1984年にデビューした『SALLY』の人気ぶりは予想外だったと、リーダーの杉山洋介は振り返る。
「もともとモテるために高校で組んだ文化祭バンド。大学進学後にスカウトされて、デビューの準備中にチェッカーズが世に出てきた。メンバー構成とかコンセプトが似ていたので“絶対マネって言われるよね”と。当時の大人たちは、それをチャンスと捉えて“チェッカーズの対抗馬”で売り出そうとしました」
「チェッカーズとは仲がよかった」
デビュー曲『バージンブルー』はキリンレモンのCMタイアップ曲となり大ヒット。
「“哀愁ロックンロール”みたいな、まさにチェッカーズっぽい曲を用意されて。向こうが派手なチェック柄なら、コッチは白黒チェック柄とか。すぐに売れはしたけど、なんか違うなって」
反発する気持ちもあって7か月で事務所から独立。
「マネージャーも同級生で、芸能界の常識はわからない。レコード大賞の打ち合わせに、サンダルとアロハを着て、さらに遅刻して行ったら“なんだコイツら”って感じで」
自由な振る舞いが面白がられたりしたが、業界のオキテに苦しめられたことも。
「チェッカーズがフジサンケイグループのレコード会社『ポニーキャニオン』で、フジテレビとニッポン放送が大プッシュ。僕らの曲がTBS系の『ザ・ベストテン』で3位に入ったときすら、ニッポン放送の番組では20位にも入らない。『夜のヒットスタジオ』はフジ系なので出られない、みたいな。怖い世界だなと思いましたね」
実際には、チェッカーズとは仲がよかったという。
「バックステージでは吉川晃司くんとかチェッカーズと普通に話していましたよ。ホテルで部屋飲みしたり、武内享くんとのツーショットを週刊誌に撮られたこともありました。でも、仲よさそうな写真はNGだと。大人たちは、僕らがバチバチやっているイメージのほうが売りやすかったんでしょうね」
「カミソリ入りの手紙がいっぱい届いた」
チェッカーズ人気に乗って売れたのは事実だが、プライドもあった。
「メンバーがテレビの生放送で“チェッカーズもいいけど、俺たちもいいゼ”みたいなことを言った直後、カミソリ入りの手紙がいっぱい届きましたよ(笑)」
順調にキャリアを伸ばしていた矢先、解散する。
「忙しくなってギスギスしたのもあるけど、音楽的な方向性の違いが大きかった。一緒に曲を作っていた加藤喜一くんは硬派なロックが好きで、僕はシティ・ポップみたいなオシャレな曲が好み。若いからお互い突っ張るところもあって、僕が抜けることに。リーダーなのにクビ(笑)」
解散後はロンドンに渡り、帰国後は楽曲提供がメインに。1990年発売の少年隊『封印LOVE』など約50曲を手がけた。
「やっぱり自分の音楽を追求したいと思って始めたのが音楽ユニット『パリスマッチ』。ロンドン時代にジャジーなリズムとかソウルな曲が好きになって、その後にアシッドジャズのブームが来て。自分が作るメロディーに合う女性ボーカリストとユニットを組みました」
作曲家・プロデューサーとしての活動を広げているが、この3月には38年ぶりにSALLYを再結成した。
「NHK―BSの歌番組で『バージンブルー』を歌ったんです。ずっと断っていたんですけど、1回歌うくらい、いいかなって。ファンからはツアーを回ってくれとも言われましたが、それはちょっとキツい(笑)」
デビューから40年。今も音楽への愛は変わらない。
「SALLYで作った曲も、今やっている曲も自分の曲。音楽活動を長く続けられたのは『バージンブルー』のおかげだって感謝しています」