3月25日に嘉門タツオ(65)がライブを開催。題して“反省と叱咤の会”。2023年1月に飲酒運転で事故を起こし、芸能活動を自粛していた。
嘉門本人が振り返る
「自宅から車でほど近い豊洲市場でお寿司を食べて、お酒も少し飲んでしまったのですが、その後に帰宅する途中でした。追突事故を起こしてしまい、警察がやって来て、アルコールが検出されたので、警察署に2日間、泊まらせていただきました。
この件について弁解の余地はなく、反省しており、自分が人々のお役に立てるような活動ができるかどうかわかりませんが、そういった意識を持って今後は歌っていこうと思っています」
今は、車の運転はしていない。
「今後、車の運転免許は再取得しないと決めました」
失敗を繰り返してはならないが、芸能活動の始まりにもしくじりが。
笑福亭鶴光に弟子入りして落語家を目指したが、破門されてしまったのだ。
「ラジオの世界に入れば先が開けるのではないかと、MBSラジオの『ヤングタウン』で人気者だった鶴光師匠に直訴。16歳の高校2年生でした。当時は落語家の弟子になるっていうのが“花形”というか。鶴瓶さんも、さんまさんも先輩でいましたからね」
入門が許されて『笑光(しょうこう)』という名前をもらい、通い弟子となる。19歳になると『ヤングタウン』にレギュラー出演するように。師匠の宴会にも顔を出し、サービス精神から裸で駆け回ることもあった。
「師匠の奥さんがスナックをやっていて、そこでいろんな昔の歌を歌って、笑わすために走り回って。16歳から21歳ぐらいまで、濃い修業時代を体験させていただきました」
自信を持ったのはいいが修業がおろそかになり、「出て行けー!」と叱られては飛び出し、謝っては戻るということを繰り返した。
「もともと落語よりもギターを持って歌いたいという気持ちが強かったんです。ここにずっといるのは嫌だという気持ちが出てきて、ラジオのスタッフから有望視されているという勝手な実感もあって、それで反抗して、破門になるよう自ら持っていったのかもしれませんね、今思うと」
破門を言い渡された修行時代
破門を言い渡され、先輩の鶴瓶に相談に行くとひと言、「旅に出ぇ……」。
落ち込んだ自分を、より冷たい風と海で落ち込ませようということで能登半島へ。
「今、思えば、番組を降ろされて本当に落ち込んでいたのかどうかっていうと、解放感もありましたからね(笑)。
放浪の旅をしているときも、ラジオのプロデューサーに手紙を書いたり、今こんなの歌ってますというカセットテープを送ったり。そんなとき、スキー場でバイトしているときに歌った音源を『アミューズ』の会長さんが聴いてくれて、会いたいと言ってくれたんです」
しくじりが転じて成功への道が開けた。アミューズの大阪事務所で働くことに。そこで運命的な出会いがあった。
「有線放送にアミューズ所属のアーティストの曲を売り込む仕事をして、パーティーでの司会もやれって言われて。まだ新しい会社で、大阪を“攻めよう”という時期。打ち上げで裸になって盛り上げて、有線チャートはグングン上がって。
それもあってか、サザンオールスターズの桑田佳祐さんに気に入っていただいたんです。当時、桑田さんは『嘉門雄三』という別名でもライブをしており、その名字を譲り受けました。前座を務めて、桑田さんのソロライブにも2回、出していただきました」
1983年に出した『ヤンキーの兄ちゃんのうた』がヒット。
「次の年に『ゆけ!ゆけ!川口浩!!』を出しました。そのころ、さんまさんもダウンタウンも『ヤングタウン』から人気者になっていくわけです。落語界でも僕よりも後に入ってきた桂雀々とかがめちゃくちゃ面白くて。喋(しゃべ)りでは勝てんと思った」
“応援団”から“白組の歌手”へ
破門されたことが、結果的に才能を開花させた。
「『笑っていいとも!』で、所ジョージさんと田中義剛さんと3人でコーナーを持っていて、それぞれが週のテーマに沿った歌を発表するんです。僕はすごく作り込んでいったつもりなのに、所さんが最後にフワッとやったら、物すごいウケる。
キャラで、この人には勝たれへんもんがあるなと思いました。そんとき29歳ですけど、やっぱり楽曲そのものの完成度を高めて、それで勝負するしかないって」
レコード会社を移籍し、1990年代になるとヒットを連発。タイアップ曲も多く、毎月のようにCDをリリース。
1991年発売の『替え唄メドレー』は自身最大のヒット曲に。
「替え唄は権利関係が大変なんですよ。許可を取らんとアカンですから。200パターンぐらいからOKをいただいた曲をメドレーに並び替えて」
1992年に『NHK紅白歌合戦』に出場。翌年に日本武道館で公演。代表曲『鼻から牛乳』はさまざまなバージョンが作られ、最初のリリースから30年たっても歌い続けている。
「実は、1991年にもNHKから紅白に出てくれって言われたんですよ。でも“応援団”という枠だったから、当時の僕の音楽プロデューサーが嫌ですって断って。それで翌年に『鼻から牛乳』がヒットして、白組の歌手として出たんです。もうじき『鼻から牛乳・令和編』が発表になります」
以前とはコンプライアンスの基準が変わってきていることも実感している。
「こんな時代だからこそ、昔はよかったけど今はダメ、みたいなコンセプトの曲が歌いたいんです。例えば、禁煙が当たり前になってしまいましたが、タバコが出てくる昔の曲なら歌えるとか。『アホが見るブタのケツ』も今だって歌えますよね」
テイラー・スウィフトに捧げる曲を作成
長い芸能生活の中では、困難な時期もあった。
2009年に所属事務所が倒産。2022年には急性膵炎(すいえん)で入院し、回復したものの復帰直後に14年間連れ添った妻を亡くした。
「妻は37歳のときに脳腫瘍を1回やって、もう大丈夫とは言いながらも、いつどうなるかわからないという危機感を、たぶん彼女は持っていました。
お互いに食とワインが好きで、趣味が合ったので、14年間の濃さは彼女としては面白かったと思いますけどね。こっちも面白かったし」
交通事故で活動を自粛し、1年間ずっと自分を見つめ直す時間を持つことができた。
「過去の整理をして“嘉門タツオ記念館”という計画を進めています。大阪に部屋を借りて、写真とかCDジャケットを額に入れて、時系列に並べると結構、面白い」
過去を振り返るだけでなく、未来に向けての新しいプランも進み出している。
「スマホに入れている音楽リストの《お気に入り》は、圧倒的にテイラー・スウィフトが多かったので、すごく研究しています。先日の東京ドーム公演も行きましたよ。今、テイラー・スウィフトに捧げる曲を作っているところなんです。
一応アメリカデビューももくろんでね。ぜんじろうという芸人が英語でスタンダップコメディーの世界大会で優勝しているから、一時期の大谷翔平さんと水原一平さんみたいな関係性で、英語圏で絡んでやったらオモロイんちゃうかって」
全米が『鼻から牛乳』で熱狂する日は来るか!?