画像はドキュメンタリー『おっぱい2つとってみた〜46歳両側乳がん』から。本作は全国で放送された

「がんになって初めて気づきました。この世の中ががん患者にとってこんなに生きづらいものだったとは……」多くの乳がん取材を行ってきた本人が46歳で告知されたのは“両側乳がん”。治療の体験や患者に立ちはだかる社会の壁――「次の誰かのために」と発信を続ける。

乳がん患者の生きづらさを理解しているつもりだった

 北海道テレビのプロデューサーとして、たくさんの乳がん患者を取材してきた阿久津友紀さん。その後、自身も乳がんにかかり、がん患者に。報道人としての使命感から自らの闘病生活を撮影してドキュメンタリーを制作した。乳がんに関して取材を“する側”から“される側”になった阿久津さんは何を思ったか。

「私は大学生のころに父を胃がんで亡くしてまして、就職後には母も乳がんになって、ずっとがんを身近に感じて生きてきました。取材でもたくさんの乳がん患者さんの話を聞いて、病気の知識は豊富だったと思います。また、多くの患者さんたちは『乳がん患者は生きづらい』と言っていて、それも理解しているつもりでした。ところが……いざ自分が乳がんになってみると短期間に多くの選択を迫られ、たくさん悩まなくてはいけないことに驚いたんです

 乳がんがわかったのは2019年の5月。46歳だった。毎年受けている会社の健康診断で乳房のエコー検査を受け、両胸ともがんの可能性があるから再検査を受けるようにと医師に告げられた。

3年前に受けた検査でも左胸に怪しい影があり、経過観察と言われていました。それでもまさかと思っていたので、『左はほぼ確定、右も怪しい』という思いがけない告知に衝撃を受けました

 すぐに再検査を予約。翌週には詳しい検査を受けた。

結果が出るまでの2週間は夫も私もよく寝られませんでした。ネットで延々と乳がんについて調べてしまうんです。しかも両胸にがんができる“両側乳がん”は珍しいらしく、『乳がんの5%未満』なんていう数字が出てきたりして。そんなことありえる?と考えては、不安に押しつぶされそうになっていました

阿久津友紀さん 撮影/山田智絵

 詳しい検査の結果は左が確定で、右は追加の検査が必要とのこと。先に左を手術する選択肢もあったが、何度も仕事を休みたくなかったため、右の結果がわかってから切除手術を行うことにした。

主治医からは乳腺だけでなく乳首の切除もすすめられました。つまり、まな板状態になるということ。日がたつごとに胸を失う抵抗感が募り、乳房の再建手術を希望しました

乳がんサバイバーでもある母親とのツーショット写真

 ところが手術の前日に、健康保険で唯一認可されていたインプラント製品にまれな合併症として悪性腫瘍を生じる症例が海外で報告され、急きょ使えなくなってしまった。

周囲が勝手に仕事を取り上げるのは“配慮という名の排除”

診察室で泣く私を見て、主治医は乳房温存のシミュレーションを始めましたが、夫ができるだけ長く生きる選択をしてほしいと言ったことで私は全摘を決意。再建を諦める代わりに、乳頭温存をお願いしました

 術後の病理検査の結果、ホルモン治療がよく効くタイプの乳がんであることがわかり、抗がん剤ではなく、ホルモン剤での治療が決まった。

卵巣機能を止める注射が2〜5年、ホルモンの投薬は10年が推奨されていて現在も投薬を続けています。ホットフラッシュや物忘れなどの副作用は続いていますが、仕事ができないほどではないので、その点は助かっています

 そんな阿久津さんが最初に悩んだのが、乳がんのことを誰にどう伝えるか。真っ先に伝えたのは夫だった。

「LINEで送ると『やるべきことやるしかないね』って返ってきて。夫とは入籍していないのですが、がんになっても捨てられないんだとホッとしたことを覚えています。それから連絡したのが、乳がんの取材で知り合った年上の女性。

 ステージ4だった彼女は『私もいまあなたと一緒にご飯を食べて笑ってる。生きている限り、やりたいことはできる。人間、そう簡単には死なない』と言ってくれて。ネガティブでいるより、楽しいことを考えていたほうがプラスだと早い段階で気持ちを切り替えられたので本当に感謝しています

 しかし、乳がん経験者である母親には自分と一緒に悩ませたくないという気持ちから、なかなか言い出せなかった。

話せたのは手術後、少したって実家に帰ってから。『乳がん? あら、いやだ。やっぱり塊があったの?』と拍子抜けするほどあっさり受け止めてくれて。普通に接してくれてありがたかったです。ただ、帰り際にバスの中からバス停で見送ってくれている母を見ると、うっすら涙を浮かべて手を振っていて……。私に心配かけまいと気丈に振る舞ってくれていたんだとわかり、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました」

 友人や職場には、伝えたい人から徐々に打ち明けた。

「乳がんになったことで職場での立場や仕事を失う不安があったんです。退院後も変わらずに働きたかったので上司から『きみはどうしたい?』と聞いてもらえたのはとても助かりました。大変だからと周囲が勝手に仕事を取り上げるのは“配慮という名の排除”だと私は思います

 また、こんなこともあったという。

私の知る乳がん患者さんは、母親から『詮索されるから近所の人に絶対に言わないでね』と言われたそうです。自分の病気のことを隠さなくてはいけないんだと思ったら、心も後ろ向きになってしまう。周囲の人は、まずは本人の気持ちを聞いて尊重してあげることが大切だと思いました

 阿久津さん自身も、術後に大好きな温泉に行った際、特別視された経験がある。

子どもに『なんで膨らみがないの?』と言われたり、大人から『なんで傷ついた胸で温泉に入るの?』という視線を感じたり。日本は普通や当たり前がいいという文化があるけれど、普通ってなんだろうって思います……

画像はドキュメンタリー『おっぱい2つとってみた〜46歳両側乳がん』から。本作は全国で放送された

 一方で、阿久津さんが取材したカナダ在住の乳がん患者さんによれば、職場の上司や仲間からも一切詮索されず、「困ったことがあれば言ってね」と言われるだけ。がんを告知する医師にも、まったく悲愴感がなくポジティブだったという。

多少でも知識があれば、悩む期間は短くなる

病気を特別視せずに平等に受け止めてくれる文化はうらやましい限りです。がん=死というイメージの強い日本では、がん患者は何かと特別視され、生きづらさを感じてしまう。だからこそ、がんと生きられる、共生できる時代なんだってことを多くの人に理解してもらって、生きづらさを少しでも減らしていけたらと思っています

 そうした思いから、自身のテレビ局の情報サイトでも乳がんに関する情報発信を行ってきた。

「がんになったら悩むことがたくさんあるのに、そういうときに必要な知識は世の中にほとんどないんです。だからみんな初歩的なことで悩んでしまう。例えば乳がんはタイプによって治療法も違うのに、人と治療法が違うから重症かもしれないと悩んでしまったり

 医師に話を聞いてもらうにも短い診察の中ですべての疑問をぶつけることは難しい。

多少でも知識があれば、悩む期間は短くなります。私は入院仲間のいろいろな話を聞いて、治療にもさまざまな選択肢があること、みんな病気だけでなく家族や仕事とも向き合っているということを知って、とても勇気づけられたんです。おかげで復活も早くなりましたね

 9人に1人の女性が乳がんになるが、生存率が上がっている分、困りごとも増えている、と阿久津さん。

知らないというだけで、悶々と時間を過ごさなくてはいけないのはつらいこと。ポジティブに考えているほうが治療もうまくいくというデータもあります。だからがんになってしまったことは仕方がないので、まずは正しい知識を集めて患者仲間や医療従事者などと悩みや不安をシェアすることが大切だと思います

取材・文/井上真規子

阿久津友紀 1995年、北海道テレビ放送入社。報道記者・プロデューサーとして長年乳がん患者の取材を行う。現在は北海道テレビ東京支社編成業務部長で、厚労省のがん対策推進協議会委員も務める。著書に『おっぱい2つとってみた がんと生きる、働く、伝える』(北海道新聞社)