ため息が出るような繊細な作品を、モデルばりの着こなしで紹介していた広瀬さん。現在は編み物の指導者としての役割に重きを置いており、忙しい日々を送っているそう。これまでの人生から、現在の仕事ぶり、今後の目標を語ってもらった。
テレビの仕事はほぼ断っている
“ニット界の貴公子”と呼ばれ、たおやかな雰囲気と芸術的なニット作品で一躍、有名人となったニットデザイナーの広瀬光治さん。
一時期はバラエティー番組でもよく見かけたものだが、現在は本業の編み物のほうに本腰を入れているという。霞ヶ丘技芸学院(東京・港区)の院長として編み物の指導をするほか、YouTube「広瀬光治のあみものワールド」でも活躍している。
「今年で69歳になり、もう自分の姿をテレビで見るのはイヤなんです。だからテレビの仕事はほぼお断りして、表舞台からは少しずつフェードアウトしていこうと思っているところです」
と、広瀬さんは微笑む。
院長を務めている霞ヶ丘技芸学院は、創立が昭和24年で、レース手芸学科、編物手芸科があり、編み物の師範資格を取得することができる由緒ある学舎だ。
一方、広瀬さんが直接指導するクラスは、経験不問で誰もが自由に作品作りができる。「広瀬さんに習いたい」と北海道や鹿児島といった遠方から通う生徒さんもおり、年代は20代から80代までと幅広い。
「お孫さんやワンちゃんのお洋服を編みたいという方は多いですが、旦那さんのものを編みたいという方はいません(笑)。もともと学院での指導は私が70歳になるまでと計画していたのですけど、10年、20年と通ってくださっている方もいるので、生徒さんがいる限りは続けていこうと思うようになりました」(広瀬さん、以下同)
編み物には認知症予防に効果があるという研究報告もあり、そのせいか高齢の生徒さんもお元気な方ばかりだという。
「編み物は両手を動かしますし、目からの情報も入ってきます。教室に来ると皆さんおしゃべりをして、耳からも情報を得て、口も動かしますからね」
高校生のときに編み物を始めてから50年以上。知人から「技術を残すためにもYouTubeを開設してはどうか」とすすめられ、2年前から動画をアップするようになった。
「難しいテクニックを解説した動画は、実はあまり人気がないんです。100円ショップで買える糸で簡単に作れるもののほうがアクセスが多く、自分が残したいものと世間に求められているものが違うとわかりました。でも世界中の方が見てくださるわけですから、こちらからの押しつけにならないよう、フォロワーの方のリクエストをうかがいながら、テーマを決めています」
編み物の先生といえば今でも女性がほとんど、編み物を楽しむのも女性が圧倒的に多い。
そういった中で、30年ほど前に男性である広瀬さんがニットデザイナーとして彗星のごとく現れ、エレガントなたたずまいで編み物ファンの裾野を広げたことは間違いない。広瀬さんの原点は、幼少期の環境にあったという。
男の子が編み物をするのを止めなかった両親に感謝
「母が洋裁の仕事をしていたので、洋裁の本を目にする機会が多く、きれいな洋服に興味がありました。小学生のとき、ピンクのサテンのドレスを着たバービーの人形が欲しくて、お小遣いを貯めて買ったときのうれしさは今でも覚えています。そのバービーの洋服を手作りしていましたが、両親には『男の子なんだから』と止められたことはなく、むしろ仕上がりを褒められたものでした。あのときたしなめられていたら、ニットデザイナーにはなっていなかったと思います」
編み物を始めたのは高校生のときだ。同級生の女の子たちが編み物をしているのを見て、自分もやってみたくなった。
「最初は手袋を編みましたが、ゲージの取り方など基本がわかっていなくて、本を見てもうまくできなかったんです。それで自分で型紙を作って、それに合わせながら編んでいくようにしたら、本を見なくてもできるようになりました。人と同じものを作るのはイヤで、模様を組み合わせたりして、オリジナル作品を完成させていきました」
広瀬さんの作るニットは評判となり、近所の人たちからも「編んでほしい」と依頼されるまでになった。とはいえ編み物を職業にするという発想はなく、高校卒業後は水産会社に就職している。
「編み物への情熱は失っていなかったので、仕事をしながら霞ヶ丘技芸学院の夜間部に通って本格的に勉強をしていました。会社では経理担当でしたが、電算化の波が来て、このままだとそろばんや簿記は役に立たなくなるかもしれないという危機感も持つようになりました。ちょうど学院を卒業した22歳のとき、日本ヴォーグ社に転職が決まり、編み物雑誌の編集者・講師として、趣味を仕事にすることができたのです」
最初は編み物講師を対象にした講習を行っていたが、そのうち一般の人にも教えるようになった。女性がほとんどの世界で、華やかな容姿の広瀬さんはひと際目立ち、人気を博していく。そしてテレビ番組『おしゃれ工房』(NHK)などへの出演をきっかけに、“ニット界の貴公子”としてブレイクした。
「当初はまだ会社員だったので、テレビ番組の出演にあたっても会社の許可が必要でした。もっと自由に活動の場を広げたいと思い、44歳で会社を辞めて独立したのです」
自らがモデルとなって編み物誌の表紙に登場することもあり、メイクをしていることも目を引いた。
「テレビに出たときにヘアメイクの方がついてくださり、メイクをすると顔がこんなに変わるんだと驚きました。講演会でステージに立つことも多くなったので、人前に出るときはメイクをするようになったんです」
時には徹夜で作品を仕上げることもあり、精力的に働いてきた広瀬さんだが、60歳を過ぎると年齢なりの衰えを感じるようになった。
「肩もこりますし、老眼で手元が見づらくなりました。ひざも痛くて、2週間に1回はヒアルロン酸注射をしています。ただ健康診断では病気らしい病気を指摘されたことはありません。日本酒が大好きで、毎日結構な量を飲むのですが、肝臓の数値も今のところ大丈夫です。お酒を飲んで22時に寝て5時に起きるのが日課です」
今でも編み物が生活の中心で、料理はしないという。
「一緒に暮らしていた母が5年前に亡くなりました。それまでは食事をはじめ家事を全部やってくれていたので、母がいなくなって最初は困ったんです。でももともと食事にはあまり興味がなく、評判のお店に並んだり、取り寄せたりしてまで何かを食べたいと思ったことがなくて。今は自分で作らなくてもお店で惣菜が買えますし、料理をしなくても生きていけるんです」
元気なうちは新作を作り、技術を伝承していきたい
終活を考えたとき、大量にある作品をどうするかが広瀬さんの悩みどころだ。
「着てくださる方がいれば差し上げたいのですが、私のサイズが女性には合わないんです。男性に差し上げる場合は、似合う人を選ぶので……。でも以前、テレビ番組で東山紀之さんが欲しいと言ってくださったので、差し上げたことはありますね。とってもお似合いでしたよ(笑)」
今年の10月には上海で作品展を予定しており、新作が展示される。
「6月にエストニアとラトビアに行ってきたのですが、その土地から生まれた伝統的な作品を見て感動し、自分もまだ吸収できることがあるんだと刺激を受けました。元気なうちは新作を作り、技術を伝承して、編み物の楽しさを多くの人に広めていきたいと思っています」
取材・文/紀和 静
ひろせ・みつはる 1955年、埼玉県生まれ。霞ヶ丘技芸学院院長、日本生涯学習協議会会長、ニットデザイナー。高校卒業後、水産会社に勤めながら、霞ヶ丘技芸学院の夜間部で編み物を本格的に学ぶ。その後日本ヴォーグ社に入社し、編み物雑誌の編集長に。’93年からNHK『おしゃれ工房』や『趣味悠々』をはじめテレビにも出演し、大ブレイク。現在は編み物の指導や講演会を中心に活動。YouTube「広瀬光治のあみものワールド」も人気。