『電波少年』で企画を担当した鮫肌文殊氏(写真はオフィシャルより)

 '92年から'03年まで放送された『電波少年』シリーズ。アポなし突撃、ヒッチハイク、無人島脱出、東大受験など今では考えられない無謀な企画のオンパレードだった。当時は出川哲朗有吉弘行らも番組に出ていたが、その裏には制作陣の知られざる苦労があって……。

「否定的なヤツは会議に参加しなくていい」

『電波少年』シリーズでは「村山富市の眉毛を切りたい」「榊原郁恵の母乳を飲ませてもらう」などの過激な企画が番組を盛り上げた。当時、番組で放送作家を担当していた鮫肌文殊氏は、そんなトンデモ企画の誕生の舞台裏についてこう振り返る。

「番組で『T部長』として知られる土屋敏男さんは、作家が週1回の定例会議で提出する企画案の中から、いちばん過激で突拍子もないアイデアを片っ端から採用していました。そのうち、放送作家の間で“誰がいちばん頭がおかしいか?”を競い合うように。ちなみに、私の最初に採用されて、オンエアされた企画は“死ぬ前にもう一度だけ性行為をしたい老婆募集!”。いま思えば、バラエティー系の放送作家として、コンプライアンス順守が徹底される現在のテレビ界では考えられない幸せな時間を過ごさせていただきました」

『電波少年』で企画を担当した鮫肌文殊氏(写真はオフィシャルより)

 日曜日の夜10時の放送に向けて行われた企画案の提出は毎週、真剣勝負だったという。

「毎週水曜の夜7時に定例会議をやっていたんですが、その日は朝から図書館にこもって8時間以上かけてネタを練っていました。定例会議が終わると、その翌日からロケ開始。面白いものからどんどんオンエアされるので、スピード感が半端なかったです」

 鮫肌氏自身が企画になってしまったこともあるという。

「一度、熱が出て水曜の定例会議を休んだら、次の日、松本明子さんから電話がかかってきたんです。“もんじゅ、大丈夫?”と聞かれたので“熱も下がったので、大丈夫です”と答えたら、次の週の放送で“原発の『もんじゅ』がいろいろと大変だが、こちらの文殊は大丈夫か、電話して聞いてみた”というネタでオンエアされました。作家まで含めて全部ネタにされてしまうので、おちおち休んでもいられない恐怖の番組だと思いましたね

 企画を出す放送作家だけでなく、スタッフ一同の熱量も高かったそう。

「定例会議の席で、あるディレクターが作家の提出したネタに関して“これはできないよ”と言った際に、土屋さんが“作家の出したネタに関してできないって言うんなら帰ってくれ。ここはどうやってネタを形にするかを考える場。否定的なヤツは会議に参加しなくていい”と怒ったことがありました。電波少年がいまだに伝説のバラエティーと呼ばれているのは、ぶっ飛んだ企画を実現させるために、現場スタッフが一丸となって“今までのテレビで見たことのない面白いことをやる!”と邁進していたからだと思います」

 “いまの私があるのは、すべて電波少年のおかげ”と語る鮫肌氏は現在、日本放送作家協会理事を務め、特番『芸能人格付けチェック』(テレビ朝日系)のツッコミのナレーションなど担当。番組はなくとも、電波少年スピリットは生き続けている。