「すごく不器用な生き方だって、よく言われるけど、そんなの関係ねぇと思って……」
1981年に『ミスターCBS・ソニーオーディション』で約3万人の中からグランプリを受賞。16歳でアイドルになった竹本孝之は、所属していたサンミュージックを26歳で退所。ゼロから再出発した。
「16歳だからって甘えられない」
「もともと芸能界に興味はなくて。太宰府天満宮に行くついでに福岡の2次審査に行ったら、後日、東京行きエアチケットが送られてきた。飛行機は初めて。田舎者でした」
1981年5月に上京、7月に『てれてZin Zin』で歌手デビュー。
「イントロは洋楽みたいでカッコいい。でも、歌詞を見たら“なんだコレは?曲はモータウンなのに……”って(笑)。ただ、あの曲がなかったら、僕は今までやってこれなかった。いきなりロックをやっていたら、すぐに辞めて田舎に帰っていたかもしれない。あの曲でスタートできたことには感謝しています」
中1のときにイギリスのロックバンド『QUEEN』に衝撃を受けてギターを始める。ロックに夢中でアイドル曲には違和感があったが、真剣に取り組んだ。
「東京に来たときは、就職をした気でいました。仕事だから、やんなきゃいけない。俺はプロのつもり。給料をもらうんならプロだと思って。47都道府県を回り、レコーディング、テレビ出演も。寝る時間はなかったけれど、カメラマン、ヘアメイクとスタイリストなど、大勢の人が僕を待って準備している。16歳だからって甘えられません」
役者の仕事も続々と舞い込むようになる。
「1981年12月に撮影したNHKのドラマが最初の現場でした。主演の桜田淳子さんが姉役で、加賀まりこさんが母役。標準語もおぼつかないのに台本を渡されて(笑)。食わず嫌いがイヤで、自分が知らないことにノーと言うのは男らしくない。全国を飛び回る合間に台本を覚えました」
1982年にドラマ『陽あたり良好!』(日本テレビ系)で主演に抜擢される。
「うまくないし、一生懸命やるぐらいしかできませんが、それでいいですかって、飛び込んだ現場でした。主役でしたけど、自分がいちばん下っ端でした。プロの仕事をしなきゃいけないのに、何ひとつわからない。“わかんないなら、わかんないと言え。でも1回で覚えろ”って叱られて(笑)。とはいえ、この現場があったから、その後の『だんなさまは18歳』(TBS系)は楽でしたね」
1983年から始まったテレビアニメ『キャプテン翼』(テレビ東京系)の主題歌『燃えてヒーロー』は当初、沖田浩之さんが歌っていたが、1985年から竹本にバトンタッチされた。
「なんで?と思いました。もともと浩之さんが歌っているのに横から取るようなのは、どうなのって。でも、やると決めたらちゃんとやる。レコードジャケットでも短パンはいて(笑)。俺が全曲プロデュースのオリジナルアルバムを作らせてくれるという条件で引き受けました。それが実現したのは3年後でしたけどね」
影響を受けた畑違いの先輩歌手
アイドル時代から、ずっと曲作りをしていた。
「トライはしていました。地方公演に行って、ホテルに入ったらすることがない。都内にいると深夜まで仕事でしたが、地方ではコンサートの後にごはんを食べて、夜10時半ぐらいに終わり。あとは自由時間。でも未成年だから、ホテルにこもってメモ帳に譜面を書いていました」
アイドル歌手は3年だけで、その後は40年ミュージシャンとして活動している。
「音楽作品を残すのも、花を売るのも一緒で、クリエイターでありたいと思っています。音楽にも花にも魂を込めたい。それが続けてこられた理由のひとつですね」
竹本が影響を受けたという歌手は、ロックとは畑違いの人物だった。
「事務所の先輩だった都はるみさんです。デビューしたてのころに楽屋へ挨拶に行ったら“あなたの歌、聴いたけど、もうちょっと腰に力が入っているほうがいい、ピッチはお腹じゃなくて喉でもなくて、ココなのよ”って、腰を指す。ピッチを合わせるには腰の力が大切で、前だけ鍛えるんじゃなくて後ろもちゃんとするべきだって。そうすると、ワンステージが終わったら腰がむちゃくちゃ痛くなる。腰の力で音程をつくっていく。後になって、じわじわと意味がわかりました」
1986年にはNHK銀河テレビ小説『まんが道』で主演。
「先輩たちに言われたのは“主役は小さな芝居をするな、脇がちゃんとおまえのために仕事しているんだから”ということ。江守徹さん、犬塚弘さん、イッセー尾形さんたちが、僕の芝居に合わせてくれる。台本は当然あるのに、普通に会話をしている感覚に陥らせてくれる。脇役は普通にしているだけで主役を光らせるように仕事をする。こういう人たちのようになりたいと思いました。人として後進に向けて発するものが、どういう意味を持つかということを教えてもらいました」
音楽と園芸農家の二刀流
2001年から2005年にNHKで放送された『中学生日記』で、初めて先生役に。
「当時の生徒役とは、今も連絡を取り合っています。相談とか、普通にしてくれていた子たちが、どんどん番組卒業していく。そうか、教師ってこういう気持ちなんだって。
自分の子育てにもいい勉強になりました。20歳を超えたら対等な大人ですから、将来は、子どもが決めればいい。ウチの子どもは、音楽はやっていません。家に僕のギターが30本以上あるのにまったく触らなかった。環境が子どもの才能を伸ばすって、あれはウソですね(笑)。普通の会社員です」
竹本は現在、音楽の傍ら埼玉で園芸農家を営んでいる。
「歌をやろうが農業をやろうが、これが自分にとって自然だと思った。園芸農家を始めて、自分を見つめられたと思います。花は喋ってくれませんから。園芸を始めた1年目は大損害。やめようと思ったけど考えました。やめるのは簡単だけど悔しい。納得するまでは頑張ろうと決めて。何度かトライして、必死に研究して、賞を取りました。やればできると思ったら面白くなった。今は思いのほか規模が広がって、気づいたらビニールハウスが10棟に」
テレビ埼玉で情報番組のMCを8年間、続けている。
「食レポもしますが、おいしくないものを“おいしい”とは言えない(笑)。見ている人に対して失礼なことはしたくない。本当にうまければ“うまい”と言う。口に入れた瞬間“おいしい”って、ありえない。不器用なのか嘘が下手なんです。たぶんこの先も、こうやって生きていくと思います。これを変えたら俺じゃなくなるので」
今も年間に数十本のライブで全国を飛び回る。島根、長崎、上田・別所温泉の親善大使も務めながら、埼玉の緑豊かな場所で暮らしている。
「都心に暮らしたいとは、もう思わない。ここは心の平穏を保つのに必要な場所。自宅にスタジオがあって、配信も始めました。夜中にギターをガンガン弾いて、声量マックスで歌っても誰も文句を言わないのは田舎だから」
俳優業からは遠ざかっているが、やめたつもりはない。
「スケジュールが取れず今はやれないだけ。まだ、落ち着きたくない。人からは“おまえまだまだだな”って言われ続けたいですね」
16歳のデビューから、生き方はずっと同じだ。