ヴァイオリニスト高嶋ちさ子の父で、敏腕音楽プロデューサーでもある高嶋弘之さん(※高=はしごだか)。テレビで屈託ない笑顔を見せる高嶋さんだが、挫折や後悔の多い人生だったという。特に、病気で亡くなった奥さまのことはいまも胸を痛めている。「7年たっても時々ふと、妻と話したいなあと思うことがあるんです」。笑顔の裏の本音を聞いた。
人生でいちばんの大誤算
仲のいい家族と友人、楽しんでできる仕事、そして健康な身体……人生の晩年、これだけのことに恵まれたら、どんなにいい人生だろう。
89歳のいま、そのどれもを手に入れ、「毎日楽しくてしょうがないですよ」と笑う高嶋弘之さん。ヴァイオリニスト高嶋ちさ子さんの父で、テレビ出演を機に人気者に。
いまや「お父さ~ん」と街で小さな子に声をかけられるほどで、現役の音楽プロデューサーという顔も併せ持つ。若いころから音楽業界で才を生かし、ビートルズの仕掛け人としても有名な高嶋さん。
「順風満帆なように見えるでしょうが、陰で挫折はたくさん経験しました。いちばんこたえたのは妻との別れ。まさかこんなに早いとは思わなかった。ほんとに、人生でいちばんの大誤算ですよ……」
妻、薫子さんが逝ったのは7年前の夏。享年79。高嶋さんが27歳、薫子さんが25歳のときに出会い、55年間連れ添った伴侶との別れだった。
「僕が東芝レコードという会社にいたときに新人で入社してきたのが出会い。もう、かわいらしくてねえ。しかも、かわいいだけじゃなくて頭もいいし、話もおもしろい。藝大を目指してピアノを勉強していたことがあるから音楽の知識も豊富で、話も合う。すぐ仲良くなりました」
結婚までは早かった。
「社内で『かおちゃん』などと気安くニックネームで呼ばれるのを見るのが嫌で(笑)、そうなる前に3か月でやめてもらって結婚しました」
それからずっと高嶋さんを支え、よき家庭人として役目を果たしてくれたという。長女、長男、次女と3人の子どもに恵まれた高嶋家だが、高嶋さんは自他共に認める仕事人間。子育てはすべて妻まかせだった。
妻が難病の「間質性肺炎」と診断される
「僕はプロデューサーという仕事が好きで好きで、会社に行っちゃうと家のことは頭の中から消えちゃう。電話の1本すらしませんでした」
とはいえ、夫婦仲はよかった。薫子さんはそういう高嶋さんをよく理解してくれていたし、何より2人はよく話をした。音楽の話、子どもの話、時には人の悪口も。
「ユーモアのある人で、とにかく話がおもしろい。これはね、あまり大きな声では言えないけれど、悪口のセンスが抜群でね(笑)。2人で大笑いしながら話すの、楽しかったなあ」
と高嶋さんは思いをはせる。
子育てを終え、そんな2人の時間がずっと続くと思っていたとき、薫子さんは突然病魔に侵される。難病の「間質性肺炎」。診断されたときは、2か月持たないかもしれないと言われたほど重篤だった。
最悪の事態は免れたものの、病気は刻々と進行していった。
「それからは私が料理をしたり、話をしたり、できる限りそばにいました。別れまで少しでも時間をつくりたかったから。でも、会社を長期間休むという選択まではしなかったんです」
仕事大好きな自分が妻のために仕事を休む……それがかえって妻を苦しめることになると思ったのだ。
「でも、最期はあの強気な家内が『仕事から早く帰ってきて』なんて言ってね……。そういう姿を思い出すと、ああ、会社なんか休んでもっともっと一緒にいてやればよかったと思ったり、もっと早く病院に連れて行っていれば、もう少し生きられたかなあと思ったり。後悔ばかりです」
現在は長女と自宅で2人暮らし。料理を作ることもある高嶋さんが、もうひとつ後悔していることがある。
「自分で作るようになってわかりますけど、食べてくれる人がいるってほんとに幸せなこと。家内はよく『夕飯を食べないんだったら、ひと言連絡ちょうだい』って言っていたのに、僕は電話ひとつしなかった。ほんとに申し訳なかった。用意したのに食べてもらえないなんて、そんなに悲しいことはないですよ」
愛する人を失ったとき数限りない後悔が姿を現す─。
「家内との別れは、身体が半分持っていかれるほどつらかった。時々ね、無性に会いたくなりますよ。笑って僕の話を聞いてくれないかなあって。家内は逝く前に『私はいい人と結婚できた』と言ってくれたのですが、その言葉がずっと心に残っています」
今でこそ元気で活動的な高嶋さんだが、しばらくは茫然自失の日々だった。が、高嶋ファミリーとしてのテレビ出演の機会が訪れた。
「あとでわかったんですが、家内を亡くして抜け殻のようになっていた僕を見て、ちさ子が『このままだとボケちゃう』と心配して仕込んだことでした」
テレビでは毒舌キャラのちさ子さんだが、「繊細で優しい」と弘之さん。
「自分もつらかったのに僕の心配をしてくれてありがたかった。家族みんながこうやって優しいのは、長女の未知子のおかげでもあるんです」
ダウン症児の家族にとっては厳しいこともたくさんある
高嶋家の初めての子どもである未知子さんはダウン症だ。生後2か月の健診でなんの前ぶれもなく医師から告げられた。
「20歳まで生きられないと言われたときは本当にショックでした」
当時は今ほど情報もなく、家族にダウン症の子がいると存在を否定するかのように隠していた時代でもあった。
「それがいまや未知子は61歳。この60年の間にダウン症の認知も理解も進みました。支援が必要だけど、未知子らしく楽しく生きられています」
高嶋さんは、街でダウン症の人を見かけると必ず声をかける。もしかしたら迷惑かもしれないと思いつつ、それでもかけずにはいられないのだという。
「ダウン症児の家族にとっては、厳しいこともたくさんあります。だからこそ当事者にしかわからない思いを一瞬でも共有できたら、それがきっと救いになると思うんです」
社会の中で生きづらい人の視点に立ち、小さな優しさを与え合う素晴らしさ。
「それは未知子がいなかったらわからなかったことなんです」
今年で90歳を迎えるという高嶋さん。まだまだ「お迎えがくる気がしない」と笑うが、終活の準備もおこたりない。未知子さんが今後安心して暮らせる施設に入居し、そこの暮らしに慣れること、そして残された子どもたちがトラブルにならないようにお金のことをちゃんとすること。
「これができたら、もう親としての務めは終了かな」
仕事はもちろんいまだ現役で、テレビに出たり、本を書いたり、そしてジムにも通ったり、日々笑いながら過ごしている高嶋さん。
「隣に家内がいないことは悲しいけれど、彼女にはいつかどこかできっとまた会える。そのときを楽しみにしながら、もう少しこの世で“愛されじいさん”を目指すつもりです(笑)」
取材・文/野沢恭恵
たかしま・ひろゆき 1934年生まれで今年90歳を迎える。株式会社シンバ取締役兼ゼネラルプロデューサー。高嶋音楽事務所主宰。次女はヴァイオリニストの高嶋ちさ子。近著に『笑う老人生活』(幻冬舎)