3月21日の「世界ダウン症の日」。その日を特別な思いで迎える人がいる。パーツモデルの第一人者として30年以上第一線で活躍する金子エミさんだ。プライベートでは、ダウン症スイマーとして、世界を舞台に活躍する長男・カイトさんを母として最も近い場所で支えている。
過酷な練習を強いる悪い母親かもと悩んだ
カイトさんが水泳を始めたのは、11歳のとき。実弟のリオさんを通わせていたスイミングクラブで見つけた「障害児クラス」の案内がきっかけだった。当時も今も日本ではダウン症児が通えるクラスを持つスイミングクラブは少ないのが実情。たまたま出合えたことは「本当にラッキーだった」と振り返る。
「ダウン症の子は、心臓や呼吸器系の疾患リスクを抱えていることが多いのですが、幸いカイトはその経歴はなし。ただ、鎖肛(肛門の形成異常)の手術をしているため便秘がちなので、健康な身体づくりのために始めた水泳でした」(金子さん、以下同)
幼いころから水に触れることが好きだったこともあり、カイトさんはスイマーとしてめきめきと成長。始めて2年ほどで「日本知的障害者選手権」に出場できるタイムをクリアし、世界への挑戦も意識するようになった。それと同時に練習もハードに。1回で3千メートル以上泳ぐトレーニングが必要になっていった。
「やはり体力的にはきついんですよね。スクールへ行く車の中で、あまり弱音を吐かないカイトから“ママ、ぼくが死んでもいいんですか?”と言われたことも。
母親としてひどいことをしてるんだろうかと悩みながらも、水に入れば意識を切り替え、本当に気持ちよさそうに美しく泳ぐ姿を見て、“私も命がけで彼をサポートしていこう”と覚悟を決めました」
アメリカなど海外のスイミングクラブでは、健常者クラスと同列でダウン症のクラスを開設していることは珍しくなく、競技選手を育成する環境が整っている。
しかし、日本ではダウン症クラス自体が珍しい上に、たとえあっても練習できるのは週に2~3回が限界。毎日練習ができる環境をつくるため、片道数時間かけて遠くのスイミングクラブへ通うなど、複数の練習拠点を“ハシゴする”生活が始まった。
「練習量を確保するため、パーソナルレッスンをお願いしなければならないことも。正直、お金もかかります。2019年に国内の水泳大会でダウン症クラスが設定されるなど、ダウン症スイマーへの追い風を感じる部分はありますが、“世界で戦う選手を育てる”という視点で見ると、日本のパラスポーツは世界からまだ遅れをとっていると言わざるを得ないと感じます」
練習内容や健康状態に合わせた食事、睡眠時間の管理、オフの設定などはすべて母親である金子さんが担う。
更年期を迎えて耳鳴りや無気力症状に悩まされたり、指の第一関節が変形してしまうヘバーデン結節を患うなど、自身の健康状態に不安を抱えるときもあるが、24時間、カイトさんに寄り添ってサポートを続けている。
つらい姿は伏せ、幸せな日々だけ発信する意味
そして、2022年の「世界ダウン症水泳選手権大会」では、カイトさんが日本初となる背泳ぎ3種目での決勝進出を果たし、背泳ぎ200メートルでアジアレコードを達成。ダウン症スイマーとしての世界への挑戦は、確実に実を結んでいく。
同年には、カイトさんがダウン症者として日本で初めて企業からパラアスリート社員へ採用されることにもつながった。
そんな夢に向かって駆け上がっている日々をSNSにアップしている金子さん。投稿する写真には、カイトさんとの笑顔があふれているが、「あえて、幸せな姿だけを発信している」と話す。それは、ダウン症者とその家族への、ある思いからだ。
「お腹の子どもがダウン症だとわかった、あるご夫婦との出会いが転機でした。かつての私がそうだったように、お会いした日、そのご夫婦の雰囲気はまさに絶望。
そんななか“産むことを悩んでいる妻を説得してほしい”とご主人に言われたんです。でも、私はどんな言葉をかけたらよいのかわかりませんでした。
ただ私に伝えられることは、“私たちは悲しくないし、幸せに生きているよ”ということだけ。もちろん、つらい日もあります。でも、希望を持ってダウン症の子どもを育ててほしいから、カイトとのポジティブな日々を伝えていこうと思うようになりました」
許し合える心の美しさを息子に教えられた
一方で、「ハッピーだけでは語れないリアルも伝えたほうがよいのでは」という思いも生まれている。モデルとしてCM出演もするカイトさんだが、メディアへの露出が増えて注目が高まるがゆえに、不本意な感情に晒される経験もしてきた。
「“出る杭は打たれる”ではないですが、カイトが目立つことで心ない言葉を受けることもありました。それは彼が水泳に向き合う気持ちにも影響し、試合の前に涙を流すようになって。深夜、暗い部屋で引退会見の練習をしていたこともあります。
こんなにつらい経験をしてまで泳がなければならないのかという疑問と、ここで負けないでほしいという思いで葛藤しました」
同じ気持ちを共有できると思っていたダウン症者の家族からネガティブな言葉をかけられることもある。怒りで言い返したくなる場面もあるが、止めるのはいつもカイトさんだ。
「一番嫌な思いをしているはずなのに、本当に平和主義なんです。カイトから、人を許すことを学びましたし、人として“美しい”とはどういうことかを教えられました。
カイトが泳ぐために生まれてきたとは思いません。でも、ダウン症者として生まれ、水泳で世界をめざしているカイトはきっと何かを担っている、だから何があってもそばで応援しようと決めています」
そんな困難を乗り越え、カイトさんは、3月にトルコで開催される「世界ダウン症水泳選手権」へ出場。初日となる3月21日の「世界ダウン症の日」には、最も得意とする背泳ぎのレースに挑む。
「元気に見えても、ダウン症ゆえの健康リスクは常に背負っています。身体は健常者であればすでに30歳を過ぎた状態。いつも“これが最後の大会かもしれない”という気持ちで挑まねばなりません。
カイトは、日頃から“ヒーローになりたい”と言っていますが、彼の夢が叶うことがダウン症スポーツの発展にもつながるはず。応援をよろしくお願いします!」
取材・文/河端直子