シンガー・ソングライター関口誠人(65)

 日曜日の夕方、東京・阿佐ヶ谷にある小さなライブハウスの前で数人の女性が開場を待っていた。この日、弾き語りで演奏するのは元C-C-Bの関口誠人。'80年代にポップな楽曲『Romanticが止まらない』で一世を風靡したC-C-Bで、ギターとボーカルを担当していたのが関口だ。近年、自身が宗教2世であることを告白したことで改めて注目を浴びている。

ライブと物販の収益で生計

C-C-Bのメンバーと。左上から時計回りに米川英之、渡辺英樹、田口智治、笠浩二、関口

 この日のライブの観客は15人ほどで、小さなハコのため至近距離で関口の歌を聴くことができる。オープニング曲は『コンビニ強盗』。C-C-B時代の明るくノリのいい曲とは打って変わって、ギター1本で孤独や苦しみの心情を歌い上げるのが今のライブスタイルだ。

「中森明菜さんがベストアルバムを出されましたが、僕が作曲した『二人静』も収録されました。おかげで印税をいただけそうで少し潤います(笑)」

 現在はライブと物販の収益、受注制作のグラフィックアートで生計を立てている関口。経済的に余裕がない状況を包み隠さず話し、フェイスブックやXでライブの告知をして自ら集客している。

 観客のほとんどはC-C-B時代からの往年のファンだ。親となり子どもを連れて来たり、YouTubeでC-C-Bを知り、やって来る20代の若者もいるという。

 その月が誕生日の観客にはライブ前に名前を書いてもらい、ライブ中に名前を入れてバースデーソングを歌う企画も好評だ。ライブ終了後には自身がデザインしたグッズの販売を行い、サインや記念撮影にも応じ、C-C-B時代には考えられないようなファンサービスに驚かされる。

「歌というのは苦しさや寂しさを抱える人のためにあるもので、楽しいときには実はそんなに必要ないんじゃないかなと思います。僕は大勢の人を楽しませるために歌うのではなく、たった一人の孤独を抱える誰かに届けるために歌っています」

 ライブ途中のMCで、関口は自分が歌い続ける意味を語っていた。Xでも次のようなつぶやきがあった。

《いつも涙の理由を歌っている。涙を流す時の心は一人ぼっちだ。君は君一人で泣く。僕も僕一人で泣く。だから僕は君達のために歌うわけじゃなく君だけのために歌う。だから君がいなかったら歌う意味がないんだ》

 一方でC-C-Bは今の関口の音楽性とは真逆のようなスタイルだった。なぜ関口はC-C-Bで活動していたのだろうか。

C-C-B時代は給料制、円満退社で脱退した

1985年、『毎度おさわがせします』(TBS系)の主題歌となった『Romanticが止まらない』が大ヒット

 1985年、『Romanticが止まらない』の大ヒットで一躍スターダムに駆け上がったC-C-B。関口はその後、脱退しているが、結成のきっかけは'80年代らしい軽やかさだった。

「僕が原宿のカフェバーでアルバイトをしていたときに、近くにあったビクターエンタテインメントの人がよく飲みに来てくれていたんです。もともとバンドを組んで音楽活動をしていたので、制作担当の人にオリジナル曲のデモテープを渡したら、ちょうど新しいバンドをつくっているという話をされて、僕に白羽の矢が立ちました」

 こうしてベースの渡辺英樹、ドラムの笠浩二、ほかのメンバーとともに和製ザ・ビーチ・ボーイズをイメージしたコーラスができるバンドCoconut Boys(ココナッツボーイズ)が誕生した。

「レコードを出してデビューできると聞いて、自分がやっていたバンドやソロ活動はどうでもよくなったんです。でも、そんなに甘くはありません。デビュー曲がCMに採用されてもまったく売れず、2年間は鳴かず飛ばずでした」

 しかし、テレビドラマ『毎度おさわがせします』(TBS系)の主題歌の話が舞い込んでくる。折しも担当プロデューサーの兄が作曲家の筒美京平だったことからビッグネームに曲を依頼できることに。すると筒美から「松本隆が歌詞を書くなら引き受ける」という条件を出され、作曲は筒美京平、作詞は松本隆というゴールデンコンビでの楽曲が誕生した。それが3枚目のシングル『Romanticが止まらない』だ。

「それまでの曲も有名な方に作ってもらっていたので、ゴールデンコンビとはいえ『本当に売れるの?』と期待半分でした。これがダメだったらもうやめようと思っていたくらいです。笠くんはドラマーでしたが、彼のハイトーンボイスが美しく、この曲では彼がリードボーカルをとることに決定しました。ドラマーが歌うというスタイルが新鮮で、みんなビックリしたと思います。でもおかげで大ヒットとなり、レコード大賞の金賞を受賞したり、『紅白歌合戦』にも出場しました」

 全国に顔が知られるようになり、テレビ出演やレコーディング、ライブで大忙しとなったが、売れて裕福になったという感覚はゼロだった。

「当時は給料制で、レコードの売り上げによって印税が入ってくるわけではなかったので、生活が大きく変わることはなかったんです。実家住まいのメンバーは給料には無頓着でしたけど、僕は高校生のときからバイトをしながら一人暮らしをしてきて、経済的な苦労を経験しています。だから、こんなにヒット曲を連発しているのに給料が上がらないことが頭にきて、抗議の意味でリハーサルを1回休んだことも。すると社長が慌ててやって来て、やっと給料を上げてもらえました(笑)」

『Romanticが止まらない』のあと、出す曲はすべてヒットし、人気は衰えることがなかったC-C-B。しかし、関口はメンバーとの方向性の違いに疑問を抱くことが多くなった。

「みんながやりたいのは激しいロックで、僕がやりたいのはギター1本での弾き語りだったんです。自分が前に出るのではなく、誰かに楽曲を提供したいという希望もありました。みんなと目指している方向が違うため、これ以上は続けられないと思い、脱退したいと伝えたんです。『こんなに人気があるときにやめるなんて』とメンバーからは猛反対されましたが、最終的にはやりたい音楽をそれぞれやっていこうと納得してくれて、円満退社みたいなものでした。英樹とはそのあともバンドを組んだりして、メンバーとの交流も続いていました。世間で噂されているような仲たがいはありません」

小説家や役者に挑戦するも、酒に溺れて困窮

再結成時に発表したカバーアルバム『Romanticは止められない』

 1987年に関口はC-C-Bを脱退し、ソロとしてデビュー。中森明菜、五木ひろし、羽野晶紀などへの楽曲提供も行った。しかし自身の曲はヒットせず、次第にレコード会社と距離ができていく。

「C-C-Bのイメージが強かったので、夢や希望のある明るい楽曲を期待されていたのでしょう。でも僕は弾き語りでシリアスな現実を歌うスタイルだったので、『そういった曲は望んでいない』という空気が伝わってきました。中森明菜さんに提供した『二人静』がヒットしたので、ちょっとは挽回できたとは思いますが、その後はレコード会社から離れ、役者をやったり、小説を書いたり。小説は文学賞を目指して10年くらい頑張ったけどダメでした。役者のほうは何本も映画に出ているのですが完全に黒歴史です(笑)。自分が出ている映画を見るのは拷問に近い感覚ですね。ただ名前が売れているからといって芝居なんてできるもんじゃないと痛感しました

 迷走する時期が続くと次第に酒量が増えていく。1日にウイスキーのボトルを2本空けて、1日中酔っぱらっているような“酒クズ”になってしまったという関口。それまで入っていた印税も少なくなり、ある日、預金通帳の残高を見て呆然とする。

「お金が減っているのはわかっていたのですが、やがてまた盛り返すだろうみたいな変な期待があったんです。でも、もう数万円しか残ってなくて、こんなに少なくなっていたのかとさすがに焦り、アルバイトをせざるを得なくなりました。音楽学校の講師やラーメン店のホール係などをやって生活費を稼いでいたんです」

 2008年にC-C-Bを再結成したのも、お金の問題が大きかった。

「正直、バイト生活にも疲れていたので、再結成の話には飛びつきました。英樹と笠くんと一緒にレコーディングして、カバー・アルバムをリリースし、テレビ出演やライブツアーも行いました。

 最初は懐かしくて楽しかったのですが、もともとプロデューサーの方から持ちかけられた話で、自発的なものではありません。自分がやりたいこととは違うし、それは他のメンバーも同じで、結局続きませんでした。ただライブにファンの方がたくさん来てくださったのにはびっくりして、多くの人たちがC-C-Bを長く愛してくれていたことが本当にありがたかったですね」

メンバーの早すぎる死で再結成は不可能に

体調を崩し貧困に陥り、さまざまなアルバイトをしていたことも

 当時はみんな40代。渡辺、笠ともに元気で、酒クズとなっていた関口が一番、身体が弱っていたという。

「これまで心筋梗塞、急性肝炎、糖尿病、うつ病を発症し、しょっちゅう入院してきました。メンバーの中では自分が真っ先に死ぬだろうと思っていたので、まさかこの2人がこんなに若くして亡くなるなんてね」

 渡辺は2015年、大動脈解離で倒れ55歳で亡くなった。

「お見舞いに行ったときはもう意識がなくて。メンバーの中では一番仲がよくて、他のバンドも一緒にやっていたのに。英樹がこんなふうに突然死んでしまうなんて信じられず、受け入れるまでにずいぶん時間がかかりました」

 さらに2022年には笠が脳梗塞により60歳で亡くなっている。

「ちょうどライブに行く途中、バスを待っているときに知り合いが電話で訃報を知らせてくれました。来たバスに乗れないくらいの衝撃で頭が真っ白になりましたが、なんとかライブ会場に行ってやりきって。ステージで笠くんのことに触れてしまうと演奏ができなくなりそうだったので一切触れませんでした。お客さんももちろん訃報を知っているのですが、僕を刺激せず、温かく迎えてくれて、ありがたいお客さんだと思いましたね」

 メンバー2人の早い死が関口にもたらした影響は大きい。

「ファンもスタッフも、この2人がこんなに早く死ぬなんて思ってなかったはずです。いつかまた集まってくれるのではと期待していたファンも大勢いたでしょう。笠くんのボーカルと英樹のベースがないとC-C-Bはどうにもならないバンドなので、もう再結成は不可能になってしまった。僕がXを熱心にやり始めたのは、あの2人がもういないので、ファンに感謝を伝えるのは自分の役目だと思ったからです」

お酒をやめて健康を回復し楽曲にも変化が

2008年4月、渡辺・笠・関口の3人で再結成をする

 関口と一緒に動画番組を配信しているシンガー・ソングライターの八木愛介は、そんな関口の変化を感じていた。

誠人さんはとても繊細で、人間の感覚以上の感覚を持っているような方です。これまでは張り詰めたような鋭い歌詞の曲が多かったと思うんです。でも最近配信された新しい曲はニュートラルな感じで、ゆったりした世界観で、少し心情が変わったのかなという印象を受けました。

 人生に対して達観された感じ、俯瞰している感じが出ていて、何かふっきれたような、肩の力が抜けたような。ご自身が病気をされたり、笠さんが亡くなられたこともターニングポイントになっているのかもしれませんね。誠人さんと初めて会ったのは7~8年前ですが、当時は浴びるようにお酒を飲んでいました。今はお酒もやめられて、一番元気に見えます」

 八木は関口が普段から幅広い音楽をチェックしていることにも驚くという。

「10代に人気の音楽もよくご存じで、僕に教えてくれるんです。アンテナを常に敏感に張っていらっしゃる方だなあと。年齢とともになかなか新しい音楽に追いつけなくなっていくと思うのですが、60歳を過ぎてそれができるのは本当にすごいと思います」

 中学生のころからC-C-Bの関口のファンだったという八木は、関口の楽曲の魅力を次のように語る。

「誠人さんの曲を聴くと、毎回、一つの小説とか映画とかドラマを見ているような感覚に陥るんです。小説も書かれていたので、ビジョンみたいなものが誠人さんの中で見えていて、そのストーリーを僕たちも垣間見させていただいているのでしょうね。そういった誠人さんの魂に触れられるのはやっぱりライブだと思いますよ」

 大病の後、健康に気を使うようになり、関口自身も身体の変化は実感していた。

「ウイスキーって砂糖水を飲んでいるくらいカロリーが高いのに、1日2本も3本も飲んでいましたからね。以前は今より20キロ近く太っていたと思います。飲んでいたときはリハーサルに行くのもつらくて、ライブでサウンドチェックをする力もなくて、ソファに横になっていたほど。いいかげんなライブをやっていたなあと、非常に反省しています。そのぶん、今、挽回しようと思って一生懸命ライブをやっているんですよ。

 お酒をやめたうえにプールで水中ウォーキングもしているおかげで、体重も落ちました。ライブは体力がいるので、身体が軽くなってずいぶん楽になりましたね

 関口がライブを行っている「阿佐ヶ谷ハーネス」のオーナーでミュージシャンの鎌田ひろゆきも「彼のライブは年月を重ねるごとにどんどんよくなっている」と話す。

「今はお酒もやめていて体調もよさそうです。遠方から来られるファンの方もいますし、ぜひライブで関口誠人の歌を楽しんでいただければと思います」

母はエホバの証人の信者で自身も洗礼を受ける

配信番組『愛介&誠人の弾き語りTV』で共演中の八木愛介と

 そして近年、関口にはもうひとつ役割ができた。母親が「エホバの証人」の熱心な信者であり、自身が「宗教2世」だと告白したことで、同じ悩みを持つ人たちから相談されることが増えたのだ。

 関口は小学校の入学式の日に父を結核で亡くした。父は42歳という若さだった。その後、母親の様子がおかしくなっていったという。

「僕は小さいころから絵を描くのが好きだったのですが、タンスや壁に落書きをしてもそれを叱らずに褒めてくれるような大らかな母親でした。もともと家族でプロテスタントの教会に週末は通っていたので、教会に行くことはおかしいと思っていなかったんです。でも父の死後、母が教会に通う頻度が明らかに増えていき、生活の中で禁止事項が増えていきました。小学3年生くらいから僕も連れていかれるようになったのですが、教会といっても雑居ビルの一室で、行くと毎回2時間くらい説教を聞かされるのです。そこが宗教団体の『エホバの証人』でした」

 母親が「エホバの証人」に入会したのは、家に訪問布教に来た人からの勧誘がきっかけだった。「信仰していれば楽園でお父さんとまた会える」と言い、関口も子どものころから布教活動をさせられた。

「知らない人の家のインターホンを押して、広報誌『ものみの塔』の販売を行うんです。すごく嫌でしたが、嫌だとは言えませんでした。小学6年生ぐらいからは一人で行かされるようになり、そこが同級生の家だったりすると本当に気まずかったですね」

 母親のことが大好きだったという関口は、母が信じている教義を自分も信じるようになる。一方で、学校生活にも支障をきたすことも増えていった。

「教義では争うことがダメなので体育の授業で競技することに罪悪感を覚え、運動会を休んだこともあります。放課後は教会に行ったり、布教活動が忙しく、学校の友達と遊ぶ時間もありません。神社や寺院に行くことも禁止なので、修学旅行には参加しませんでした」

 中学1年生のときには洗礼の儀式を受ける。

「あきる野市の東京サマーランドのプールで洗礼を受けました。他のお客さんがキャーキャー楽しんでいる中、プールの一角を貸し切って、後ろから抱えられて、ザブンと水の中に漬けられるんです。洗礼が終わると、周囲の信者が拍手をして、さすがに異様な光景だと感じたのを覚えています」

 教義では女の子と気軽に話すことも禁止で、エロ本なんてもってのほかだ。

「僕が自室のベッドの下に隠し持っていたエロ本を母が見つけたとき、母は聖書のある一節を僕に読ませて諭しました。自慰行為も禁止だったので守っていたんです」

 駅前でも布教活動をしていたため、中学に入ると「関口は変なやつだ」と陰口をたたかれ、いじめの対象になった。

「でも僕は変な知恵があって、ヤンキーと仲良くなったらいじめられないはずだと考え、学校ではヤンキーとつるむようになりました。実際、それでいじめはなくなったんです。家では母親に反抗することなく布教活動をしていましたが、だんだんヤンキーに染まっていき、隠れてタバコを吸うように。さらにロックのレコードを聴いたり、小説や漫画を読んだり、ルール違反を行うことで、世の中には違う世界があると知ってしまったんです」

17歳で脱会するが母は輸血拒否で亡くなる

ライブのため、全国各地を訪れている。東京の「阿佐ヶ谷ハーネス」では月1回程度、定期的に行っている

 中学卒業後、母親は「悪い交わりが増えるから」と高校進学は許さず、関口は清掃のアルバイトをしながら布教活動を続けていた。

「でももっと勉強したかったし、女の子とも付き合いたかったので、『もう教会へは行かない』と宣言して、1年遅れで高校に入学しました。もちろん母からも団体の人からも脱会しないよう説得されましたが、タバコを吸っているのが見つかって、排斥処分になったんです。排斥処分になると信者の人は口もきいてくれません。母も面倒をみてくれないので、高校生のときからバイトをしながら一人暮らしをしていたんです」

 その後、母親にがんが見つかるが、治療に際し教義が立ちはだかる。

「エホバの証人では輸血が禁止されています。でも医師からは『輸血して手術すれば延命できる』と言われ、母を説得したのですが無理でした。病院には教会の長老や信者がたくさん来ていて、排斥された僕が母とゆっくり話すことも許されません。母の治療方針について医者と話していたのが長老で、家族でも入る隙がなかったんです」

 母親は2年間の闘病後、54歳で亡くなった。関口は20歳だったが、葬儀にも参加できなかったという。

「葬儀は教会で行われたのですが、僕は排斥されているため呼んでもらえませんでした。親族だけで火葬場に行き、納骨はできましたが、どうして命を削ってまで信仰を続けたのだろうかと、そのときのやるせない気持ちはずっと引きずってきました」

 一方で、大好きだった母親を恨むようなことはできない。

「死を恐れずに信仰を貫いたのですから、それは立派な一面でもあると思うのです。でも判断がつかない子どもにまで信仰を強要するのは問題だと思います。僕の妹は今もエホバの証人の信者ですが、排斥された僕とはいまだに絶縁状態になっていますから」

宗教2世として悩みを持つ人に寄り添う

 母親の信仰については家族の問題であり、社会的な問題であると考えたことはなかったという関口。しかし2022年の安倍晋三元首相銃撃事件の背景を知って驚いた。犯人の山上徹也被告が自分と同じような経験をしていたからだ。

 山上被告は父親が自殺しており、その後、母親が統一教会にのめり込む。1億円以上を献金し、一家が経済的に困窮したため大学に進学することができなかった。難病の兄は十分な治療を受けることができず自殺。家族をバラバラにした統一教会への恨みを募らせた山上被告は、安倍元首相が教団とつながりがあると考え凶行に走った。

「僕の母も家を売って教会に献金し、最低限のお金で生活をしていたので、教団は違えど同じような経験をしている人がいることに心を痛めました。SNSで宗教2世の苦しみを明かす人も増えてきました。そのため僕もXで『宗教2世でした』とつぶやいたところ、有名人ということで反響が大きく、取材される機会も増えたんです。Xで同じような悩みを持つ人たちと交流するようにもなりました」

 ただし、信者を脱会させたり、教団を訴えるような活動をするつもりはなく、悩んでいる人に寄り添う形をとっている。

「信じている人に何を言っても仕方がないですし、その人は幸せなのでしょうから、信仰している人を否定するつもりはありません。ただ、家族の信仰でつらい思いをしている人や、やめたいけれど、やめさせてもらえずに困っている人、やめたら家族も友達も離れてしまってつらいという人などに対しては、自分の経験から何か言ってあげられることがあるのではないかと思っています。経験者にしかわからない苦しい気持ちを共有できると思うので、僕に利用価値があるんだったら利用していただきたいですね」

 エホバの証人を脱会してから48年、C-C-Bを脱退してから37年がたつが、今、関口は2つの使命感で生かされていると感じている。

「ひとつはC-C-Bの残ったメンバーとして音楽を続けていくこと。もうひとつは宗教2世として、脱会者として、悩んでいる人に寄り添うことです。何度も死にそうな病気になったのに生きているのは、自分にはそういう責任があるからだと思います。僕はXでフォローしてくれた人には必ずフォローを返すようにしています。それは、僕からのフォローで、前に進む勇気を持ってもらえればと思っているからです」

 波瀾万丈の人生から自分の使命へとたどり着き、歌を届けながら必死に生きる関口の姿を、亡くなった朋友たちも見守ってくれているはずだ。

<取材・文/垣内 栄>

かきうち・さかえ IT企業、編集プロダクション、出版社勤務を経て、 '02年よりフリーライター・編集者として活動。女性誌、経済誌、企業誌、書籍、WEBと幅広い媒体で、企画・編集・取材・執筆を担当している。