佳子さま

「6月に香淳皇后の崩御がありまして、その後に宮殿においていろいろな行事があったわけですが、その中で例えば殯宮の祇候とかですね、それから、これは斂葬の儀の当日になりますけれども轜車発引の儀のときに、玄関のところでお見送りをした。

 このようなことは、本人たちにとっても貴重な経験ではあると思うんですが、私のほうから見ますとですね、そういうところにも出席ができるぐらいの年齢になってきたんだなあという気持ちがいたします。

(略)私たちが子どもたちを連れて時々、大宮御所のほうにご挨拶に行って、そういうことから非常に、その何と言うのでしょうか、自然な形で親しみがあったんだと思うんですね。ですから亡くなる前日ですが、そのときもお見舞いに行ったわけですけれども、こちらが行こうと言って連れて行ったというよりも、子どもたちのほうからぜひともお見舞いしたいというようなことを言ってくれまして、そのようなあたりはやっぱり年齢が少し上がってきているという印象になっております」

97歳で逝去した昭和天皇の后・良子さま

香淳皇后が逝去し、皇居を出る紀子さまと佳子さま(2000年6月16日)写真/共同通信社

 2000年6月16日午後4時46分、昭和天皇の后である良子さま(香淳皇后)が老衰のため、皇居・吹上大宮御所で逝去した。97歳だった。明確な記録が残る奈良時代以降の歴代皇后の中では最長寿だった。このとき佳子さまは5歳で、学習院幼稚園に通っていた。香淳皇后は、上皇さまの母親で天皇陛下、秋篠宮さま兄弟の祖母。佳子さまにとっては曽祖母にあたる。この6月16日、24回目の命日を迎える。

 2000年11月24日、35歳の誕生日を迎える前の記者会見で記者たちから「今年は、香淳皇后の大喪儀、新居への引っ越しなど、ご家族にとって大きな出来事がございました。これらの出来事を通じて子さま、佳子さまの成長ぶりを示すエピソードや、両殿下がおふたりに対して心がけられたことがありましたらお聞かせください」と問われた秋篠宮さまは前述のように答えた。

 秋篠宮さまの話のように、佳子さまたちは両親に連れられて時々、吹上大宮御所で暮らす香淳皇后に挨拶をしていたらしい。晩年の曽祖母にじかに接していた2人は「自然な形で親しみがあった」ようで、佳子さまたちから、「ぜひともお見舞いしたい」と、自主的に申し出て、亡くなる前日や亡くなった日の午前中にもお見舞いに出かけた。遺体が納められた棺は皇居・宮殿内の「殯宮」と呼ばれる場所に移され、通夜にあたる「殯宮祇候」が行われたが、2人はこれに参列した。

 7月25日には本葬である「斂葬の儀」が行われた。この日の朝、皇居・宮殿では香淳皇后の棺を轜車という霊柩車に移し、葬儀場への出発を見送る「轜車発引の儀」が営まれたが、この儀式にも佳子さまたちは参列した。モーニング姿の上皇さま(当時の天皇陛下)、そして、ローブモンタントに黒いベール姿の上皇后美智子さま(当時の皇后陛下)の順番で棺を乗せた車に向かって拝礼した。

 その後、天皇陛下(当時の皇太子さま)、秋篠宮さま、紀子さまが次々と拝礼し、次に学習院幼稚園の制服を着たと思われる佳子さまと姉、小室子さんが並んで深々とお辞儀をし、香淳皇后の棺を乗せた車を見送った。

久邇宮邦彦王と俔子妃の長女として生まれた香淳皇后

佳子さまの曽祖母にあたる香淳皇后(右)

 香淳皇后は、1903年(明治36年)3月6日、久邇宮邦彦王と俔子妃の長女として生まれた。昔と今とでは皇室を取り巻く環境などが大きく異なり、比較するのは難しいが、香淳皇后が当時、皇太子だった昭和天皇の后に決まったのは学習院女学部中学科3年生、14歳のときだった。

 1924年1月26日、20歳で結婚。翌'25年12月6日、長女、照宮成子内親王が生まれた。この連載で取り上げたことがある、後の東久邇成子さんである。'31年9月、28歳のときに満州事変が起こり、満州国建国が宣言された。'32年、今の佳子さまと同じ29歳のとき、犬養毅首相が射殺された五・一五事件が起こり、翌'33年3月、正式に国際連盟からの脱退を通告するなど日本は国際的に孤立し、戦争の時代に突入する。

 そして、敗戦から戦後の繁栄へと、昭和天皇を支えながら激動の時代を生き抜いた。逝去を伝える新聞に、敗戦後間もない'45年8月末、疎開先にいた上皇さま(当時の皇太子さま)に宛てた香淳皇后の次のような手紙が紹介されていた。

《おもうさま(昭和天皇)日々、大そうご心配遊ばしましたが、残念なことでしたが、これで日本は永遠に救われたのです》《わざわいを福にかへてりっぱな国家をつくりあげなければなりません》

 秋篠宮さまが子どものころ、上皇ご一家は皇居内の吹上御所を毎週1回、訪れ、昭和天皇と香淳皇后と食事を一緒に楽しんだ。そのときの思い出を、拙著『秋篠宮さま』の中で秋篠宮さまは、次のように語っている。

昭和天皇のアドバイス

香淳皇后の20回目の命日に際し「香淳皇后二十年式年祭の儀」に参列した、佳子さまと眞子さん(2020年6月16日)

《(略)私たちが学校の話をしたりとか、普段の生活の話をしたりということが多かったように思う。どちらかというと昭和天皇は聞き役だった。(略)吹上御所から帰る前に、昭和天皇が『ヒガンバナがきれいに咲いているから、それを見に行こうか』というので、昭和天皇もこちらの帰る道筋の途中まで行かれて、一緒にヒガンバナを見たこと、そして、吹上御所の庭を散歩中に、シメジが生えているからというので案内してくださったことがあった》

 また、秋篠宮さまが外国を訪れると言うと昭和天皇は「じゃあ、親善に努めるように」と、必ずアドバイスしたという。おそらく、香淳皇后も夫と一緒に孫である秋篠宮さまたちの学校での話題などを、ニコニコとふくよかな笑顔で聞いていたと思われる。

 以前、この連載で今年は明治天皇の后、昭憲皇太后没後110年にあたり、4月12日、佳子さまは明治天皇と昭憲皇太后を祀る明治神宮を参拝したと触れた。昭憲皇太后は香淳皇后から見て祖母にあたる。

 皇室には、香淳皇后や昭憲皇太后ほか女性皇族たちが代々、築き上げてきた長くて重い歴史と伝統がある。それをしっかりと受け継ぎ、次世代へとつなぐことは内親王である佳子さまの重要な役割でもある。

 ギリシャ公式訪問を無事に終えた佳子さまは6月7日、東京都八王子市の昭和天皇の武蔵野陵と香淳皇后が眠る武蔵野東陵を参拝した。曽祖母の命日はもうすぐだ。幼いころの思い出に刻まれた曽祖母に、佳子さまは何を語りかけたのだろうか。

<文/江森敬治>

えもり・けいじ 1956年生まれ。1980年、毎日新聞社に入社。社会部宮内庁担当記者、編集委員などを経て退社後、現在はジャーナリスト。著書に『秋篠宮』(小学館)、『美智子さまの気品』(主婦と生活社)など