日曜の朝にフレッシュな風が吹いている。
「4月から、膳場貴子さんがTBS系で生放送されている報道番組『サンデーモーニング』の司会者になりました。1987年から続いている長寿番組で、36年半ずっと関口宏さんが司会を務めてきました。視聴者の高年齢化は明らかで、若年層にもアピールすることが課題となっていました。30歳以上の若返りで、番組が明るくなったと評判です」(テレビ誌ライター)
“世田谷三大地主”の一つ
膳場の司会者就任から2か月余りで、評判は上々。番組の基本的な見せ方は継承しながらも、少しずつ“膳場カラー”が浸透してきている。
「局内、番組内の評価は良好ですね。スタッフ受けも悪くないようです。『サンモニ』は、これまで“関口式”というかファミリーのようなアットホーム感の土壌がある番組だったので、スタッフや出演者のコミュニケーションは、ほかの番組より濃い気がします。膳場さんは、言うことは言いますけど基本は謙虚。もし問題が起きるとすれば、番組が不調になったとき“どこに刃が向くか”ということ。長寿番組だけに、急にガラッと変えてしまうのは難しいでしょう」(TBS関係者)
膳場は、1997年に東京大学医学部を卒業して、NHKのアナウンサーに。2006年にフリーになり、TBSと専属契約を結んだ。
「平日の夜に生放送されている『news23』のサブキャスターからスタートし、筑紫哲也さんが病に倒れてメインキャスターに昇格。政治家やアスリートへのインタビューが高く評価されます。2015年に産休を取り、復帰後は『報道特集』のキャスターとして活躍していました」(前出・テレビ誌ライター)
私生活では波瀾万丈。2度の離婚を経験している。
「2001年に東大時代の同級生と結婚しますが、2年ほどで離婚。2005年の2度目の結婚も長続きはしませんでした。2015年に今の夫と結婚して、女児を出産。40歳にして初めて子どもを授かりました」(スポーツ紙記者、以下同)
東大からNHKに入って人気キャスターという絵に描いたようなエリート街道。本人の努力の賜物だが、そもそも膳場家自体が“華麗なる一族”なのだという。
「膳場アナの先祖にあたるのが安土桃山時代からの世田谷の大地主。当時、3軒しか民家のなかった世田谷の農村を開墾したといわれる人物です。“世田谷三大地主”の一つに数えられる名家ですね。現在も世田谷区の一角では膳場家の存在感が強く、町中には“膳場ビル”といった名がつく建物がいくつかありますよ」
膳場家の近隣住民の評判
町の人々も膳場家のことはよく知っている。
「このあたりでは、昔ながらの大地主として有名です。以前は、膳場アナのご実家の1本裏の道路から入ったところに大豪邸が立っていたんです。そこが本家。膳場アナのおじいさんの家ですね。膳場さん一家は、本家から道を挟んだところにありました。25年前におじいさんが亡くなった際に本家部分は持ち分を分けて相続され、外国人向けの住宅地になりました。膳場アナのご実家や周りにもたくさん土地があったのですが、それらを相続するには莫大なお金が必要となり、物納したそうですよ」(世田谷の住民)
町には“膳場玩具店”や“膳場青果店”といった店もあったらしいが……。
「玩具屋さんや青果店は、膳場アナとは関係ないですね。遠い親戚かもしれませんが。膳場アナの父親が住んでいた家には、以前は国会議員さんが住んでいて、いつも警察官が家の前に立っていました。膳場アナの祖父が貸していたんですね。ただ、あの一家は大地主さんですから、われわれのような一般人とはあまり付き合いはなかったんですよ」(同・住民)
膳場家は、やはり特別な存在だったようで、周りとの交流はあまりなかったようだ。
「膳場アナの実家があることは知っていたけど、意識するようになったのは、彼女が有名になってからですね。何度か見たくらいなので、詳しくは知らないです。女子校御三家といわれる名門中高から東大に行ったことくらいはわかりますが、いずれも有名になってから知ったのよ」(世田谷に住む別の住民)
商社マンだった父の仕事の関係で、一家はドイツで暮らしていたことも。
「膳場アナのお父さんはドイツ勤務の後、帰国して社長室にいました。人当たりがよくて、退職後もOBの集まりでは、手品を披露していましたよ。近所でも付き合いのある人には気軽に声をかけていました。でも、10年くらい前から介護施設に入ったそうです」(商社の元同僚)
膳場がドイツから帰国したのは7歳のとき。
「日本の学校になじめず、イジメにあったそうです。それで仕方なく隣の学校に転校しましたから、ごく近所の人は子ども時代の彼女を知らないのでしょうね」(前出・世田谷の住民)
膳場の母親が娘について話すのを聞いた人がいた。
「三姉妹の末っ子の貴子ちゃんのことは“何事もヤル気マンマンなのよ”と言っていました。貴子ちゃんはすごくいい子でね、面倒見がいいの。彼女が6年生のときにウチの1年生だった息子のことを弟のようにかわいがってくれたのよ」(世田谷の実家近くに住む女性、以下同)
今も膳場は、たまに実家を訪れることがあるようだ。
「お母さんは80代だけれども元気なので、お世話しているわけではないんです。いつも元気に買い物へ行ったりしていますよ。実家には貴子ちゃんの姉にあたる次女夫婦も住んでいます。次女も同じく東大出で、今は早稲田大学の教授をしています。長女はピアニストで、実家には住んでいません。長女は若くしてスペイン人の音楽家と結婚したので、日本にはめったに帰らないみたい。ただ、今でも実家には大きなグランドピアノがあるそうです」
《長いビジョンで物事を見る》
大地主の家に育ち、仕事は順風満帆。ただ、プライベートについては謎が多い。
「膳場アナは、自分のことはあまり話したがりませんね。学生のころにダンスをやっていたとは言っていましたが、理由は“成長期だから身体を動かさなければいけないという義務感”。きまじめなタイプなのは間違いありません。ただ、ロックバンドの『筋肉少女帯』の追っかけをやっていたことがあるそうで、ボーカルの大槻ケンヂさんは過激な歌詞で有名ですから、ちょっと意外ですよね」(前出・スポーツ紙記者)
膳場がアナウンサーとしてキャリアを積むことができたのは、もともと明確なビジョンを描いていたから。2002年のインタビューで“ステップアップのコツ”として3つの項目を挙げていた。
《目先にとらわれないで、長いビジョンで物事を見る》
《女性らしさを仕事に生かす工夫をするべし》
《急なステップアップは無理。経験値を高めて》
「アナウンサーになると決めたのは、女性であることがマイナスにならないからだと語っていました。取材対象にじっくりインタビューできるようになりたいという目標を立て、長いスパンで人生設計を考えていたんです。コツコツと実績を積み上げて、たどり着いた今の状況は、膳場アナの思い描いていたとおりなのではないでしょうか」(前出・スポーツ紙記者)
大先輩の関口が築き上げた番組を引き継ぐのは大変だけど、やりがいのある仕事。“朝の顔”として、輝いて!