「ママ、結婚しようと思うの」
2人の娘とそれぞれの夫の前で、岡田美里は早口でそう告げた。この報告をするには、みんながそろった今しかないと思ったのだ。
岡田美里、3度目の結婚
「え? ホントに? あー、よかったぁ!」娘たちも早口で同じ言葉を口にした。
「また別れると言い出すのかと思ってた。おめでとう! ママがいちばん新婚さんだね」
娘たちもその夫たちも祝福してくれた。そして2022年5月14日、美里は3度目の結婚をしたのだった。
岡田美里。1961年8月24日、東京都港区に生まれる。父は、ハーフタレントの草分けとして活躍したE・H・エリックさん。『ザ・ビートルズ』の日本武道館での来日公演での司会をはじめ、海外タレントの来日公演に多く携わった。
また劇場公演やナイトクラブでの司会、映画、番組、コマーシャル出演などで成功を収めた。エリックの弟、つまり美里にとっての叔父は、美男俳優として人気を集めた岡田眞澄さんである。
そんな家庭環境にあって、高校在学中から美里はモデル活動をスタート、“お嬢様学校”として知られる、聖心女子大に入学してからは、雑誌『POPEYE』のモデルとなった。有名人の娘ということで、学内で違和感はあったのか。
「そんなに特別扱いされるようなことはなかったですよ。みんなおっとりしてたから。当時の私は、大学に入ってから仲良しになった男の子2人といつも一緒でした」
美里と2人の男子学生。まるでドラマか映画のようなシチュエーションである。1人は美里の彼氏、もう1人のA君はすごい美男子なのに彼女はいなかった。
なかなか彼女のできないA君に、美里は「とっておきの彼女候補」を何人も紹介していた。ところが、彼は誰とも付き合おうとしない。
「ねえ、あなたはいったいどんな娘が好きなの?」
たまたま2人きりのときに美里は彼に聞いてみた。
「……実は美里ちゃんが好きなんだ」
「えー?」
でも自分には彼氏がいる。律義な美里は彼氏を裏切ることなんてできない。言葉を濁し、なかったことにするしかなかった。そして、卒業の時期がやってくる。大学時代付き合っていた彼氏とは、いつしか別れてしまった。
みんなが大学を卒業し、さまざまな企業に就職する中、美里はテレビの道を選んだ。
「大学卒業後、すぐにロサンゼルス五輪のキャスターに抜擢されて芸能界デビューしました。その後、'87年に『マンデーF1ワールド』というフジテレビの深夜帯の番組で、初代ピットレポーターを務めさせていただきました」
その後も、さまざまな番組に呼ばれるようになり、徳光和夫の番組でのアシスタントなど売れっ子になる。しかし、一方でこんな悩みもあった。
「駆け出しで無名だったから、スタイリストなんてつけてくれない。どこも衣装を貸してくれなくて困ってました。そんなとき、たまたま表参道を歩いていたら大学時代に告白されたA君とばったり出会ったんですよ」
運命の出会い
彼は、アパレル関連の大企業に就職していた。
「実は私、困ってるの」
A君に打ち明けると、彼は自分の会社のプレスルームを紹介してくれた。そして、美里に衣装を貸し出してくれることになったのだ。
何度か彼と会ううちに、彼のほうから「付き合ってくれないか」と言われ、交際がスタートする。忙しいテレビ番組の合間に時間を見つけて2人は会った。あるとき、「結婚してほしい」と彼から言われた。
しかし、まだタレントデビューしたての美里は、その申し出に応えるわけにはいかなかった。
駆け出しのタレントに「彼氏がいる」こと自体とんでもない時代。もし恋愛が知られたら、始まったばかりのタレント人生はいきなり終わってしまう。
「婚前交渉なんてとんでもない、といわれていた時代ですからね」
美里は泣く泣く彼に別れを切り出した。その後、彼はロンドン支社に異動となり、離れ離れに。2人の恋が実ることはなかったのだった。
それから彼のことを思い出すことはなかった─。
父も自分も芸能人、芸能界の中で生きていくしかなかった。普通の会社員と付き合うことなんて考えられなかった。
「きっと自分は芸能界でしかうまくいかないんだ」
そして、いつの間にか美里は20代でレギュラー7本を抱える売れっ子になっていた。
そんな彼女に電話番号を書いた紙を渡したのは、15歳年上のタレント堺正章だった。
「私、電話番号を書いた紙を受け取ったのは、後にも先にもこのときだけ(笑)」
堺は境遇も美里と似ていた。コメディアンの堺駿二の次男で、グループサウンズの『ザ・スパイダース』のメンバーであり、ソロ歌手として、また俳優、司会者、コメディアンとして多方面で活躍。美里との相性は良かった。
「自分の幸せは芸能界にしかない」
美里はそう信じることにした。そして、'89年、28歳で堺正章と結婚。2人の娘に恵まれた。
“カリスマ主婦”と呼ばれて
子育ての傍ら、美里は得意としていた料理、手芸、編み物、インテリアコーディネートなどが女性誌に紹介され始める。それが注目を集め、次々と雑誌で特集が組まれるようになっていった。
「クリエイティブなことが大好きだったので、雑誌の誌面づくりも楽しめました。反響が大きくて驚きましたね。『ミセス』では15ページの特集も手がけました。面白かったですよ。
たまたま娘のために手作りしたトートバッグを持って編集部に行ったら、“美里さん、そのバッグどこで買ったんですか?”と聞かれて“自分で作ったんですよ”と言ったら“いいですね。その作り方をやりましょう!”という感じでどんどん新たな企画になっていくんですよ。今考えるとライフスタイルを紹介する、そういう人がほかにいなかったんでしょうね」
多くの連載を抱え、資生堂、花王ソフィーナ、味の素など数々のCMにも出演し、「婦人女性誌の表紙を最も多く飾った女性」(婦人画報等)に3年連続して選出され、いつしか“カリスマ主婦”と呼ばれるようになる。
'99年には、ライフスタイルを提案するスクール『アトリエミリミリ』を開講。タレント業と並行し、パン教室の講師やテーブルウエアをはじめとする生活用品のデザイナーとしても活躍する。
また、紅茶ソムリエ、紅茶コーディネーターとしても活躍。'06年にはデンマーク王室御用達、創業1835年の老舗紅茶専門店の世界初の支店を日本に進出させるなど、タレント活動とは別の実業家の顔も見せるようになっていく。しかしその一方で私生活では、'01年に堺と離婚。
その際には、毎年お中元やお歳暮が山のように届き、それに閉口したことなどがワイドショーで語られたが、
「そんなことで離婚なんかしませんよ(笑)。でも、彼に対する悪口は絶対に言いたくなかったし、言いませんでした。堺さんにはもっと活躍してもらいたかったんです。だから別れました、ということなんですね」
その後、'03年にスポーツインストラクターと再婚するが、'08年、再び離婚する。
実業家として腕を振るうが……
美里の父親のエリックさんは、日本人の父とデンマーク人の母を持つ。そんなことから、美里もデンマークとの縁は深い。実は世界的な観光名所として知られるデンマーク・コペンハーゲンの「人魚姫の像」。この像のモデルとなったのが、美里の祖母の姉、リグモア・シーヴァルセンだった。つまり、父エリックさんの伯母である。
エリックさんは、'00年にパーキンソン病で亡くなっている。71歳だった。
「父はすごくいいお父さんで、いつも家にはジャズや洋楽が流れていて、父に連れられてパーティーに行くと、私はよくスカウトされたりしてましたね。ロサンゼルス五輪のオーディションをすすめてくれたのも父でした。
『ニューラテン・クォーター』などの有名なナイトクラブの専属司会者だったから、ナット・キング・コールやサミー・デイヴィスJr.、コニー・フランシスなどの世界的スターも見ることができました」
叔父の岡田眞澄さんは、俳優としてだけでなく、タレントとしても人気を集めたが、'06年、食道がんで70歳で亡くなっている。叔父との思い出も聞いてみた。
「子どものころ、叔父に東京タワーに連れていってもらったことがありました。ダンディーでしたね。待ち合わせの場所に行ったら、真っ赤なポンティアックのオープンカーで現れて(笑)、叔父が独身のころ、家に遊びにいったこともありましたね。フランス風のインテリアでバラを飾っていて素敵でしたよ」
ちなみに眞澄さんは、3度結婚しており、3度目は'95年に26歳下の客室乗務員の女性と結婚。'98年に岡田朋峰さんが誕生している。彼女は、ミス・インターナショナル'19の日本代表を務め、現在タレント、モデルとして活躍中。美里とは40歳近く年の離れたいとこである。
'08年、デンマークからの依頼により、カスタマイズジュエリーの『トロールビーズ』の輸入総代理店の代表取締役に就任する。“カリスマ主婦”として圧倒的な知名度を誇る美里の手がけたジュエリーショップは、多くの顧客がリピーターとして定着し、新店舗を次々と大都市の百貨店にオープンさせた。中でも銀座店は世界一の売り上げになるほどだった。
実業家としての道を歩み始めた美里だったが、一方で慣れない事業に疲労困憊の日々が続いていた。
「15年前ですね。私が疲れ果ててマネージャー的な存在だった副社長の女性に愚痴をこぼしてたんですね。順調のように見えて、実はとても余裕なんてなかった」
すると副社長がこう言った。
「美里さん、あなたはみんなの憧れの存在なんですよ。美里さんがそんなふうに落ち込んでちゃダメ。恋をしてください、恋を!」
何を言い出すんだろうこの人は、と思ったと美里は笑う。
「私なんてダメよ」
「誰かいないんですか? 昔の知り合いでも、いま独身の人はいないんですか?」
そのとき美里の心に浮かんだのは、思いを残しながらも別れてしまったA君の顔─。
「それで彼女に、彼がアパレル関係の企業に勤めていることなどを話したら、彼女が“その会社に知り合いがいます”と言うので、あれよあれよという間にその彼の連絡先までわかったんですね」
その副社長だった藤井チカさん(57)は、現在、あるアーティストのマネジメントをしているが、彼女も当時のことをよく覚えていた。
「あれは新幹線の中でのことです。出張の帰りで新神戸から品川までの新幹線に乗っていたら、大阪までは美里さん元気ないなあ、という感じだったんですね。京都で“いい人いないの?”と聞き始めて“そういえば1人いるかも”と名古屋あたりで彼氏の名前が出てきたんです。
で、私がその企業の知り合いに電話して彼氏さんの電話番号をゲット。美里さんに伝えたんです」
品川に着いて美里は、エスカレーターの下から上を見上げて、
「今、どん底だけど、これからは上るしかないものね」
と晴れ晴れしい笑顔で言ったという。
23年ぶりの再会、そして
「元気?」
電話に出たAさんは、まだ独身だった。
「明後日会おう」と彼は言い、2人は23年ぶりに再会したのだった。
それから、ときどき会うようになり、その距離は次第に縮まっていった。
「僕はここ4年くらい家を探していたんだ」とAさんは言った。彼は東京・世田谷近郊の2世帯住宅の2階に住み、1階には母親が住んでいた。
「彼はとても母親を大事にしていて、毎日母親のために薬を下の部屋まで持っていってあげる。“大事にしてね。ちゃんと薬飲むんだよ”と優しく声をかけてあげる。まるでホームドラマを見ているようでした」
彼は長く大企業で働いていたが、ようやく仕事も落ち着いてきて、自然の豊かなところにセカンドハウスをつくりたい、と思っていたのだ。
美里はもともと山梨に別荘を所有していたが、2人で一緒にいろいろと物件を見るようになり、長野県の八ヶ岳のそばにいい土地が見つかり、半分ずつ資金を出し合って別荘を建てた。その当時、『トロールビーズ』は全国の百貨店に9店舗を展開していた。
ゴールデンウイークのある夜、別荘に帰ってきた美里は顔がパンパンに腫れていた。
「どうしたんだい? その顔は」
とAさんが聞く。疲れに疲れていた上に、歯医者が間違った歯を治療してしまったらしいのだ。彼は美里にこう言った。
「君は人前に出る仕事をしてるんだ。こんなになるまで仕事をするなんて……」
そして彼はこう言った。
「2週間だけ待ってくれ。そしたら僕が君の会社に入って手伝うよ」
長年アパレル関係でバリバリ仕事をこなしてきて英語も堪能な彼なら、きっと会社を助けてくれる。美里は「渡りに船」とばかりに彼の申し出を受けることにしたのだった。
事業は成功、3年間で23店舗に発展
デンマークの本社は、売り上げ好調の日本に対して「3年後までに、今の9店舗から23店舗にしてください」というとんでもない要求をしてきた。
「私は絶対、嫌だと思った」
と美里は断ろうと思ったのだが─。隣にいたAさんは「わかりました」とその要求を受け、契約したのだった。
それからの3年、2人はまさに死力を尽くして働いた。そして約束どおり、3年後に『トロールビーズ』は23店舗に拡大。2人で成し遂げた成果だった。
しかし、その成功の陰で美里には大きな不安があった。
それは、商品の「ビーズ」の在庫を抱えているということだった。このことは、2億円近い借金を実質オーナーである美里が背負っていることでもあったからだ。
「もし、自分が倒れたら私が個人保証している分は、娘たちが背負わされてしまう。そのころ、上の子が16歳、下の子が13歳で、それがどうしても嫌だったんですね」
思い切って、デンマークの本社に「辞めたい」と伝えた。しかし、日本の『トロールビーズ』のファンは「岡田美里」のファンでもあった。そこでコンサルとして名前を残すことになったのだが、その3か月後、デンマークの本社は「やはり辞めてください」と言ってきた。美里たちの代わりに運営できる会社が見つかったようだった。そこで、美里たちはすべてから手を引いたのだった。
そんなとき、美里の実の母がパーキンソン病と診断されたのだ。
母親の介護のため山梨へ移住
実は、母は美里が16歳のときにエリックさんと離婚し、家を出ていた。美容や健康関係の仕事をバリバリしていた母は、すごく変わった人だった、と美里は振り返る。
「自己中心的な人ですね。ほかの普通のお母さんと全然違っていてね。そんな母だけど、ほかに身寄りはないし、病気になったら、誰かが面倒をみないといけない。
私は一緒に住むのはとても嫌だったけど、私しかいないと思った。母は病気のため、車イスじゃないと生活ができない。そのときに“あ、山梨の別荘がある!”と思い出したの。そこで、バリアフリーの山梨の別荘に移ることにしたんです」
それまでは、美里は東京・世田谷の一軒家に1人、大型犬と暮らしていた。ときどき、彼が来てくれたが、彼も実家で母親と2人暮らしだったので、一緒に暮らしていたわけではなかった。
でも、山梨に行ったら彼と離れ離れになってしまう。そこで彼に打ち明けたのだった。
「せっかくここまでやってきたけど、親のことを先にやらないときっと後悔する。理解してほしい」
Aさんも美里の「覚悟」に賛成してくれた。美里が生まれて初めて占いで方位を調べてみると、「真西に行け」と出た。東京から真西といえば山梨である。そしてタロットをやってみたら「引っ越し」と出た。母の分もやってみたら、これまた「引っ越し」と出たのだ。そして「一番いい日」は「8月23日」─。
東京に2か所あった刺しゅう教室をたたみ、山梨へ引っ越し。荷物を詰め込んだ段ボール箱は120個にもなったという。美里は初めて3週間、仕事を休んだ。
'19年8月23日。美里は山梨への移住を決行したのだった。それから10日後のことだった。とんでもないニュースが飛び込んできた。美里たちの後に『トロールビーズ』を引き継いだ会社が一気に日本中の店舗を撤退したというのだ。デンマークの本社から「もう一度やってくれないか」と連絡が来た。
なんでもデンマークの会社には、美里のファンだった顧客から「オカダミリさんに復活してもらいたいです」という内容の、翻訳ソフトで作られたメールが50本以上も届いていたらしい。
美里とAさん、最近仲間になったデンマーク人の3人で集まり、「私たちがやらなきゃ、ほかの人ではできない」と意見がまとまった。結局、彼の会社で『トロールビーズ』を運営することになった。現在、代々木の路面店1店舗、そしてネット通販で販売を行っている。
コロナで変わった結婚観
それは、'21年の年末のことだった。コロナウイルスがはなおも猛威を振るっており、この年の11月には、日本国内の累計死者数は2万人を超えていた。
ある晩、仲良くしていた木こりのおじさんが山梨の家に遊びに来ていた。ほかにも何人か集っていたときのこと。そのおじさんが突然目の前で倒れたのだ。慌てて救急車を呼び、一緒にいた女性が付き添いで病院に向かった。
あとで美里が病院に行ってみると、その女性が病院の外で寒さに震えていた。
聞くと「おじさんは脳梗塞だったらしい。でも今はコロナの心配があるでしょ。あなたは他人だから一緒には入れないと言われたの」と言う。
仲良しだったものの、おじさんの本名も知らない。病院も親族じゃないと名前も教えられないというではないか。夜になってから、おじさんの親族が来た。
しばらくして、回復したおじさんは、「みんなのおかげで助かった。自分は三途の川を渡った。花畑も見えた」と言っていたという。
そこで美里は、自分とAさんのことを考えた。事実婚ではあるが、家族も周りの人も2人は夫婦と同じと思っているはずだった。でも、実際に彼が入院したら、家族じゃない自分は病院に入れない。そんな自分の“未来”が頭によぎったのだ。
「─私は他人なんだ」
これはものすごくショックな出来事だった。
それから数か月後のバレンタインの夜─。美里は彼とその話をしながら急に「結婚しようか」いや「結婚しなきゃ」という思いが込み上げてくるのを感じたという。それまでも、周りから「結婚しないの?」と聞かれるたびに「全然考えていない」と答えていた。事実婚で何も問題ない。なのに、今は急に怖くなっている自分がいた。それは彼も同じだった。そして「結婚しようか」となったのだ。
「以前のように、また世間を騒がせるのも嫌だったし、そっとしておいてほしかった。でも、やはりけじめはつけておきたいと思うようになった。まあ、それでも“コロナ婚”になるんでしょうね(笑)」
芸能界の友人たちも惹かれる人柄
冒頭に出てきたように、2人の娘も立派に成長し、それぞれ伴侶を得た。長女の菊乃は、アパレルブランドのデザイナーでファッションブロガーとして活躍。次女の小春は俳優として映画、ドラマ、舞台で活躍して、芸能界に多くの友人がいる。女優の水川あさみもその1人だ。
「美里ちゃんはとにかくキラキラ、オーラがピカピカ。内側からあふれ出す、純真さと大人と子どものはざまにいるような美しい方でビックリでした」
水川は、美里に編み物を習ったという。
「子どものときに少しやっていたのですが、すっかり忘れてしまっていて。美里ちゃんに教室を開いていただき、友人や、うちの会社スタッフや小春たちとみんなで習いました。優しく、丁寧に教えてくれました。
編み目の数を覚えておかないといけないのだけど、編みながら忘れてしまうということがみんな勃発して(笑)。美里ちゃんのおっとりした、優しい声に癒されながら編み進めました。自然と密に接する中で暮らしている美里ちゃんの、素晴らしい感性を信頼しています」
お笑いコンビ、ハリセンボンの近藤春菜も小春の友人で、山梨の家にも泊まったことがあった。
「美里さんは友達のお母さんなんだけど友達みたいな感覚。インスタライブもいつも見ていて、とってもチャーミングな人だなと思ってました。
作ってくれるごはんもおいしい。山梨のおうちに泊めていただいたとき、ワンちゃんがすごく美里さんに懐いていて、“ああ、美里さんに心を開いているんだな”と互いの愛情と信頼を感じましたね」
春菜は、Aさんにも会った。
「旦那さんも美里さんと穏やかな時間を共有しているんだな、と思いました。私たち世代も美里さんたちのような大人になりたいと思ってますよ」
堺正章とはずっといい関係が続いているという。娘たちの卒業式や入学式も2人で出席した。今回の彼女の結婚にも「いい伴侶ができたみたいでよかったですね」というコメントを寄せてくれたという。
そして今、新たな気持ちで仕事と向き合っている彼女。
「今は以前に比べると生きやすくなったと感じています。なんというか“素”で楽しい」
現在は、山梨と東京の2拠点生活だ。数年前からは、山梨でジャムを製造し、自身のブランド『ジャムオブワンダー』を立ち上げ、またテレビ山梨のワイド番組『スゴろく』にレギュラー出演しているため、10日に1回は山梨に戻っている。
東京では、夫の2世帯住宅の2階で生活。4月からは、BS朝日の音楽番組『人生、歌がある』の司会を吉幾三と共に務めている。実はこの番組初収録の2日前、美里に悲しい出来事が起きた。
「母が3月5日に亡くなったんです。92歳、私の手を握りながらの旅立ちでした」
好き勝手に生きた人と思いながらも、母の晩年に一緒の時間を過ごした美里。最後の言葉は「ありがとう、ありがとう」だったという。
そんな悲しみを背負いながらも、自身のインスタでは《ご心配にはおよびませんので、いいね!だけ押してくださいね。さあ、土曜日はヒロミGOよ!》と、収録に。
「フルバンドの演奏でゲストの歌手のみなさんも豪華で、すごく楽しいです。ワクワクしますね。音楽は好きだったけど、勉強することが多くてまるで受験生のように勉強してます。
私の人生でカラオケに行ったことは15回くらいしかないんですが、歌は大好き。ユーミン、ハイ・ファイ・セット、竹内まりやさん、山下達郎さん、チューリップとかね。山梨へ行く車の中でずっと歌っています」
そして音楽に関わる番組で懐かしい曲に出合うと、父のことを思い出すという。
「父はNHKの音楽番組『夢であいましょう』の司会もやっていましたから。菅原洋一さんなどとお会いすると懐かしがってくれます。それにしても60歳を過ぎてから音楽番組に携わるなんて、考えてもいませんでした」
そう言って彼女は可愛らしい笑顔を見せたのだった。タレント、実業家、そしてひとりの女性として、新しい世界へと歩き出している美里。人生100年の時代、彼女の“第2ステージ”は始まったばかり─。
<取材・文/小泉カツミ>