「NPO法人いきば」理事長・南谷素子さん(撮影/伊藤和幸)

 東京・荒川区で「こども食堂サザンクロス」を運営している南谷素子さん。区内の不登校支援にも携わり、子どもたちを支えてきた。かつて週刊女性でも子ども食堂や不登校のリアルを南谷さんに語っていただいたところ、大きな反響があった。活動に賛同する全国の人たちから多くの寄付金も寄せられたという。

 問題を抱えた子どもたちと向き合うことは、親でさえ容易ではない。なぜ南谷さんは、子どもたちを支え、食事を提供する活動を続けるのか。それは30歳で子宮を失い、子どもを授かることができなくなった南谷さんの苦悩が原点となっていた。

小学校でいじめに遭い、教師を目指す

町工場を営んでいた両親のもと、ひとりっ子として生まれ育った

 1964年、南谷さんは東京・荒川区で塗装工場を営んでいた両親のもとに生まれた。住み込みで働いている職人が数人おり、母親が朝、昼、夜と職人の分も食事を用意していたことから、南谷さんも子どものころから料理を手伝っていたという。南谷さんが子ども食堂で大勢の料理を作ることができるのは、このときの経験が生かされている。

「両親は遅い時間まで働いていたので、夕食は夜9時を過ぎてから食べるのが日常でした。ひとりっ子だったので、両親の仕事が終わるのをひとりで待つのが慣れっこでした。だからか親の顔色をいつもうかがって、いい子でいようと努めていました。両親は中卒だったので、私に期待をかけて勉強には厳しかったです。当時は今ほどお受験が盛んではない時代でしたが、私は小学校のときから塾に通って、中学受験を目指していました」

 しかし、親の希望だけで私立中学を目指していたわけではない。南谷さん自身に地元の中学には行きたくない理由があったのだ。

「小学校5、6年生のときに同級生からいじめられていたのです。私はピアノが好きだったので合唱コンクールの伴奏者に選ばれたりしていたのですが、それが気に食わない女の子がいて。無視されたり、あげたお土産を窓から投げられたり、上履きを隠されたり……。教科書や机に落書きされるのも日常茶飯事でした。だから中学は私立に入って、いじめっ子たちから離れたかったのです。でも結局、私立は全部落ちてしまいました」

 地元の中学校に進学することになり、いじめが続くことが心配だったが、母親が学校の役員になって、いじめから守ってくれたという。

「学校の役員は先生と近い立場にあるので、私に困ったことがあれば、母が先生にすぐ抗議してくれました。私もそのころから自我が芽生え始め、母に頼ってばかりではいけないと思い、勉強も部活も頑張って、自分なりに自信を持つことができるようになりました。すると次第にいじめられることがなくなっていきました」

町工場を営んでいた両親のもと、ひとりっ子として生まれ育った

 南谷さんが「将来は教師になりたい」という夢を持ち始めたのもこのころだった。

「自分のように悩んでいる子どもたちを見守ってあげたい、相談に乗ってあげたいという、自分の経験から生まれた将来の夢です。もともと子どもが好きだからとか、かわいいからという理由ではなく、子どもたちの将来を支えてあげたいと思うようになりました」

 学ぶことが好きだった南谷さんは進学校に合格し、イキイキした高校生活を送ることができた。

「気が合う友達ができて、合唱部に入って部活を楽しみ、男の子に恋もして。青春を謳歌しすぎて勉強をしなくなり、現役では大学に入れなかったんです。一浪して、英文科に進学し、卒業後は高校の英語の非常勤講師として就職しました」

 子どものときからの夢を叶え、晴れて教師になった南谷さんだったが、教師の仕事は1年で辞めてしまった。

「私はもともと人前で話すのがすごく苦手で、教育実習のときから苦痛を感じていました。実際に教壇に立つようになっても、まったく慣れることができず、『私は教師に向いてないんだ』と悟りました」

学生時代に、同級生たちと

卵巣嚢腫で片方の卵巣を、がんで子宮を摘出

忙しい合間をぬって、家族旅行に連れていってもらった

 高校の講師を辞めても、教育分野には興味を持ち続けていた南谷さん。

 予備校の職員に転職したのが24歳のときだ。新しい職場で心機一転、頑張ろうと思っていた矢先、病気で苦しむことになる。

「もともと病気がちで、小学校のときも腎臓病で入退院を繰り返していましたが、このとき新たに見つかったのが卵巣嚢腫でした」

 卵巣嚢腫は悪性ではないが、痛みや不正出血を伴い、会社を休むことも多くなったという。

「あまりの痛みで片方の卵巣を手術で摘出しましたが、もう片方にも嚢腫があり、こちらも翌年に半分摘出しました。卵巣の全摘を避けたのは、妊娠する可能性を残すためです」

予備校勤務時代に知り合った6歳年下の夫と結婚

 そのころ、南谷さんはのちに夫となる相手と交際をしていた。妊娠できる可能性があるとはいえ、「卵巣の病気だから子どもを持つのは難しいと思う」と彼には伝えていたという。

「彼は『子どもをつくるために結婚するのではない』『子どもがいないなりの生活がある』と言ってくれました。でも私は女性としての自信をなくし、こんな私と結婚するなんて申し訳ないという気持ちでいっぱいだったのです」

 なんとか妊娠できる身体にしようと、高い漢方薬を飲んだり、整体に行ったり、保険のきかない高額な治療もたくさん試した。しかし、今度は子宮筋腫が大きくなり、大量出血に見舞われた。

「ナプキンを2枚、3枚重ねても間に合わないくらいの出血量で、それが毎日続くのです。当然、貧血になって、日常生活にはかなりの支障がありました。生きるための造血剤は心臓が苦しくなって、息ができなくなり、もう限界でした」

 さらに子宮に初期のがんも見つかり、南谷さんは子宮全摘をせざるを得なくなる。30歳のときだった。

「手術をすれば出血もなくなり身体はラクになりますが、子宮を摘出したら妊娠は不可能です。5月に結婚式をして、子宮全摘の手術をしたのが9月でした。本来なら結婚して幸せなはずが、夫との関係もぎくしゃくし、人生で最もどん底の時期でした。ひとりっ子だったので、親に孫を抱かせてあげられないのも悲しかったです」

 手術の際、南谷さんが入院したのは2人部屋で、もう一人の患者さんも同じ病気で子宮全摘手術を受ける人だった。

「その人は『子どもはいらない。夫も同じ意見で、将来は2人で山のふもとにホテルを開きたい』と言っていました。それから3年後にハガキが届いて、本当にホテルを開業されていたのです。

 私はその行動力に触発され、自信をなくして落ち込んでいるだけではダメだ、自分も何かしなければいけないと思えるようになりました」

 そんなとき、父親から「どんな方法でもいいから、代理母や養子でもいいじゃないか。子どもを持つことを考えてみたらどうだ」とアドバイスがあった。

「日本には特別養子縁組という制度があります。血はつながっていなくても、育ての親として子どもを迎えればいいんだと徐々に気持ちが前に向いていきました」

予備校勤務時代に知り合った6歳年下の夫と結婚

特別養子縁組で男の子を育てるママに

35歳のときに養子の息子を迎え、親子3人の生活が始まった

 特別養子縁組とは、養子となる子どもと実親との間の法的な親子関係を解消し、養子と養親との間に親子関係を成立させる制度だ。特別養子縁組を行うためには、特別養子縁組を執り行うNPO法人で紹介された子どもと縁組成立前に子どものいる施設で数日生活を共にし、その後、家庭での生活の様子を家庭裁判所に認めてもらう必要がある。

 南谷さん夫婦は、児童相談所で3回ほど子どもの紹介を受けたが、そのときは縁がなかったという。

「夫は私よりも6つ下なのですが、『突然子どもができても父親になる自信がない』と話していました。時期尚早だったんです。その後、NPO法人団体の面接を夫婦で受けに行ったのですが、代表の方に『あなたみたいな自信家で、気が強い人には子どもは育てられません』と言われたのです」

 女性として自信をなくしていた南谷さんは、自信家と言われることに納得できなかった。

「NPOの代表は何もわかっていないのにひどいことを言う人だと思いました。そのときはカチンときて『じゃあ子どものことは諦めます』と言って帰ったのです。でもあとになって考えれば、当時は『子どもは一緒に暮らせばなんとかなる』という傲慢な考えがあったように思います」

 厳しいことを言われて子どもには縁がないと思っていたが、それから1週間後に連絡があった。紹介された乳児院に行くと、シスターに抱かれてきた子どもは男の子だった。

「実は私たちは女の子が希望だったので、そのときはショックでした。でも、生後8か月のその男の子は、初めて会うのにニコニコ笑っていて、もうその瞬間に『ああ、私たちを待っていたんだね。じゃあ一緒に帰ろうね』という気持ちになったのです。

 それから3日間、研修として子どもと一緒に過ごすのですが、子どもを抱っこしたこともない私たちが突然、母親と父親になるわけですから、人生であんなに疲れたことはないというくらい疲れたのを覚えています。乳児院には泊まれないので、夜は近くのホテルに帰るのですが、帰るときにその子が一生懸命、手を振っているのを見て、『この子と親子になれる!』と夫と確信しました」

 3日間の研修が終わって、自分たちの息子として育てる決意をした南谷さん夫妻。息子と一緒に施設を出発するときの光景は今でも忘れられないという。

「私たちの車の周りに施設の子どもたちがいっぱい集まってきて、『新しいお父さんとお母さんができていいなあ』とみんながうらやましそうにしているんです。子どもたちはいろんな事情で親と離れて暮らしていましたが、みんなが養子として引き取られるわけではありません。つらい境遇の子どもたちを見て胸が詰まりました。このときに見た光景は、のちに子ども食堂を開くきっかけのひとつになっています」

息子は発達障害がわかり高校で不登校に

 こうして35歳のときに養子を迎え、親子3人の生活が始まった。「ようやくスタート地点に立てた気がして、生きていく力が湧いてきた」と当時は思ったというが、子育ては想像していたよりも過酷だった。

「息子は明らかに周りの子と違うことが多くて戸惑いました。同じことを何度言っても理解できず、同年代の友達が普通にできることが息子にはできません。小学校に入ると、授業中に教室の外に出ていったり、落ち着かない行動が目立つようになりました。引き算ができなかったり、咳払いが多いことも気になっていました」

 心配になった南谷さんは息子さんの症状を小児科で相談した。

「咳払いはチックといわれる症状で、トゥレット症候群と診断されました。当時の医師からは、原因はお母さんが勉強を無理強いするからだとか、きちんと食事をしていますか?と言われたり。そのため脳の発達にいい食材にこだわって料理をするようになったのです。まだ、今のように発達障害という病気が認識されていなかった時代です。その後、ADHD(注意欠陥)、IQは83(境界知能IQ71~84)と診断され、症状を落ち着かせるために中学2年生のときに投薬治療を開始しました」

 それでも野球が得意だった息子さんは、スポーツ推薦で強豪の高校に入学することができた。しかし、入学後、不登校になってしまう。

「勉強をおろそかにして部活に出るのはダメという学校で、勉強ができなかった息子は部活にも参加できなくなり、そのうち朝も起きなくなり学校に行かなくなったのです。うつの症状も出て、どうしたらいいのかわからなくなりました。高校のママ友にも相談できず、ましてや母に相談すれば心配をかけてしまう。私の相談相手は占い師だけでした」

 当たると評判の横浜・中華街の占い師のもとに通い詰めるようになったという。

「『息子さんは自分の生き方を許してもらいたくて、あなたのところに来たんですよ』と言われて号泣しました。以前、NPOの代表に言われた『あなたみたいな自信家で、気が強い人には子どもは育てられません』という言葉を思い出したのです。

 占いをきっかけに、息子の気持ちや行動を認めることが大事だと気づき、私の息子への接し方も少しずつ変わっていきました」

 それから1年間の不登校を経て、息子さんは学校に行くようになり、「テーマパークのホテルで働きたい」という夢を持つようになった。

「夢を持って目標に向かっていく友人がそばにいたことが大きかったと思います。彼から刺激を受け、自分で生き方を考えるようになり、息子は成長しました。高校卒業後は専門学校に進学し、テーマパークでのアルバイトを経て、今はホテルのレストランに勤務しています」

 こうして子育てが一段落したころ、夫は勤めていた大手企業を退職し、障がい者の就労移行支援の仕事に就くことになった。

「障がいのある子たちは親が亡くなったらどうやって生きていくのか、そのことは私たち夫婦でずっと考えてきたテーマで、障がいのある当事者やその家庭の支援をしていきたいという思いがありました。夫が行動を始めて、私も何かしなくてはと思ったのです」

子ども食堂でわかった親たちの再教育の必要性

現在は50食分を4人で作っている。どれもおいしいと評判だ

 それまで南谷さんは子育てをしながら自宅で学習塾を開いていたが、学習障害がある子どもが多いことに気づいた。

「話を聞いていくうちに、学習障害がある子どもは食生活にも問題があることが多かったのです。食事で障がいが治るわけではありませんが、おいしく、栄養バランスのとれた食事は心の安定につながります。勉強をサポートする以前に、問題を抱える子どもと親を食で支えていくべきではないかと思い、子ども食堂を始めることを考えました。料理は好きでしたし、息子のように発達障害があったり、生きづらさを抱えている子どもたちの居場所をつくってあげたいという思いもあったのです」

 子ども食堂とは、子どもが一人でも行ける無料または低額の食堂で、食事提供、孤食の解消、食育、地域交流の場づくりなど目的はさまざまだ。現在、子ども食堂の数は全国で9000か所以上にも上るという。

 南谷さんは、子ども食堂の運営を東京都や企業からの助成金や寄付で賄っている。当初はボランティアで行っていたが、たやすいことではなかった。

「まずボランティアのスタッフを確保するのが大変です。今は50食を4人で作っていますが、スタッフがお休みするとてんてこまいになってしまいます。また、支援を受けた金額の使途について報告書を作成したり、事務作業も大変で、無償で行うには限界がありました。現在はNPO法人を設立し、事業として行うようになりました」 

 南谷さんの「こども食堂サザンクロス」はクローズド型で、週に1回、シングルマザー、不登校の子ども、児童相談所から紹介されたケースの方にのみ食事を提供している。何を食べてもおいしいと子どもたちにも大好評だ。また、週2回の学習支援も行っている。

 しかし、子ども食堂で気づいたのは、子どもだけでなく、親が問題を抱えているケースが多いことだった。

「病気で働けない、食材を渡しても料理が作れない、子どもにはコンビニのパンしか与えないといった状況で、親の再教育が必要だと思うことがしばしばあります。ずっと生活保護を受けながら来られている親子もいますが、親に前向きに生きる力を身につけていただかないと、貧困から一生抜け出せなくなります」

 虐待やネグレクトを受けている子どももいて、ただ食事を提供するだけでなく、行政や専門家につなぐこともある。

「親から身の上相談をされたり、依存されたりすることもあり、子ども食堂の運営は心身共に負担の大きい業務で片手間にできるものではありません」

 子ども食堂が必要ない社会が理想なのに、子ども食堂が美談として語られたり、どんどん増えていくことにも疑問を感じるという南谷さん。

「誰でも通える子ども食堂もありますが、本当に支援が必要な人に届いているのか、食事を提供するだけで子どもの人生が変わるのか疑問に思うこともあります。スタッフがモチベーションを保つのも大変です。子どもを見守っていくことは自分の使命だと思っていますが、私は間もなく還暦で、年齢的にもいつまでできるかはわかりません。この先、引き継いでくれる次世代の人を探しているところです」

落ち込むときはとことん落ち込んで、弱音を吐く

みんなが幸せになれるごはんを作っていくことが夢だと語る「NPO法人いきば」理事長・南谷素子さん(撮影/伊藤和幸)

 自分がどこまでできるのか不安も抱えている南谷さんだが、思いに共鳴し、一緒に働いてくれる仲間もできた。「NPO法人いきば」を南谷さんと一緒に運営する中山清佳さんは、勤めていた会社を辞めて、南谷さんと働くことを選んだ。

「私はもともとグループホーム運営のアニスピホールディングスに勤めておりましたが、会社の関連のNPO法人を南谷さんに譲ることが決まりました。私はそのお手伝いで参画したのですが、南谷さんの福祉への考え方に共感し、会社を辞めて一緒に活動することにしたのです。障がいがある人だけでなく、彼らを取り巻く環境やご家族にも目を向けて、課題を解決していくパワーが南谷さんにはありました」(中山さん)

 しかし運営はスムーズにいかないことも多かった。そんなときにパワフルな南谷さんの意外な一面を見たそうだ。

「落ち込むときはとことん落ち込んで、弱音を吐くので、強い人ではないんだと思いました。だからこそ、弱い立場の人たちの気持ちに寄り添うことができるのでしょうね。

 私は母を亡くしているのですが、南谷さんを母のように慕っています。若いお母さん方で、私と同じ気持ちの人は多いのではないでしょうか。優しいだけでなく、愛のある厳しい指導をされていて、まさにみんなのお母さんだなって思います」(中山さん)

 一方で南谷さんは数秘術という占いを学び、占い師としての顔も持っている。

「行き詰まっている人は、思いや悩みを吐き出す場があれば、気持ちが少し軽くなるはずです。例えば『運気は変わるもの。この先はよくなる』といった希望を持って生きてもらうために、占いを活用することは悪いことではないと思っています」

 一緒に働いている中山さんも、南谷さんの占いのファンだ。

「私がこれまで鑑定してもらった占い師の中でダントツで当たっていました。私の周りの人たちもみんな鑑定してもらっていて、すご腕占い師だと思います」(中山さん)

6月に行われた小林幸子さんの60周年記念祝賀会で、「こども食堂サザンクロス」を利用する子どもたちが小林さんに歌をプレゼントした

 コロナ禍による不景気や物価の高騰などを背景に、食材の寄付は減っているが、著名人から寄付が来ることもある。芸能人では歌手の小林幸子さんも南谷さんの子ども食堂を支援している一人だ。昨年は小林さんが自ら手がけるブランド米の「幸子米」150キロを寄付してくれた。

「150キロのお米というと3か月半~4か月分になるのでありがたかったです。小林さんは子ども食堂に来てくださり、子どもたちと一緒におにぎりを作ってくれました。このことはニュースとしても取り上げられ、著名人の方が発信してくださることで、子ども食堂の現実を多くの人に知っていただけることがありがたいです」

 6月に行われた小林幸子さんの芸能生活60周年記念祝賀会では、「こども食堂サザンクロス」を利用する子どもたちが歌のプレゼントを行った。

「子どもたちは一生懸命練習して舞台に立ち、観客の皆さんから大きな拍手をもらってとてもイキイキしていました。誰かに喜んでもらうために頑張るのは、子どもたちの生きる力にもつながります。こんな素敵な機会を与えてくれた小林さんに感謝しかありません」

 当の小林さんは次のように話す。

「南谷さんは損得ではなく、困っている人にすぐ手を差し伸べてしまう、そういう性分の人。昔はこういう人が多かったけれど、今の時代はみんな自分のことでいっぱいいっぱいなので、本当に貴重な人だと思います。私も困っている子どもたちに何かしてあげたいと思うけれど、直接何かをするのは難しいので、南谷さんを支援し、応援しているんです」

最後の晩餐を届けるおばさんになるのが夢

ユーズドのランドセルを安価で再販している

 南谷さんは、子ども食堂を続けていけるよう、複数の事業を行って、安定した組織運営を目指している。そのひとつが「ぐるぐるランド」というランドセルリサイクル事業だ。

「貧困などでランドセルが購入できない家庭に向けて、ユーズドランドセルにクリーニングを施し、安価再販を行っています。価格は2000~8000円ほど。最近は外国人家庭でのご利用も多いですね。使わないランドセルがある方はぜひ寄付をお願いします」

 今年は就労継続支援B型と若者支援のできる居場所を開所する予定だという。精力的に活動する南谷さんだが、最終的なゴールはどこになるのだろうか。

「やっぱり私の中では“食”が一番なんです。今後は障がい者向けのきざみ食やとろみ食の開発もしたいと考えています。

 そしてホスピスなどで最後の晩餐を届けてあげられるおばさんになりたい、幸せになれるごはんを作っていくことが夢ですね」

 NPO法人いきばの「いきば」とは、「生きる場所」「行きやすい場所」「粋な場所」「イキイキする場所」「良い気の場所」のことだ。

 学校に行けない悩みを抱える子、親とうまくいかなくて相談しに来る子、障がいのある子どもたち、シングルマザー、高齢者……と、今日も南谷さんは寄り添い続けて、笑顔で皆にフライパンを振っている。

<取材・文/垣内 栄>

かきうち・さかえ IT企業、編集プロダクション、出版社勤務を経て、 '02年よりフリーライター・編集者として活動。女性誌、経済誌、企業誌、書籍、WEBと幅広い媒体で、企画・編集・取材・執筆を担当している。
NPO法人いきば 寄付先などの情報はhttps://ikiba.org/に掲載
取材協力/株式会社ドリームパスポート