好きだった姿は、昔も今も変わらないです」(みどりさん)
見よう見まねで始めたこともあり、なかなか焼き鳥店が波に乗ることはなかったと回想する。4畳半ほどの狭いアパートで2人暮らし。希望以外には何もない。
「私は、とても貧困な家庭で育ちましたから、遊ぶような道具を持っていなかった。ラジオから流れてくる三橋美智也さんや春日八郎さんの歌声が、数少ない私の楽しみだった。今思うと、子どものころからずっと歌に助けられていたんですね」
希望の傍らには、いつも歌があった。
女性たちの助けがあったからこそ、ここまでこれた
次第に焼き鳥店が軌道に乗り始めると、酒をメインに扱うバーに業種転換することを思いつく。さらには、
「友人がキャバレーをオープンさせ活況だと教えてくれました。だったら、私もキャバレーをやってみようと思い立った。私は負けず嫌いなんです」
ちゃめっ気たっぷりに金嶋さんが話す。ただの負けず嫌いじゃない、大の負けず嫌いだと笑う。
「だったら自分は、東京を代表する大繁華街の新宿で勝負したいと思ったんです。私は、社会人になったとき、自分の家庭環境などを顧みて、後ろめたさを感じました。ですが、そうしたコンプレックスが、私の原動力になったことは間違いない。負けたくないという気持ちが、新宿へと気持ちを向かわせた」
相模原から新宿へ。しかも、高級キャバレーを始めるという。大勝負とも無謀ともとれるこの判断を、みどりさんはどう見たのか?
「布団しかない4畳半からのスタートでしたから、ダメだったらまたゼロに戻って、4畳半から始めればいい。そういう気持ちがいつもありました。親の反対を押し切って結婚したので、覚悟があったのだと思います」(みどりさん)
高級キャバレー『コンコルド』は、出だしこそ好調だったが、ツケが日常的であることから現金収入が少なく、キャッシュフローが回らなかった。「見立てが甘かった」と苦笑する金嶋さんに、追い打ちがかかる。「僕らは辞めます」。男性従業員の全員が通達してきた。いわゆる、“総上がり”である。
「成り上がりの典型ではないですが、私が不遜な態度をしていたのだと思います。『ついていけない』と言われ、とてもショックだった。思いやりや気遣いが足りなかった。気持ちを入れ替えなければいけないと、経営者としての未熟さを痛感しました」
唯一の救いは、ホステスである女性陣が誰一人辞めなかったことだった。
「お母さま、奥さま、そしてスタッフの女性たち、金嶋さんは女性に救われる運命なのかもしれませんね?」
筆者がこう水を向けると、「本当にそう思う」と頭をかく。
「今も助けられっぱなしです(笑)。頭が上がらないなぁ」
この人懐っこい笑顔を、母性が放っておけないのかもしれない。
“パブコンパ”“カラオケルーム”……負けず嫌いが商才に
『コンコルド』の失敗を生かし、スナックともキャバレーとも違う、バーテンダーがシェイカーを振るカクテル主体の店「コンパ」に活路を見いだした。加えて、イギリスの大衆酒場「パブ」の要素を取り入れ、高級クラブでもバーでもない“ありそうでなかった夜の社交場「パブコンパ」”を生み出した。
「人間は熱意が一番大切だと思うんです。熱意があると、人より考える。すると、アイデアがひらめくんです」
日本初の「カラオケルーム」も、この圧倒的な熱意によって誕生する。
先のパブコンパは、新宿で話題になると、似たような店舗が雨後のたけのこのように乱立したという。
「何か新しいアイデアはないかと試行錯誤しているときに、ある講演で岡山県でコンテナを改装し、そこにカラオケ機器を置いて商売をしているお店があると耳にしました。私自身、歌が大好きです。面白いアイデアだなと思い、池袋の「パブコンパ」を改装し、10部屋ほどのカラオケが楽しめる部屋としてリニューアルオープンしてみた」
恥ずかしがり屋の日本人は、人前で歌を歌える人とそうではない人がいる。だったら、誰もが思う存分、好きな歌を歌えるように、一つひとつ区切ればいいのではないか。飛行機好きで、とりわけゆったりとした空間のジャンボジェットが好きだった金嶋さんは、この画期的な新店舗を『747』と命名した。
「今でも鮮明に覚えていますが、信じられないくらい人が殺到した(笑)。部屋が空くのを待つお客さまで行列ができるくらい。新宿、渋谷、原宿、新橋……月に1店舗のペースで拡大していくほどでした。事業に挑戦してみたいという“事業力”こそ、私のモチベーションなんです」
『カラオケ747』は大成功を収めた。金嶋グループが、大空へと羽ばたく瞬間だった。
常に極貧時代を思い出し、堅実に生きる
目の前にいる金嶋さんは、80歳近い年齢だとまったく感じさせない。顔が若々しいことはもちろん、遠目から見てもわかるほど、肉体が引き締まっている。スーツの上からでも、その大胸筋はたくましく、一層スーツ姿を映えさせる。「きっと自分に厳しい人なんだろう」。肉体からも、そうした哲学が伝わってくる。
「演歌歌手は、スーツが似合わなければいけませんから、上半身を鍛えるためにダンベルを持ち上げるなど、毎日、運動を続けています。自分が健康であれば、家族も従業員たちも守れます。自分のためだけだったら、ここまでできないかもしれない(笑)」
自分を律する─。その考えが通底しているからだろう。金嶋グループは、バブルに浮かれることなく、崩壊後も無傷で乗り切る。
「現在、私たちは新宿に17棟ほどビルを持っていますが、バブル前は1つも持っていませんでした。カラオケ事業も成功を収めていましたが、すべて賃貸でした」
『カラオケ747』は、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。しかし、金嶋さんは最盛期でも40店舗ほどにとどめ、全国展開をしなかったという。事業家の顔になって、話を続ける。
「商売には流行り廃りがあります。いつ下火になるかわからない。新しい業態に変更するとき、全国に何百店舗もあると、その改装費用に莫大なコストが発生してしまう」
質実剛健でいて、勤倹質素。この背景に、「幼少期の貧困」があることは想像に難くない。
「有頂天になると、自分が負けてしまう気がするんです。私は、儲け主義ではなくて、完璧主義。何のために商売をするかというと、私はお金を儲けるためではなく、目の前のお客さまを喜ばせたいからなんですね」
満足させる商売ができれば、おのずとお金は生まれる。
「全国展開しなかったのも、広げすぎると自分の目が行き届かなくなるから。お客さまに迷惑がかかるような商売はしたくない」
バブルに浮かれ、多くの人の目がくらむ中、金嶋さんは目の前のことに集中した。熱狂の時代、金嶋グループは甘い話に乗らず、愚直に事業と向き合った。結果、銀行から信用を失わず、新宿の一等地にそびえる暴落したビルを購入することにつながる。飲食事業、アミューズメント事業など、さらに事業は拡大した。
「カラオケボックスも次々とまねされましたが、目の前のことに注力すると周りが気にならなくなるので焦らなくなる。チャレンジ精神はあってしかるべきだけど、野望は持ちすぎないほうがいい。お金もある、野望もあるとなると、落とし穴にハマってしまう」
そう語る顔は、大繁華街・新宿で事業を成功させた傑士─に違いないのだが、“76歳でデビューしたキャリア2年の新人演歌歌手”の顔も持ち合わせるというのが、不思議でならない。一体どうして歌手に。話を聞けば聞くほど、金嶋さんの人間的魅力の底は深くなる。
運命の出会いから“歌手・金嶋昭夫”が誕生
2023年12月15日、新宿の伊勢丹会館にある「GARLOCHI(ガルロチ)」。そのステージに金嶋さんはいた。『金嶋昭夫WinterShow』と銘打たれたコンサートには多くのファンが詰めかけ、その視線の先には、誰よりもにこやかに場を楽しむ金嶋さんの姿があった。温かみのある等身大のショーは、飾ることのない金嶋さんの人となりを表しているようだった。
「僕は、こういう方こそスターになってほしいと思う」
舞台の袖で、目を細めながらそう話す「株式会社ワンハート」社長の田村陽光さんは、歌手・金嶋昭夫の生みの親だ。出会いは、介護施設で行われた渥美二郎さんのコンサートだった。
「終演後、金嶋さんが施設にあるカラオケルームで、気持ちよさそうに歌を歌っていました。その歌声を聞いて、思わず『今までCDは何枚くらい出されているのですか?』と尋ねた。それくらい上手だったんですよ」(田村さん)
田村さんは、渥美二郎さんの仕事も手がけるキャスティング会社を経営している。金嶋さんが、笑って振り返る。
「『747』の音響チェックをするため、長年、歌ってきたものですから、多少、歌には自信がありました。とはいえ、まさか田村社長からスカウトされるとは思わない。本当に、偶然の出会いから始まりました」
素人が出すような記念のCDだろうと高をくくっていたという。ところが、後日、日本コロムビアの関係者が来社した。そのまま、「何曲か聴かせてくれませんか?」と実技審査ならぬオーディションが始まり、新宿の『カラオケ747』へ移動することになった。
自らが手がけたカラオケルームで、歌手への扉をこじ開ける─。優れた脚本家でも思いつかない、名シーンが幕を開けた。6曲ほど歌い終わると、「日本コロムビアからデビューしてください」と切り出された。
「驚くも何も、信じられないとはこのことです。ですが、願ってもないチャンス。ぜひやらせてくださいとお願いしました」
作曲を岡千秋、作詞を石原信一が務める
青天の霹靂は続く。
数日後、デビューシングルの作曲を岡千秋が、作詞を石原信一が務めると告げられる。「私の歌をこんなにすごい先生方が!? しばらく、夢なんじゃないかと思った」。事業論を語る金嶋グループ会長の目とは打って変わって、少年のように目をきらきらと輝かせる。
大人の恋を歌ったデビューシングル『新宿しぐれ』の作曲を務めた、岡さんが振り返る。
「決して口にはしませんが、苦労をされてきたんだろうという境遇を金嶋さんから感じました。曲を考える際、あれこれいろいろと考えるものなのですが、金嶋さんは人間味にあふれているから、メロディーがすっと降りてきた。自分で言うのも何ですけど、こういうケースは珍しい(笑)」(岡さん)
岡さんは、情景や雰囲気を人間味で伝えられるのは、天性のものだと指摘する。そして、こう続ける。
「そういう意味では、歌手として必要なものをお持ちになられていた方だったということでしょう。性格そのものが声に出てらっしゃる。魅力があるのだから、このまま真っすぐ歩き続けてほしい」(岡さん)
社会に恩を返す“恩送り”の人生を歩み続けたい
歌手になれるなんて夢にも思わなかった。その代わり、70歳を過ぎてから、恩を返す人生を歩みたいと願った。
「改めて自分の人生と向き合ったとき、残りの時間を社会のために還元しようと思いました。弱い人でも、幸せになる権利はある。命は、どれをとっても大切な命のはずです。環境によって、その後の人生が決まってしまわないよう、私は寄付という形で“恩送り”をしようって」
欧米では、財を成した者が寄付をする、あるいは財団や基金を設立するといったことが珍しくない。しかし、ここ日本では理解に乏しく、寄付文化が十分に根付いているとは言い難い。
「それを変えたい」
新型コロナウイルス対策では、医療機関を支援した。新宿にある児童養護施設『あけの星学園』で暮らす新成人のお祝いのために、1000万円を投じて『金嶋昭夫基金』を設立した。
「自分が50年以上にわたってお世話になった新宿から恩返しをしようと。『あけの星学園』で育った子どもが新成人になったときに5万円を受け取れる……毎年20人ほどが成人を迎えて卒園するというので、10年間は支援が続けられるように設立しました」
また、日本だけではなく、両親がルーツを持つ韓国に対しても寄付活動を行う。一人ひとりには返せないからこそ、自身が世話になった社会に恩送りを続ける。あのとき、畑の中で拾った数千円が、こんな形でめぐりめぐるとは、神様ですら想像していなかったかもしれない。
筆者が「出世払いにしては、太っ腹すぎます」と笑って感嘆すると、「人間は幸せになるために生まれてきてるわけだから、幸せにならないと!」。こちらの笑顔がかすむくらい、まぶしい笑顔で返す。
前出の田村さんが断言する。
「あの笑顔に、みんなやられるんですよ(笑)。金嶋さんが寄付活動をしていると知ったのは出会った後だったけど、会った瞬間に惹きつけられるものを感じた。金嶋さんのそうした生き方が、表情からにじみ出ているからだと思う。たくさんの歌手を見てきたけど、こんな歌手はいません」
新宿にビル17棟を有する篤志家の新人歌手─、たしかに規格外すぎて聞いたことがない。そういえば、『金嶋昭夫Winter Show』にゲストとして出演した「夢グループ」石田重廣社長は、笑いながらこう話していた。
「金嶋会長の顔は、人から嫌われない顔。目を見ていただいたらわかると思うんですけど、とても純粋な目をしているんですね。うらやましいなぁって思います」
金嶋さんを囲むとき、どういうわけかみんなが笑顔になる。社会に優しい人の近くへ行くと、こちらの心まで柔らかくなってしまう。
事業家として、歌手として、できることを模索し続けたい
金嶋さんは歌手として、やりたいことがあるという。
「もしかしたら『紅白』に出られるチャンスもあるかも……という淡い期待もあるけれど、プロの歌手としてデビューしたことで、社会貢献の幅が広がったと思うんです。普通の歌手は、歌を歌い続けることでお金を稼がないといけないと思いますが、私はそうじゃない」
養護施設で歌を披露した際、自身にとっても思い出深い三橋美智也の歌を熱唱した。
「入居されているおばあちゃんやおじいちゃんが涙を流して喜んでくれるんです。『うちの人が生きているときに、よく歌っていた。懐かしくて、うれしくて』って。歌って人を感動させるんですね。寄付とは違う、歌手にしかできない恩送りもあるんじゃないかとひらめいた」
社会活動も二刀流で挑む。57年間、互いに支え合ってきたみどりさんは、夫の新しいスタートをこれまでと変わらずに見守る。
「いろいろと苦労してきた姿も知っています。もう78歳ですから、好きなことをさせてあげたいなっていう気持ちですね」(みどりさん)
少し照れくさそうに笑う。
「歌を歌ってるときの主人の顔は、本当に素敵だと思いますよ」(みどりさん)
社長夫人になっても、4畳半の部屋に響いていた歌声を忘れることはない。
金嶋さんは、「縁というのはとても大事なもので、大切な人とは遅かれ早かれ必ず出会う」と、言葉に力を込める。
「事業家として結果を出すことができたのも、歌手として新しい扉を開くことができたのも、縁のおかげです。人間にはそういうチャンスが巡ってくる。だけど、それをつかむためには熱意が欠かせない。逆に言えば、熱意があれば、チャレンジをさせてくれるということ」
縁を引き寄せるためには何が必要か?
「幸せは自分一人ではつかめません。幸せは、人がくれるものですから投資をしないといけません。といっても、金銭の投資ではないんですね。思いやりや気遣い、優しさ。これも立派な人への投資なんです。この積み重ねが、何年、何十年とかかるだろうけど、幸せにつながる」
人は老いていくと、人付き合いも物持ちも、どう減らしていこうかと「引き算」の考え方になりがちだ。だが、金嶋さんには、自らがやりたいこともあれば、誰かに与えていくことも、「まだまだある」と話す。私財を投じてでも、社会に恩送りをする。まねのできない「足し算」だ。
どうして金嶋さんの笑顔が、人を惹きつけるのかがわかったような気がする。この人の笑顔は、夢を叶えた人の笑顔ではなく、やりたいことを思う存分発揮している人の笑顔なのだ。
「恩送りをしながら歌を歌い続けたい。私にしかできないことがある」
キャリア2年の新人歌手。だが、金嶋昭夫の熱意は、78年間、ずっと燃え続けている。
<取材・文/我妻弘崇>