一度見たら忘れられない派手な衣装に個性的なビジュアル、そして印象に残る演技から“クセメン”と呼ばれる俳優・坂口涼太郎。「人間ドキュメント」では取り上げる方の職業や属性を肩書としているが、坂口は俳優だけでなく、ダンサー、タレント、歌手、ピアニスト、歌人などさまざまな顔を持つ。そして話す際の一人称も、内容によって自由自在に使い分ける。
一人称も自由自在の坂口涼太郎
「しゃべる言葉によって全然違いまして、俺のときもあれば僕のときもあるし、私とかワタクシとかウチとか、涼ちゃんもあるかもしれない。自分で書いている文章でもいろんな呼び方をしてますね。
いろんな表現で発表できるのが私が私であるゆえんで、坂口涼太郎というコンテンツをお楽しみいただけたら、みたいな。人生一度きり、この肉体と心、思想で生まれてまいりまして、これをどうやったら生かせるか、じゃあ、なんでもやってみようよって。そんなことで自分のプライオリティーなんて下がらないし、そんなにね、みんな見てない! 気にしない!(笑)」
最近はSNSでも注目を集め、昨年から始めたメイクも自分を表現する手段だという。
「自分が大好きな色のエメラルドグリーンのカラーマスカラをつけたモデルの広告を見たときに『え、やりたい!』と思って。なんで今までメイクしてなかったんだろう、自分の好きな色を目の上に塗りゃいいじゃん、って雷に打たれて(笑)。僕は目を大きくしたいとかじゃなくて、その日の気分で、アートみたいに形を変えたり色を塗ったりしたかったんです」
自由に生きられるようになった30代はとても楽しいという坂口だが、「10代、20代は模索模索で、自分に自信がなかった」と述懐する。
坂口は1990年8月15日、神奈川県で生まれた。父は商社勤めの会社員、母は専業主婦だ。母の由紀さんが命名の由来を教えてくれた。
「お腹にいるときは健や海人といった海外でも通用する名前を考えていたんですが、生まれたのが夏の暑い日で、私も先生もみんな汗だくの中、予定日より遅れて生まれてきた子が白くて涼しい顔だったので、その顔を見て“涼”の字をつけたんです。太郎は『桃太郎』や『金太郎』などの本を読むときに一緒の名前だと楽しいと思ってくれるかなと。実際に、涼太郎と言い変えて絵本を読み聞かせしていました」
子どもは鍵っ子にしたくない、たとえ生活が苦しくても子育てに専念したいと夫と約束をしていたという由紀さんは仕事を辞め、ひとりっ子の涼太郎と一緒に子ども時代をやり直す気持ちで楽しもうと思っていたという。
「歌を歌うのがとても好きな子で、テレビを見て歌を覚えて、踊ったりしていました。涼太郎が初めて覚えた言葉は『きれいね』で、花や景色を見ては私や周りの人に『きれいね』と言っていました」
幼稚園に入る前、初めて子ども向けのコンサートへ行くと熱心にステージを見つめ、家に帰ってきてから歌い踊っていたことから、コンサートやミュージカル、映画や美術館などへ家族で行くようになったという。幼い坂口は襖を開いて家族の前に登場し、テーブルの上に乗って「涼ちゃんオンステージ」をしばしば繰り広げた。由紀さんは「いろんなものを見せて、いろんなことを体験させるのが大切で、その中から自分で好きなことを見つけてくれたらいいなと思っていました」と子育てで大事にしたことを語る。
音楽が好きだった坂口は3歳からピアノを始め、中学まで続けた。
ダンス教室との出会いが運命を変えた
坂口は5歳のころ、ひどいアトピー性皮膚炎に悩まされるようになる。
「人に見られるのも嫌だし、自分で見るのも嫌だし、外に出るのも嫌だし、寝てるだけでもつらいし、食べたいものも食べられないし。でも母が探してきたお医者さんの漢方薬と、かなりストイックな食事療法によって7歳ぐらいで克服しました。漢方薬、ホントまずくてつらかったです」
その後、小3のときに父の仕事の都合で神戸へ移り住む。
「学校では結構活発でしたけど、見た目とかのハンデをユーモアでカバーするみたいな感じでした。目立ちたがり屋の赤面症みたいな、ジキルとハイド的な性格で」
幼稚園のときから「サーカス団の人になりたい」と言っていた坂口だったが、小4のときに大阪で見たミュージカル『キャッツ』の楽曲『メモリー』を聴いて号泣、舞台に立つという夢を抱く。
「小1のとき、握手をしてお互いに自己紹介しましょうというのがあって。そこで同級生にアトピーの肌を指さされて『それ、触ってもうつらないよね?』と言われたんです。『大丈夫、うつらないから平気だよ』と笑って言ったんですけど、それで『俺は誰かにとって、触りたくない人間なんだな』ということに気づいてしまって……。
外から自分がどう見られているのか、という客観性みたいなものをわかってしまったんですね。そのことが『メモリー』の『お願い 私にさわって 私を抱いて 光とともに』という歌詞で思い出されて、すごくグッサーときてしまって! そうか、自分は誰かに触れられたかったんだという、それまでずっとフタをしていた気持ちがあふれてきて……それが“歌う”という行為で救われて、ちょっと気持ちが楽になったんです」
いずれは舞台に立ちたいと思った坂口だったが、腰が重く、ダラダラしていたという。その尻を叩いたのが母の由紀さんだった。
「中学に入ってから涼太郎が劇団のオーディションを受けようかと言っていたので、『あなたがやりたいのはミュージカルでしょ? 歌は上手だけど、ダンスも必要だから習ってみたら?』と、電話帳で神戸近くのダンススタジオを探したんです。そのころは男の子でダンスを習う人が少なかったので、男の先生がいるところ、いろいろなダンスが学べることでふるいにかけました。女の子の中に涼太郎1人だとやりにくいだろうなと思って。それで見つけたのが、スタジオモダンミリイだったんです」
そこは偶然にも俳優・ダンサーの森山未來の両親が営む教室だった。この出会いが「舞台に立ちたい」という坂口にとって大きな一歩となる。
転機となった初舞台
スタジオモダンミリイは、神戸市東灘区の阪神電鉄御影駅と石屋川駅の間の高架下にある。上を電車が通過するとガタンガタンと音がするダンス教室に、坂口が初めて訪れたのは中2のときだった。
「学校が終わると電車を乗り継いで、1時間くらいかけて行ってました。結構遠かったんですよね。帰りが遅くなると、父が車で迎えに来てくれたりしました」
ジャズダンスから習い始めたが、「ミュージカルに出たい」と公言していた坂口はタップやバレエなどさまざまなダンスのレッスンも受けるようになる。
しかし高校入学のタイミングで父の仕事の都合で神奈川県への転居が決まり、モダンミリイへ通えたのは1年ほどだったという。
それでも縁は続き、高2のときに「ダンス公演のオーディションを受けませんか」という手紙を受け取る。
「中3のときにモダンミリイのダンス公演の手伝いをしたんですけど、僕は裏方で……羨ましかったんですよね。本当は向こうのスポットライトが当たるほうに行きたい、と思いながら舞台の袖ですごく踊ってたら、怒られました」
結果は合格。坂口は高2の夏休みに1人神戸へ行き、ホテルや森山家に居候しながら、『戦争ワンダー』という公演の稽古と本番に全力を尽くした。その姿を見ていたのが、森山未來の友人で、同じ公演に出演していた俳優の八十田勇一だった。
「未來くんから出てほしいと言われたんですけど、僕は踊れないよと返事をしたら『言葉のダンスをしてほしい』と言われて。この公演はダンスで表現するステージだったのでセリフがなかったんですけど、僕のところだけ未來くんとダンサーとトリオ漫才をやるという演出だったんです」
坂口の演じた役はスズメで、おじいさんにいじめられるシーンがあった。
「涼太郎はコミカルな部分を任されてたんですけど、そのダンスを見てたらね、なんかスズメがすごくしゃべりたそうだったんですよ(笑)。だから楽屋で『何かセリフ言ったらいいのに』とすすめたんですけど、演出上しゃべることは許されないというので、『じゃあおまえ、役者になれば?』と。役者になればダンスもできるし、セリフも言えるよって」
舞台に立つ人になりたいと思っていた坂口にとって、初めて俳優という選択肢が生まれた瞬間だった。
「僕のダンスがすごく演じてる踊りだったらしくて。もし八十田先輩との出会いがなかったら、役者は全然考えもしなかったですね」
初舞台を無事に務め上げた坂口は、母の友人でがん闘病中の方から「延命治療をやめようかと思っていたけど、舞台を見て、もうちょっと生きてみようと思ったので続けることにした」と言われたという。
「治療することがいいのか悪いのかは自分にはわからないけど、自分のやってることで人の気持ちを動かせたのってすごいな、やってよかったと思って、決意が固まりました。生きるとか死ぬとかに直結するくらい人の気持ちが動くんだと思ったら並大抵の決意じゃいけないし、全力を尽くさないと失礼になる。そういう仕事に対する向き合い方というのは初舞台のときに教わって、今も大事にしています」
おかっぱ頭になったのは完全な事故
高3の秋、『戦争ワンダー』に出演したダンサー仲間と一緒にケラリーノ・サンドロヴィッチ作・演出の舞台『犯さん哉』を見に行った坂口は、心から舞台を楽しみ、楽屋の八十田を訪ねた。
「古田新太さんがずっとブリーフ一枚で出ているナンセンスコメディーで、途中でお客さんが帰っちゃうような舞台で」と八十田は笑う。「そこへ涼太郎が来てくれて、泣いて笑ってすごく良かったと喜んでくれて」
そこで坂口は舞台で八十田が共演していた古田新太、中越典子、姜暢雄、大倉孝二、入江雅人、山西惇らが同じ事務所「キューブ」の所属であることを知り、さまざまな個性の俳優がいることに興味を持ったという。
「そのころオーディション雑誌を買って、シートを書いていろんなところへ出してました。でも自分はめっちゃビジュアルがいいわけじゃないから、ダメだろうなって思ってたんですよね。実際、お返事来なかったし。そこでキューブを知って、容姿の美しさだけじゃなくて、その人特有の何かがある俳優さんがいっぱいいたので、ここなら自分のことを見てくれるんじゃないかなと思って」
坂口はキューブのオーディションを受け、見事合格。八十田は「次に涼太郎に会ったときに『後輩になりました!』と言われてビックリしました。でも僕は裏から手を回してませんよ!」とうれしそうに笑った。
高3から事務所に所属したものの、それから1年間オーディションにはまったく受からず、レッスンに通う日々を過ごすことになる。その間、高校を卒業した坂口は「学校へ行ったほうがいい」という両親のすすめで、興味のあったファッションを勉強するため文化服装学院へ入学した。
「自分が成功するかどうかわかんないけど、どこかで大丈夫っしょ、いけるっしょみたいな気持ちはあったんです。でも他にも道があるかもしれないなと思ってファッションの勉強を選んだんですけど、途中で『私は服を作る側じゃない、着たいんだ!』って気づきました(笑)」
ちょうどそのころ、坂口に大事件が起きた。意図せず「おかっぱ頭」にされてしまったのだ。
「居酒屋でアルバイトしていたんですけど、耳に髪がかからないようにと言われたので、安くなるクーポンを手に初めての美容室へ行ったんです。それで切ってもらったらおかっぱになって。でも鏡に映った自分を見てみたら、すっごい似合ってたんですよ。山口小夜子さんみたい、モードだ!って思って。でもね、それ以来その美容室へは行ってないんです。しかも切ってくれた人が誰なのかもわかんなくて(笑)。向こうも見習いみたいな人で、『大丈夫かな?』と思いながら切ってたかもしれなくて、もうホントお互いに完全に事故だったんですけど、そこが噛み合ってしまったんですよね」
人生何が良いほうへ転ぶかわからない。ここから坂口はオーディションに続々合格しだしたのだ。
「いいんですか、拙者ですよ?みたいな気分で(笑)。でも偶然で自分がやろうと思わなかった髪形になったのがすごくハマってから、自分の容姿を受け入れられたのかなと思います。実は僕が18歳のときに撮ったプロフィール写真って、眼鏡かけてるんですよ。目が悪くて、高校のときから度がキツい眼鏡をかけていて。でもそういうレンズって、目がちっちゃく見えるじゃないですか? それが嫌でコンタクトしてダテ眼鏡をかけて。足の裏みたいな顔してるってずっと思ってたから、眼鏡で隠してたんです。でもおかっぱになったことで『自分がいいと思うものが、自分にいいとは限らない』ということに気づきましたね。私はこれじゃなきゃいけない、これが絶対似合うんだと思わないようにしたんです。誰かの『似合うと思うよ』を一回受け入れてみる──それはそのときから始まった気がしますね」
模索が続いた20代で転機となった映画出演
映画やドラマに出演するようになって忙しくなり、学校をやめて仕事に打ち込む坂口だったが、思うように活躍できない日々が続いた。
23歳のときに出演したドラマ『DANCE&MUSIC熱血学園ドラマ 押忍!!ふんどし部! シーズン2~南海怒濤篇~』で共演した八十田は、居場所がなさそうにしている坂口を覚えている。
「そのドラマは同じ事務所の加藤諒も出てたんですけど、涼太郎と諒はおちゃらけな役をやらされてる感じだったんですよ。だから『そのセリフ、面白いと思って言っちゃダメだよ』とアドバイスしたんです。台本上、笑いを取りにいくセリフだけど、それを最初から面白いと決めてかかって言うなよ、自分のセンスで言ってみなよ、って」
坂口も模索が続いていた日々を「これからどうすんの、どうなっていくの、みたいな感じでした」と言う。
「でもこの時期にいろんなことを経験しておきたいと一丁前に思ってたかも。鬱屈とした感じとか、やりたいのにできないとか、そういう気持ちをちゃんと味わえたほうがいいんじゃないかなって。社会経験じゃないけど、そういう気持ちがわかっていたほうが、今後いろんな役がきたときに、その人たちの気持ちになれるんじゃないかなって信じて日々生活してた気がします。だからすごく嫌ではなかったですね。でもオーディションで落ちた役を他の人がやっているのを見て『俺がやったほうがよかったのに』とか思ったりして。いつか自分のタイミングがくるだろう、みたいに思ってました」
坂口の名が世間に知られるようになったのは2016年公開の映画『ちはやふる -上の句-』で演じた、おかっぱ頭でヒョロヒョロな体形の“ヒョロ”こと木梨浩役だ。
「もともと末次由紀先生の原作漫画を読んでいて、ヒョロを見た瞬間に『自分じゃん』と思ってたんです。その後、漫画を描く友人が末次先生のアシスタントをしていて、先生が開いたホームパーティーへ行く機会があって、『いつか実写化するときは、ヒョロくん役よろしくお願いします!』とふざけて先生に言ったことがあったんです(笑)」
とはいえ、原作者にキャスティング権があるわけではない。映画の製作チームは選考に悩み、実写に向かないキャラクターのため、映画には出さないという話もあった中で見つけ出したのが坂口だった。役に決まったとき、坂口は「あ、やっぱ俺なんじゃん」と思ったという。
「この役は自分以外の誰がやるんだろうって思うぐらい、マジで気持ちとか見た目とかすべてが私だったんです。なんかそういう変な偶然が起きるって、面白いな人生、と思いました」
役に近づけるため60キロから53キロまで体重を絞った坂口は漫画の世界からそのまま抜け出たようで、世間はその姿に度肝を抜かれた。3部作となった映画はヒット、坂口は舞台挨拶に立つなど話題となって、このまま波に乗れるかと思っていた。が、現実はそんなに甘くなかった。しかしこの映画で坂口を見て「担当したい」と心に決めた男がいた。それが現在、坂口のマネージャーを務めるキューブの福田大祐さんだった。
「当時、私は加藤諒のマネージャーだったんですが、坂口の友人である加藤から坂口のことはよく話を聞いていたんです。キューブは社員の自主性を尊重してくれるところがあり、坂口のマネージャーをやりたいと立候補しました。今は加藤と坂口含め10人の俳優を持つマネージャーになって、自分から手を挙げて担当した子もいますけど、坂口は初めて自分から立候補した俳優なんです」
坂口のどんなところがそこまで思わせたのだろう?
「演技です。負けた姿にすごく心を打たれたんです。ヒョロは主人公たちのライバルで、負ける側の人間ですけど、ちゃんと役としての人生を坂口がすごく丁寧に演じていた。あとで坂口から聞いたんですが、役作りをするときに『自分が演じる役の人はこの世界に絶対1人はいる』と思って、その1人のために演じると言っていました。ヒョロは見た目がエキセントリックなので、そこに引っ張られすぎてしまうと飛び道具で終わりかねないですけど、ちゃんと人間として演じていたんです。また舞台の木ノ下歌舞伎『勧進帳』で演じた富樫役も本来通してはならない関所でいろんな葛藤があった末、源義経と弁慶たちのことを通してしまう役だったりと、坂口の演技には“敗者の美学”があるんです。それは坂口自身が、ずっとキラキラした道を歩いてきた人ではないからだと思います」
世界中の面白い人たちと面白いことをしたい
坂口は「福田さんになってからチャンスが増えた」と言うが、福田さんは「たまたまです」と笑う。しかし坂口の演技が生きそうな現場を厳選しているという。
「坂口は役柄が決まるとしっかり調べて、きちんと理解して演じる。役を雑に扱わない。それがたとえワンシーンの出番でも手を抜かないんです。だから『ここに放り込んで坂口の演技を見せれば、気に入ってもらえるだろう』という現場へ行かせることも考えています」
福田さんは昨年8月、NHKの情報番組『あさイチ』に出演した坂口のメイクや衣装、共演者との当意即妙なやりとりが話題になったことにも驚かなかったという。
「衣装も10年以上前からずっとやっていることで、突然始まったものではないんですよ。坂口がずっとやり続けたことが、今開花してるんだなって思っています」
当の坂口は「テレビや人前に出るときはエクストリームな状態でいたい」と笑う。
「ちゃんと気合を入れて『どや!』みたいな。ビックリ人間大集合みたいなのがエンターテインメントで、そういうのを見て楽しかったから自分もそうでありたいなと思って。普通の小ぎれいな坂口涼太郎ってあんま価値ないと思うので(笑)。
それがいいのか悪いのか、ちょっとわかんないんですけど、今は好きでこうなってます! 以前はこういう人になりたい、こういう存在になりたい、こういう見た目になりたい、こういう仕事がしたい……と思ってたけど、それはもう他に誰かいるから、別にそこへ俺が行かなくてもいいじゃんって。今はいろんなこと込みで『あ、これが私なんだな』って諦められるようになりました」
最近では差別やジェンダー、平和についてなど自分の考えをSNSなどで発信。注目を集めることも増えたが「私はすごく意見の多い人間」と坂口は言う。
「それは、なんでこれが普通になってんだろう、普通ってなんだろうということに、ちっちゃいころから違和感があったから。そんなことが重なって、去年ぐらいから『坂口涼太郎、今これについてどう思う?』と聞かれる環境が増えたんだと思います。
でも誰しもが意見を言っていいと思うんですよ。私は何の研究者でもないから、自分で調べて、いろんな人の話を聞いて、咀嚼して『自分はこう思う』みたいな感じだし、自分の意見が必ずしも正しいとは思ってない。逆に『皆さんどう思われるんですか?』って聞きたいんです」
今後、坂口涼太郎はどうなっていくのだろう?
「漠然としたことなんですけど、世界中の面白い人たちと面白いことをできたらいいなと。そういう大きなモヤッとしたことが、予想だにしなかったことを経験できる余地になると思うんですよね。だから自分が自分に納得して、一つひとつのことを全力で丁寧にやっていけば、自分が予想してるよりもっともっと道は開けていくんじゃないか、今までも私はそういう積み重ね方をずっとしてきたんじゃないかなと思ってます。
そしていろんな人に出会って、自分が予想だにしない、想像できないようなことを今まで体験させてもらったので、目の前にいる人にちゃんと気持ちを伝えたいですね。ありがとうとか、大好きだよとか、愛してるよとか、あなた素敵ですよとか。『もう10秒後に死ぬんだ』くらいに思って、後悔しないで生きていきたいな。難しいですけどね、なかなか(笑)」
次はどんな「素敵」や「きれい」を見せてくれるのだろう。
<取材・文/成田 全>