現在は香港で活躍しているチューヤン。日本と関わる仕事もしている(本人提供)

 '92年から'03年まで放送された『電波少年』シリーズ。アポなし突撃、ヒッチハイク、無人島脱出、東大受験など今では考えられない無謀な企画のオンパレードだった。当時は出川哲朗有吉弘行らも番組に出ていたが、思いもよらない転身を遂げた人もいて……。

 伊藤高史とのコンビ『朋友』(パンヤオ)を結成し、アフリカ・ヨーロッパ縦断ヒッチハイク旅に挑戦したチューヤン。出演の経緯を、当時を彷彿とさせるカタコトの日本語で明かす。

「あのころ香港でラジオ番組に出演していたのですが、その中にアポなしの潜入取材をするコーナーがありました。そんなときに“日本のテレビに出ませんか?”という『電波少年』の広告が香港の新聞に載っていて。僕は“怪しいな〜”と思って、本当に日本の番組か確かめるためにオーディションに参加したんです」

現在も続く“朋友”との関係

 キッカケはどうであれ、オーディションに見事合格。当時から日本のアニメや歌などが好きだったチューヤンは、担当していたラジオ番組の上司と相談。「日本のテレビに出たい」「冒険したい」という思いを伝えて、旅に出ることになった。

「僕はインドア派だったの。あまり外に出るタイプではなかったので大変でした。電波少年も知らなかったので“なんでカメラ止まっているのに野宿するんだよ!”と怒っていました(笑)。あと、日本語があまりわからないから孤独を感じることもあったよ。でも、スタッフさんからやりたくない指示をされたときには、日本語がわかっても、わからないフリをしていました。伊藤くんには、2人になったときに“本当はわかっていたでしょ?”とバレていたけどね(笑)

 290日間に及ぶ過酷な旅を共にした伊藤とは今でも“朋友”なよう。

「伊藤くんとは今も仲がいいです。日本の僕の友達は、ほとんど伊藤くんに紹介してもらいました。伊藤くんは顔が広い。人とすぐ仲よくなるの。うふふ“チャラい”ですよ(笑)。実は、伊藤くんの結婚式にも行きました。牧師さん役として伊藤くんと奥様に“誓いますか?”とか言いましたよ(笑)

香港で敏腕クリエイターに

 旅から日本に戻ると今度は番組MCに抜擢。『電波少年』以外でも活躍の場を広げたが、'05年に父親の体調が悪くなったこともあり、日本の芸能界を引退して香港へ。その後は華麗な転身を遂げた。

「香港に戻って、ラジオの美術監督やクリエイティブディレクターとして制作や宣伝を担当しました。その仕事が順調にいき、新しいことに挑戦したいと思って、いくつかの会社で広告デザインの仕事もしました。今はデザインコンサルタントをやっています」

現在は香港で活躍しているチューヤン。日本と関わる仕事もしている(本人提供)

 母国で敏腕クリエイターとして活躍しているが、今でも日本への思いはかなり強い。

僕は日本のことが大好き。日本と関係がある仕事もしています。例えば、JA全農のイベントで日本の食材を香港で広める仕事。福島県のお米を使ったクラフトビールを香港で発売する際のラベルをデザインしました。ほかにもTBS系ドラマ『DCU』主題歌のミュージックビデオの現場美術監督を担当したり。これからも日本と香港のコラボの仕事をやりたいです

 再び日本に来たときには“夢”があるようで……。

「日本で個展を開きたいです。あとは一緒に仕事をした人や、電波少年で日本全国に行ったときに出会った人たちと再会したい。その子どもたちも、もうお父さんやお母さんになっているかもしれないですね」

 日本と香港の文化をつなぐ“架け橋”となったチューヤン。現在は表舞台に出ていないが、自分を思い出してくれる日本人に対して、特別な思いがあるようで─。

「僕は変な香港人なのに、嫌いにならずに受け入れてくれた日本のみなさん。今でも覚えてくれている人たちがいてくれて、本当に泣くほどうれしいし、感謝しています。また会いましょう!」