熾烈を極める中学受験。2015年から9年連続で首都圏での国立・私立中学校の受験者数は増加してきたが、今年は200人ほど減少。これは、首都圏における小学6年生の子どもの数が減ったことに起因するもの。少子化が進行する一方で、受験率は過去最高を更新。受験熱は高まり続けている。
「いい学校に入って、いい人間関係を築ける環境を与えることが、子どもの将来のためになるとは思うのですが、わが家では受験させるべきか悩んでいます。そろそろ具体的に考え出す時期ではありますが、子どもへの負担も大きいでしょうし……」
『日能研』の“文化”
そう話すのは、首都圏に住む小学3年生の息子を持つ主婦。中学受験をさせず、公立への進学を考える親がいる反面、高い水準の教育を受けさせたいというのも親心。その支えになるのが、受験塾だ。
「とりあえず、どの塾に通わせるか情報を集めていますが、その中で日能研には変わった“文化”があると聞きました。毎年2月、中学受験の合格発表があるのですが、日能研の教室の入り口には、合格者の名前と一緒に、保護者から贈られた日本酒がズラッと並ぶそうなんです。なんでも受験に合格した際に塾へ渡すお礼は日本酒と決まっているとか。お礼はわかるけど、なぜ日本酒なのでしょう」(主婦)
この疑問について、インターネットで検索すると、塾のある地域周辺に配るため、日能研の講師は日本酒が好きだから、もらったお酒を3割引で酒屋が買い取るから、といった真偽不明の情報が……。
そこで日能研の広報に話を聞いた。
「確かに、日能研ではそうした文化がございます。入試を終えた後の進学先のご報告などで、親子で来ていただいた際に日本酒を頂戴します。その日本酒の1本1本に合格した学校名と合格者のお名前が書かれており、日能研では“合格酒”と呼んでいます。これは、受験生と保護者の合格を喜ぶ気持ちが形となったものです」
合格のお礼というのはわかるけど、なぜ“日本酒”?
「日能研は、1953年に創業しておりますが、当時は受験に合格した方々から、お礼の品を渡したいという声をいただくことがあったそうです」(日能研の広報担当者、以下同)
終戦から10年もたたない時代。中学受験をできるのは、経済的に裕福な家が多かった。そのため、お礼として高級なお菓子や現金などを持参しようとする保護者もいたという。
「そこで弊社の創業者である故・高木知巳(ともみ)は、保護者の方々に“いつも高い月謝をいただいているので、これ以上の付け届けはいただけない。いっさい手土産はいりませんし、何度でも気軽にご相談に来てください”とお伝えしたのです。ただ、大の酒好きだった高木は“合格した暁には、お酒を1本いただければ、もうそれで十分ですから”とも付け加えたのです」
これが合格酒のはじまり。文化として定着したのには、別の経緯もあるという。当時の日能研本部は、東急東横線『菊名』駅近くの坂の上にあった。
「校舎の2階の窓からは当時、保護者が坂を上って来る様子を見ることができました。そこで創業者の高木が保護者と“合格だったらお酒を持って報告に、うまくいかなかった場合にはお菓子を持って2次試験対策の相談に来てほしい”という約束をしたのです。つまり、坂の上から見たとき、ひと目見て合格の報告なのか、2次試験の相談かを判別するため。事前にわかることで高木が面談に臨むうえでの心づもりができましたし、気持ちを楽にして訪れてもらえるようにと考えてのことでした。保護者も“落ちてしまった”と、あえて言葉にする必要もないですしね」
昨今は入試時期の変化などから、こうした“目印”の必要もなくなった。
「かつては1次試験から期間を空けて2次試験が行われていましたが、今は入試が連続して行われるようになったため“目印”としての役割はなくなり、合格報告のお酒だけが文化として残っているという状況です。受験校については、入試期間中に限らず、もっと前からいろいろと相談していく形になりました」
貰ったお酒はどうするの?
贈られた大量の日本酒はどうするのか。酒屋が買い取るといったネットの噂もあるけれど……。
「1本1本にお子さんのお名前と合格した学校名が書かれているお酒ですから、売るなんてことはありえません。各教室の講師や職員をはじめ、私のような広報部で子どもたちと直接は関われない本部職員も、子どもたちの合格の喜びを感じながら、大切に飲ませていただいています。
また、普段から子どもたちの通塾を見守ってくださっている方々にも、感謝の気持ちを込めてお届けしています。例えば、教室が入っているビルのほかの企業や近隣の方々、駅や交番など。合格酒ですから“縁起のよいものとして、お召し上がりください”と、お渡しております」
塾に通う子どもたちは小学生だ。トラブルに巻き込まれないよう、地域全体で注意深く見守ってもらうための気遣いや感謝を忘れない。
持参する保護者の中には、日本酒以外のお酒もあったりするの?
「基本的には日本酒が多いのですが、ワインやウイスキーなどもいただくことはあります。まれなケースだと、日本酒の一斗樽(いっとだる)を贈ってくださる方もいれば、入試を頑張った気持ちをどうしても伝えたいと子どもが自分のお小遣いから缶ビールを買ってくれたこともありました。ただ、これはあくまでお気持ちとしていただくものですので、決して強制しておりません。今は各教室で保護者の方々に向けてスタッフが、こういった文化があることや、その由来などをお伝えさせていただいています」
今年4月で創業71年を迎える日能研。長きにわたって続けられた文化には、こんな思いが込められていた。
「創業者の高木が込めたメッセージとは、合格したらお酒をいただきますが、それまでの相談などは手ぶらで気楽に来てほしいということ。授業料をいただいているわけですから、遠慮せずに来てほしいというのは、私たちも大切にしています。
伝統として定着していった中で、毎年ズラーっとお酒が並べられることで、それを見た6年生以下の子どもたちや保護者も“合格に向けて頑張ろう”と思いが高まる面もあるんですよ。そのため日能研では、今後もこの文化を大切にしていきたいと思っております」
ちなみに、日能研の職員は日本酒がお好きなの?
「私は、日能研に入社してから日本酒を飲めるようになりました。自宅に日本酒を持ち帰る職員もおりますが、会社のイベントで合格酒を飲むときは、子どもたちひとりひとりの頑張りを振り返り、来年も引き続き合格の支援を頑張っていこうと職員同士で話しています」
職員たちの喉を潤すその酒からは、連綿と積み重なった歴史が生みだす、しみじみとした味わいが広がって――。