「今は痛みも全然ないし、どこも何ともない状態です。1年8か月で目視の範囲内のがんが消えてしまったんです」
そう話すのは、俳優で俳人の小倉一郎(蒼蛙)さん(72)。ステージ4の肺がんから見事生還し、「主治医の先生にも、“こんなに早く回復する人は珍しいんですよ、奇跡的ですね!”と言われました」
と、大きな笑顔をのぞかせる。
ステージ4の肺がん奇跡的な早期回復
小倉さんのがんが見つかったのは2022年の春のこと。
「寝ていたら突然右の背中に激痛を感じて。まるで包丁でグサッと刺されたような、かつてない痛みでした」
痛み止めの貼り薬を貼っても、症状は一向に改善しない。2週間たっても痛みは収まらず、「これはおかしいな」と思い、総合病院の呼吸器内科を受診。そこでいきなり「ステージ4の肺がんです。完治は見込めません」と告げられた。医師は終始モニターを向いたままで、「余命は?」の問いにも、「1年か2年か。そんなところでしょう」と目も合わさず答える。
「その前年、従兄弟が肺がんで亡くなっていて、彼もずっと肩が痛いと言っていたんです。検査をしたら脳にも転移していて、もう手の尽くしようがないと言われてしまった。だから僕も告知されたときは、やっぱりそうだったか、もう打つ手はないんだと、そこですんなりあきらめた感じです」
病院に同行したマネージャーに、自身の死後は妻に再放送権料が入るよう託した。さらに旧知のプロデューサーにドキュメンタリー映像の密着取材を依頼し、
「放映は僕が死んでから。ギャラはなるべく多く、妻に入るようにしてほしい」
と頼んだ。俳人活動の集大成として、俳句結社の結成にも取りかかっている。
「残された日々を少しでも充実させようという気持ちでした。友人の三ツ木清隆君に“これまで世話になった”と伝えたら、“そんなに淡々としてないで、少しはジタバタしてよ”と言われましたけど」
突然の余命宣告も冷静に受け止める
潔いほどのあきらめのよさは、その生い立ちにある。母は産後の肥立ちが悪く彼を出産後1週間でこの世を去り、双子の兄たちは2歳のとき海の事故で、姉は17歳のとき脳腫瘍で、父は60代のとき交通事故で亡くなっている。幼いころから大切な人たちを多く見送ってきた。
「人間誰しも早いか遅いかだから、いよいよ僕の番が来たかと、そうかわかったと。子どもたちにも、そういうことだから、と言ったんです」
しかしあきらめなかったのが4人の子どもたちだ。長女と次女を伴い病院に再度赴くと、やはり医師はモニターを向いたまま、「ステージ4」を口にした。視線を合わせることも、体調を思いやる言葉もない。
「長女は最初から頭にきていたみたいです。話の途中でいきなりICレコーダーをぽんと置いた。“何ですかっ!?”となった先生に、“何か問題でも!?”と応酬して、もうケンカ腰です。そしたら今度は次女が、“私たちは医学用語に詳しくないので録音させてください”と言い出して──」
子どもたちの決断は早かった。話が終わるとその場で「父を転院させます。がん専門の病院を紹介してください」と医師に言い寄ったという。
転院先は横浜市旭区の『神奈川県立がんセンター』で、そこでもやはり「ステージ4」と告げられた。
正式な病名は「右上葉非小細胞肺がん」で、右上の肺を原発に、胸骨、肋骨、リンパ節にも転移が認められるという。
「やっぱり、もうダメか……」と、意気消沈しかけたものの、医師の話は意外な方向に進む。「根治できずともやれることはあります。小倉さん、やれることはすべてやりましょう」
一時は死をも覚悟したが、やれるだけのことはやろうと心を決めた。ただし一つ問題もあった。
「がんはお金がかかる病気だと聞いていたけど、本当にそうなんですよね」
と小倉さん。がん治療にかかる費用は高額で、遺伝子検査、PET、MRI、CT検査、採血、エックス線検査と、数千~10万円近くが毎週のように飛んでいく。さらに検査が進むと、脳への転移が見つかった。亡き従兄弟の場合もそうだが、肺がんは脳に転移する例が多い。
「脳転移に照射する最先端の放射線治療“サイバーナイフ”が自由診療だと64万円もかかるんです。がん宣告後、要介護1の認定をもらい、医療費負担が2割になったのでかなり助かりはしましたけど」
2割に減ったとはいえ、高額には変わりない。がん保険は未加入で、一時金や給付金は得られない。数年来続いていたコロナ禍のダメージもきいていた。妻はパートで働き、子どもたちは見舞金を渡しそんな彼を懸命に支えた。
「“サイバーナイフ”を照射した翌月、結果を聞きに行ったら、脳のがんは消えてますねって言われたんです。一度照射しただけでですよ。モニターを見たら、10円玉大のがんがあったところが点々になっていた。それはがん細胞が死んだ状態なのだそうです」
続いて化学療法をスタート。抗がん剤「カルボプラチン」「ペメトレキセド」と免疫療法「ペムブロリズマブ」を組み合わせ、点滴で投与している。幸いにも脱毛や吐き気といった副作用はなく、さらにうれしい結果が。
「化学療法をした4日後、病院でレントゲンを見せてもらったら、右の肺のがんが小さくなっていたんです。トイレに駆け込んで泣きました。子どもたちに“お父さんのがん、小さくなった!”とメールして。信じられない思いでした」
最新医療は高額だがその効果は絶大
着実にがんは減り続け、同時にあれだけ悩まされていた激しい痛みも消えていく。体重も一時は55kgから44kgまで落ちたものの、現在は51kgまで戻している。
「治るんだと思ったら、頑張って食べなきゃと思って。最近料理を始めました。やってみると楽しいんですよね。子どもたちにも好評です(笑)」
体力も順調に回復し、昨年末には闘病記『がん「ステージ4」から生まれ変わって いのちの歳時記』を出版。この春には俳優業にも本格復帰。NHK BSで5月放送予定のドラマで伊東四朗と共演し、主要キャストを務めた。久々の撮影にベテラン俳優も緊張を隠せなかったよう。
「きちんとセリフを覚えて行ったのに、“なんだっけ、なんだっけ”と出てこない。若い女優さんに、『小倉さんでも緊張するんですね』って言われちゃいました(笑)。だけどドラマというのは集団作業でやはり楽しいもの。あの現場に帰ってこられてよかったなと思いましたね」
ステージ4のがんを克服し、日常を取り戻した今、改めて夢に取り組んでいると話す。
「まず俳句結社をつくり、芸名を「小倉蒼蛙」に改名しました。あと映画も撮りたい。30年間温めている企画があって、その監督をしたいと思っています。やれることはもうどんどん早めにやろうと思っていて。というのも、僕としては、再発はあると思ってるから」
がんで怖いのがやはり再発だ。現在も月に一度の定期検査と維持療法が続く。
「覚悟はできています。ただまた再発したとしても、やれるだけのことはやるつもり。支えてくれる人たちのためにも、ちょっとはジタバタしなきゃと思っているんです」
小倉さんが行ったがん治療
【カルボプラチン】貴金属のプラチナを含む金属化合物の抗がん剤。がん細胞内に取り込まれると遺伝子本体であるDNAと結びついて合成を阻害し、がん細胞の分裂を止め、やがて死滅させる。
【ペメトレキセド】細胞のDNA合成に不可欠なビタミンの一種・葉酸によく似た抗がん剤。投与すると葉酸と間違ってがん細胞に取り込まれるが、あくまでも偽物のためDNAは合成不可能に。結果、がん細胞はうまく分裂出来なくなり死滅に追い込まれる。
【ペムブロリズマブ】がん細胞から免疫の一員・T細胞に発信される「攻撃中止の信号」を遮断する、免疫チェックポイント阻害薬。投与されることでがん細胞によってブレーキがかけられていたT細胞が再び活性化。がん細胞を撃退する。
【サイバーナイフ】放射線治療の一種。位置補正の精度が高く、正常な細胞を傷つけることなく転移部分だけを狙い撃ちする。
出典:『がん「ステージ4」から生まれ変わって いのちの歳時記』(双葉社)小倉一郎著
取材・文/小野寺悦子