「ベルトから下の話、大丈夫ですか? 今、コンプライアンスが厳しくなって、下ネタがやりにくいんです。ビートたけし君の“コマネチ!”も、もうできないみたいですけど、あのギャグはね、実は僕が作ったんですよ」
コマネチを売ったせんだみつお
40年以上前のことだ。せんだみつおが司会を務めるテレビ番組『スター爆笑座』(TBS系・'80年)でアシスタントに起用されたのが、売り出し中の若手漫才コンビのツービートだった。
「楽屋でテレビを見ていたら女子の体操競技をやっていて、ルーマニアのコマネチ選手が大活躍していたんだけれども、僕は演技よりも際どいユニフォームに目がいって(笑)。思わず股間の前で両手をV字にして“コマネチ!”ってやったら、たけし君が“それ、使ってもいいですか?”って言うわけ。僕がシャレのつもりで“3万円で売ってやる”って答えると、本当に3万円出したんで彼にあげちゃった。あんなにウケるんだったら、もっと高く売ればよかった。ナハ、ナハ!」
たけしの十八番のギャグはせんだのパクリ。とはいうものの、せんだの口から出たお得意の“ナハ、ナハ!”もオリジナルではない。『せんみつ・湯原ドット30』(TBS系・'74年)などで共演した、歌手の湯原昌幸が明かす。
「せんだの司会でボウリング場から放送していた番組に僕がゲストで呼ばれたときに、普通に登場するんじゃつまらないから、“ナハハハ!”って両手を振りながら入ったの。その1週間後くらいかな、せんだがラジオの深夜放送のオープニングで、いきなり“ナハ、ナハ!”ってやってたから、おっ、パクりやがったなって(笑)」
芸事に“盗み”はつきもの。ギャグは作った者よりも、使ってウケた者が勝ち。そんな大らかさが漂っていた“昭和”の時代には、誰もが夢をつかみ取るチャンスがあったと、せんだは言う。
「昭和50年ごろ、『燃えよせんみつ足かけ二日大進撃』というラジオの深夜放送をやっていたときに、“放送作家になりたい”と、変なコントをいっぱい書いて送ってくる学生がいたんです。コイツ、面白そうだからと番組に呼んでみたら、それが秋元康君だった。オタクっぽいけど頭のいいヤツだなと思って、弟子にしたわけじゃないけれども、“秋元、弁当買ってこい!”とか、アゴで使っていたんですよ。
それから何十年ぶりかで顔を合わせたときは、すっかりご立派になられて(笑)。こっちがペコペコして、“これはこれは秋元先生、何かあったらよろしくお願いします”って頭を下げたら、秋元君は『渡り廊下走り隊』のプロモーションビデオに僕を使ってくれましてね。もう天変地異ですよ。だけど、良くも悪くもそれが芸能界なんです」
人気絶頂の黄金期から、仕事が激減した氷河期へ──そんな人生経験から生まれた自虐ネタには事欠かない。
「たけし君、タモリさん、所ジョージ君、さんま君……数え切れないくらいの芸人たちがどんどん僕を飛び越えていった。何を隠そう、私が芸能界の元祖“跳び箱タレント”です、ナハ!」
同時代を生きた芸能界も太鼓判
氷河期は今なお続くと、せんだはちゃめっ気たっぷりに笑い飛ばす。しかし、昭和の時代に視聴率や聴取率を稼ぎまくったせんだの“地力”には、同時代を生きた芸能界の仲間たちが、こぞって太鼓判を押す。
今年2月24日。せんだは神奈川県秦野市のクアーズテック秦野カルチャーホールで開催されたコンサート『昭和歌謡黄金時代』の司会を務めていた。出演者は湯原昌幸、ビリーバンバンの菅原進、タレントの夏木ゆたか。本番前の楽屋を訪ねると、自らも名司会者として活躍している夏木がこう述べた。
「せんださんから学ぶものは……何もないです(笑)。何もないけれども、僕はせんださんの大ファンだし、彼は司会者として関東が誇る第一人者ですよ。あの人ね、本気で司会をやらせたら、季節感を織り交ぜたり、お客さんの反応を見たりしながら、素晴らしいMCができる人なんですよ。だけど、自分も目立ちたいからすぐに“ナハ、ナハ!”とか始まっちゃうでしょ。そういう意味では司会者の枠に収まっていられない根っからのエンターテイナーなんですよね」
ステージの幕が上がると、せんだが登場。昭和歌謡を楽しみに来ている観客の年齢層は高い。そこに向けて、せんだの絶妙なトークが放たれた。
「去年の敬老の日に102歳のおばあちゃんと対談しました。とてもお元気なので、長生きの秘訣を尋ねたら、“お風呂だよ”と。なるほどなと思って、“どれくらい入っているの?”と聞くと、“1時間”って答えるんですよ。“それ、長すぎない? 大丈夫なんですか?”って聞き返したら、横にいたヘルパーさんがコソッと言いました、“着替えに50分かかります”って」
場内は大爆笑。だが、笑わせるだけでは終わらない。
「ヒートショックって知ってますか? 温度差で血圧が急激に上下すると心臓に負担がかかって、それで亡くなる人の数は交通事故死の3倍だそうです。一番危ないのはお風呂に入るとき。みなさん、寒い季節はあらかじめ脱衣所やお風呂場の空気を暖めておいて、くれぐれも温度差がないようにお気をつけください」
高齢者に配慮したせんだの話術。さらに、自らの体験もネタにして観客の懐に飛び込んでいく。
「芸能生活も50年を超え、私も後期高齢者です。実は一昨日、大学病院で認知症のテストを受けたら、“まだ5年くらい大丈夫です”と言われました。喜んでいいんでしょうか(笑)。
病院の先生が言うには、認知症になった男性が最後まで覚えているのは奥さんの顔と声なんだそうです。で、認知症になった女性が最初に忘れるのが、旦那さんの顔と声だそうです」
会場が再び笑いに包まれる。観客との距離が縮まれば、テレビでは話せないお得意の下ネタも飛び出す。
「みなさん、結婚当初のことを覚えていますか? ある男性の話ですが、新婚初夜の翌朝、独身時代の悲しい性が出て、奥さんの枕の下に2万円置いちゃったんです。“ヤバイ!”って狼狽していたら、奥さんが黙っておつりを5000円くれた」
笑いで観客の気持ちをほぐす。それがせんだの役目。会場の空気が十分に温まったところで、昭和歌謡のステージは始まった─。
本番前の楽屋で、出演者の菅原進はこう話していた。
「せんだのネタは全部知っているけれど、何度聞いても笑っちゃうからね。ステージで自由に話すせんだは、たけしさんやさんまさんよりも面白いと僕は思うよ」
菅原は、せんだとは高校時代からの仲である。その菅原の出番が来ると、司会者のせんだはこう述べることを忘れなかった。
「恩人です、彼のおかげで僕は芸能界に入れました─」
結婚のため大学をやめるもまさかの破局
「せんだは絶対に世に出ると思っていましたよ」
と、菅原は言う。兄の孝とともに菅原が『白いブランコ』でデビューしたのは1969(昭和44)年。実は、せんだはアマチュア時代のビリーバンバンのメンバーだった。
「せんだはリズム感がいいから、パーカッションもすごくうまくてね。歌は下手だけれども(笑)、雰囲気があるから加山雄三の曲なんか歌うとステージでも結構ウケたんです」(菅原)
ビリーバンバンの音楽性はすでにアマチュア時代から注目され、コンサートをやれば超満員になった。メジャーデビューは多くのファンが待ち望んでいた道。しかし、デビュー前にレコード会社の意向で、せんだはメンバーから外れたと菅原はいう。
「兄弟で売り出したほうが面白いし、2人のほうがギャラも少なくて済むという事情もあったようで(笑)、それでせんだはいらなくなっちゃったんです」
レコード会社の思惑どおり、兄弟デュオが歌う『白いブランコ』は大ヒット。ビリーバンバンは一躍フォーク界の寵児となった。一方、メンバーから外されたせんだは、ビリーバンバンをサポートする側に回った。
「僕はお金はいらないからと言って、運転手や楽器運びをやっていたんですよ。その当時は20歳そこそこ。芸能界でやっていく自信はなかったし、そもそも自分の人生がどうなるのか、まったく想像もつかなかった」
せんだは'47(昭和22)年生まれ。いわゆる団塊の世代である。本人いわく、「幼いころは美少年」だった。小学3年生で児童劇団からスカウトされ、子ども服のモデルとして引っ張りだこになった。
「婦人雑誌にたくさん出ましたよ。『主婦と生活』にも載ったんじゃないかな? おふくろが雑誌を買ってきては、近所の奥さんたちに“これ、ウチの光雄です!”って見せて回っていたなあ」
外見だけでなく、目立ちたがり屋で明るい性格は『劇団民藝』の目にとまり、舞台『人形の家』の公演で主役・ノラの長男役も演じた。が、役者になるつもりはなかった。大人になったらどんな仕事に就くか? ジャーナリストにも憧れたが、勉強は嫌い。高校時代はバンド活動に明け暮れた。そんな時期に出会ったのが菅原だった。
大学生になったせんだと菅原、その歩みは明暗を分けた。青山学院大学に進んだ菅原は音楽家の浜口庫之助門下となり、ビリーバンバンとしてプロ歌手デビュー。一方、駒澤大学に進んだせんだは、
「3つ年上の女性と恋愛関係になりましてね。収入がなければ結婚できないと思って、大学を2年でやめて調理師学校に通い始めたら、彼女が他の男と結婚しちゃって……。奈落の底に突き落とされた気分でしたね。何の目標も見いだせずに、進にくっついていただけだった」
捨てる神あれば、拾う神あり。菅原について浜口教室に行くと、そこに居合わせたコメディアンの世志凡太に気に入られた。フィンガー5のプロデューサーでもある世志の付き人となったせんだは、芸能界の入り口に立った。
そして、ステージでの司会を任される機会にも恵まれる。そのときの素人離れした話術を認めたニッポン放送のプロデューサーが、DJの仕事とともに“せんだみつお”の芸名を与えてくれた。
「おまえは千のうち三つしか当たらないから“せんみつ”だって」
ところが、せんだは一発目から当たりを引き寄せた。和田アキ子と共演した『ワゴンでデート』のDJぶりが導火線となり、'72(昭和47)年に素人参加型番組の先駆けとなる『ぎんざNOW!』(TBS系)の司会者に抜擢されると、せんだみつお人気に一気に火がついた。
「僕の黄金期の始まりです。売れる前の関根(勤)君や小堺(一機)君もこの番組で育ったんですよ。キャロルも出演していたなあ。楽屋でメンバーたちがポマードを塗っているときに、矢沢永吉さんをつかまえて、“おまえがリーダーか? 臭いんだよ、便所で塗ってこい!”って怒鳴ったこともあった。
後年、矢沢さんがビッグになって、飛行機でバッタリ会ったら、“ハーイ、せんちゃん、ユー、元気?”って気さくに声をかけてくれたんで、“はい、その節はお世話になりました”って平身低頭で(笑)。芸能界は下剋上です、ナハ!」
レギュラー番組10本超の絶頂期からの転落
過熱する人気に、ハメを外したこともあった。赤坂プリンスホテルのプールサイドで山本リンダの新曲発表会の司会を任されたときのこと。
「プレスリーのまねをして、マフラーの代わりにトイレットペーパーを首に巻いて“イエーイ!”って歌っていたら、レコード会社の人が激怒しちゃって。1時間くらいお説教されました」
その帰り道。赤坂見附の駅まで泣きながら歩いていると、ポンポンと肩を叩かれた。
「“キミ、さっき司会していた人でしょ?”って言って、僕の連絡先を尋ねるんです。次の日、電話が来ましてね。『金曜10時!うわさのチャンネル!!』の出演依頼でした」
肩を叩いたのは日本テレビのプロデューサー。せんだのハメを外したパフォーマンスは、イベントの主催者にとっては噴飯物だったが、観客には大ウケだった。全国ネットの『金曜10時!うわさのチャンネル!!』で共演者の和田アキ子にど突かれ、覆面レスラーのザ・デストロイヤーに4の字固めをかけられて悶絶するせんだのユニークなキャラクターは、日本中に知れ渡った。人気にも拍車がかかり、レギュラー番組は10本を超えた。
「もう破竹の勢いでした」
と言うせんだの言葉は、決して誇張ではない。せんだの人気と知名度は芸能界の外にも及ぶ。一日警察署長を務めたこともあった。選挙になれば、毎回のように候補者から応援演説を頼まれた。
「自分の時代はいつまでも続くと思っていましたよ。だけど、芸能界はそんなに甘くはなかった。僕の黄金期は7年で終わりました」
'78(昭和53)年12月。ロケ先で食べた牡蠣にあたって入院。同じものを食べた番組のスタッフは軽い症状で済んだが、ハードスケジュールを不眠不休でこなしていたせんだの身体は悲鳴を上げた。医師の診断は過労を伴う肝炎。何より休養を要すると忠告され、せんだは仕事をすべてキャンセルして体調の回復に努めた。入院は4か月に及んだ。退院すると、“笑い”が変わっていた。
「横文字のMANZAIブームが起こり始めていて、僕みたいにアクションで笑わせるのではなく、しゃべりで笑わせる人たちが主流になってきた。笑いが新旧交代の時期を迎えていたんです」
入院前の忙しさがウソだったように、せんだの出番は減っていった。唯一のレギュラー番組はフジテレビ系の『アイ・アイゲーム』。
「番組に僕を呼んでくれた山城新伍さんは言いましたよ。“黄金期からいきなり氷河期になってマンモスも途絶えたのに、せんだとゴキブリは生き残る”って(笑)。だから芸能界のゾンビのように、今日までしぶとく生きてきたわけです」
タレントから役者として新たな道を模索
お笑いの潮流からは外れた。しかし、氷河期の間に評価を受けたせんだの一面がある。“役者”としての才能である。
'81(昭和56)年、NHK大河ドラマ『おんな太閤記』では豊臣秀吉の妹・あさひを娶った副田甚兵衛役を好演。そして、'84(昭和59)年にNHKで放送された『新・夢千代日記』(全10話)では中国残留孤児の王永春役で迫真の演技を見せ、俳優として大絶賛された。
「やりがいはありましたし、反響のすごさには自分でもビックリしました。実はね、世志凡太さんの付き人になったとき、最初の巡業でフランキー堺さんと一緒だったんです。僕が“コメディーをやりたいんです”と言ったら、フランキー堺さんはこうアドバイスしてくれました。“コメディーをやりながらシリアスをやりなさい”と」
笑わせるだけじゃダメだ─その意識が常にせんだの心の中にあった。その後もせんだは、NHKの大河ドラマ─『春の波涛』('85年)、『春日局』('89年)、『花の乱』('94年)、『毛利元就』('97年)や、連続テレビ小説─『心はいつもラムネ色』('84年)、『おんなは度胸』('92年)、『だんだん』('08年)に出演。シリアスな芝居ができるせんだの演技力を知る人は多く、芸能界にはせんだのアドバイスに助けられたと話す後輩たちもいる。
現在放送中の大河ドラマ『光る君へ』で藤原穆子役を演じる石野真子もその一人。歌番組で前出の菅原と共演したことがきっかけでせんだとの交遊が始まった石野は、'20(令和2)年にドラマ『恋はつづくよどこまでも』(TBS系)でせんだと共演した。
「せんださんは私の父親役だったんですけれども、あのときはコロナ禍で、撮影現場ではほとんどおしゃべりができなかったんですよ。でも、せんださんがアイコンタクトで私を引っ張ってくれて、本当に違和感なく親子の雰囲気を出せたように思います。
昨年、大河ドラマの出演が決まったときは、私が“ドキドキするわ”って話したら、せんださんがメールをくださって、激励のメッセージだけじゃなく、演技の役に立つかもしれないよって、平安時代の資料を教えてくれたんです。せんださんって、そういう心遣いがいつもさりげなく、優しい方なのです」(石野)
前出の夏木は、こう話していた。
「せんださんの今の地位って、おかしいですよ。もっと表に出てきてもいい人なのに」
せんだの話題をメディアが取り上げなくなった出来事が、実は過去にはいくつかあった。その一つが、'85(昭和60)年6月6日の朝日新聞に載っている。
《引退後の生活まで乱す権利はどこに(東京都/せんだ・みつお テレビタレント 37歳)》
'80年10月に引退した歌手の山口百恵さんを、マスコミは執拗に追いかけた。“私人”となった一人の女性のプライバシーを報じるワイドショーや雑誌の姿勢を、せんだは「えげつない」と断じ、新聞の投書欄に送った。学生時代にジャーナリストに憧れたこともあるせんだの正義感は強い。朋友である湯原は言う。
「せんだにはね、180度違う顔がありますよ。まじめに物事を考え、世の中の不正に怒ったり、政治に不満を抱いたり。非常にグローバルな視線を持っている男ですよ。ただ、それは芸能人として表現しなくてもいいことでね」
表現しなくてもいい憤りを、せんだは新聞に投書した。それは、マスコミを敵に回す行為ともいえた。その代償が一部の芸能記者による“無視”を招いたといってもいいかもしれない。長い氷河期の裏には、そんな出来事もあった。
大物芸能人たちとの華々しき交友録
テレビやラジオでの露出が減る一方で、せんだ自身の交友関係はむしろふくらんでいった。話術、気配り、礼儀正しさ、正義感……どこを取っても元来“愛されキャラ”である。菅原は言う。
「一つの仕事が終わったら、お礼とフォローはしたほうがいいよと、せんだから何度言われたかわからない。そういうことはついつい事務所に任せちゃうんだけれど、せんだは必ず自分でやるから、誰からも可愛がられる。だからあれだけの人脈ができたんだろうね」
せんだの交遊録は「ナハ! せんだみつおが見上げた昭和の巨星(スター)列伝」のタイトルで『キネマ旬報』に連載されたこともある。今回のインタビュー中も、丹波哲郎、高倉健、萬屋錦之介、仲代達矢、田中邦衛、菅原文太、愛川欽也、松田優作、笠智衆、森繁久彌、八千草薫、大橋巨泉、森進一、千昌夫、アン・ルイス、井上陽水、長嶋茂雄……巨星の名前が滝から流れる水のごとくせんだの口からあふれ出た。
「丹波さんには初対面で“おまえは地獄に落ちる”って言われて、“イヤです、なんとかしてください”って頼んだら、“オレが死んだら必ずおまえを救いに来てやる”って約束してくれたのに、いまだに来てくれません(笑)。
森繁先生とは『水戸黄門』などのドラマで共演させていただいて、たまたま家が近所だったので遊びに行ったら、“手ぶらでウチに来たのはおまえが初めてだ”って言われちゃった、ナハ!
長嶋さんとは月に3回ゴルフに行っていた時期がありました。長嶋さんがOBを打ったとき、ギャラリーもキャディーさんも何も言えずにシーンとしていたら、長嶋さんがひと言、“うーん、ファールですねぇ”って(笑)。
広島カープにいた山本浩二さんとは、縁戚になったんですよ。僕の娘のるかが山本さんの三男と結婚しましてね。
最近、仲よくしているのはモノマネやマジックで活躍している、ほいけんた君。知り合ったころは“おい、ほい!”“はい、せんだ師匠”って呼び合っていたのに、先日会ったときは“せんちゃん”って呼ばれた(笑)。下剋上です、ディス・イズ・ザ・芸能界。彼はものすごい努力家で苦労人だからね、もう僕を飛び越えちゃったかな……」
せんだにしか語れないスターたちとの思い出話の数々。「僕は宝物をもらったと思っていますよ」と言いながら、せんだはこれまで表に出さなかった素顔を見せた。
「僕のプロフィールね、駒澤大学経済学部中退ってことになっているけれど、本当は仏教学部中退なんです。芸能界に学歴はいらないと思って、面倒くさいから訂正しなかった。大学で2年間仏教を学んで、自分の人生で一番役に立ったことは“縁”。“えん”“えにし”“ゆかり”って読みますけど、キャバクラのゆかりちゃんがね(※下ネタ・掲載不可)。
……で、丹波さんも言っていたけれども、人間は2回死ぬんです。1回目は心臓が止まって死んじゃったとき。2回目は、仏様になってから誰も思い出話をしなくなったとき。だからお墓参りって大事なんですよ。僕がお世話になった大勢の先輩たちの思い出話をするのは、聞いてくれたみなさんの心の中で、いつまでも巨星が美しく輝き続けていてほしいからなんです」
丹波さんが戻ってこなくても、せんだみつおの地獄行きは回避されそうだ―。
<取材・文/伴田 薫>