ドロンズ石本

 '92年から'03年まで放送された『電波少年』シリーズ。アポなし突撃、ヒッチハイク、無人島脱出、東大受験など今では考えられない無謀な企画のオンパレードだった。当時は出川哲朗有吉弘行らも番組に出ていたが、思いもよらない転身を遂げた人もいて……。

「子どものころ、父親から“一度は東京と海外に行け”って言われていたんです。だから“あの企画”に挑戦できたのかもしれません」

 ドロンズ石本は、'96年の『電波少年』で企画された南北アメリカ大陸縦断ヒッチハイクに、当時相方だった大島直也と挑戦。

ディレクターとの衝突

 この前年の'95年、コンビを結成したばかりだったふたりは『電波少年』の前説を担当していた。スタジオで有吉弘行と森脇和成のコンビ『猿岩石』がユーラシア大陸を横断するヒッチハイクのVTRを観覧客とともに見ていたという。

「有吉さんたちのヒッチハイク旅を観覧客の女性たちがキャーキャー言いながら応援していたのを覚えています。僕と相方は猿岩石の映像を見ながら“俺たちならどうする”とか話していましたね。まさかその後、自分がやるとは思いませんでした(笑)」

 猿岩石のヒッチハイク旅の終了後、入れ替わるようにマゼラン海峡からアラスカを目指すヒッチハイク旅を命じられたドロンズ。道中、ギャングに襲われたり、銃撃戦に巻き込まれたりと危険な目に遭うも、持ち前のバイタリティーで乗り越えていった。

「スペイン語を覚えて路上でコントをしたりして旅費を稼いでいました。ただ、旅に同伴したカメラも回していた担当ディレクターは“有吉さんたちみたいに、つらそうじゃないと人気が出ない”と考えていたんです。ヒッチハイクに成功しても、何かしら理由をつけて車に乗せてくれなかったりして、時々衝突しました。旅のつらさよりも、そういった理由でギブアップしたいと思いましたね」

「いただいた恩を返せるって幸せ」

 アメリカ大陸縦断の旅は、1年2か月かけて達成。その後、ロバのロシナンテと日本国内をヒッチハイクする企画にも挑戦した。

「帰国したばかりの時期は、日本で流行っていた“ポケモン”も知らなかったほど世の中から取り残されていました。ただ、危ない経験を通して大人になれたと思います。番組には感謝しかありません」

ドロンズ石本

 '03年にドロンズは解散。それ以降、石本はソロでタレントや俳優としてマルチに活動しながら、'07年には東京で『馬肉屋たけし』をオープンさせている。

「お店の経営は、コロナ禍とかは大変でしたが、旅と一緒で苦しいぶん、やりがいはありますよ。なにより“店”という拠点を持ったことで、共演した人や友人が集まる場所になるんです。今年5月にはヒッチハイク中にペルーでお世話になったご夫婦と、'97年以来の再会ができました」

 人の縁と恩のありがたさを学んだ石本。年を重ねるにつれ、お世話になった人にも恩返しできているという。

「先日、舞台で『少年忍者』のヴァサイェガ渉くんと豊田陸人くんと共演して、舞台終わりに彼らに食事をごちそうしたんです。というのも、'11年にTBS系ドラマ『南極大陸』で木村拓哉さんと共演した際、木村さんにごちそうになったり、かわいがってもらったので、木村さんの後輩に恩返しのつもりで。そのことをLINEで木村さんに“お世話になったぶん、後輩さんをお世話しています”と報告したら“当たり前だろ”と(笑)。いただいた恩を返せるって幸せですよ!

 昨年結婚した石本は、ある夢を持っているという。

「もし、子どもができたら自分と同じように国外を旅させていろんな経験をさせたいですね。まぁ、奥さんは大反対しているんですけどね(笑)」

 大冒険から28年。石本の旅の経験は、今でも彼の中で息づいている─。