荒川の流れを見つめる宮沢。この辺りでハヤなどを釣った。「もっと山梨に関わりたいですね。沖縄で培った経験を故郷で生かしたい」

 6月最初の真夏日、宮沢和史は故郷・山梨県甲府市の朝日通り商店街にいた。THE BOOM初期の人気曲『星のラブレター』の歌詞に登場するこの通りは実在しており、ファンの聖地でもある。

原宿のホコ天で歌った日々

原宿の歩行者天国でライブ活動をしていたころのTHEBOOM。宮沢は大学の卒業式、衣装の上にコートを着て出席。そのままホコ天に駆けつけた

「大学生のときに書いた曲です。プロになりたくて毎週日曜日、原宿のホコ天(歩行者天国)で歌っていましたが、すごい数のバンドがいるから、シンプルなメロディーが耳に留まると思ったんです」

 緑や花のあふれる清潔で可愛らしい商店街は、曲の持つイメージにぴったりだ。

 幼いころから釣りをしたり、高校のころ、通学路として利用していた荒川の河川敷も案内してくれた。上流にダムができたことも一つの要因だろう、水質は子どものころのほうが良かったようだが、ゴミが見当たらず、よく手入れされている。

ミュージシャン・宮沢和史(58)撮影/伊藤和幸

「『未来の荒川をつくる会』というNPO法人があるんですが、地元の有志やボランティアの人たちが毎月集まってゴミ拾いや草刈りをしています。もう15年くらいやってるんじゃないかな」

 このNPOはもともと宮沢の父親が深く関わっており、宮沢も推進委員長として名を連ね、忙しくても1年に1度は清掃活動に参加しているという。

 今年、宮沢は音楽生活35周年を迎えた。春にアルバム『~35~』をリリースし、5月に東京・日比谷、6月に大阪の野外音楽堂で大規模な記念コンサートを行った。そして、この取材の数日前に締めくくりとして甲府市の武田神社甲陽武能殿で開催された『ふるさと山梨にて愛と平和を歌うLove Songコンサート2024』を成功させたばかりだった。

 円熟を深めた芳醇な宮沢の歌声をピアノとパーカッション、ベース、バイオリンのミニマルな演奏が支え、樹々の香り、ざわめき、鳥の声、参拝の鐘の音までもが粋な計らいと思えるような、それは美しいコンサートだった。

 この記念コンサートツアーは、宮沢自身、サポートメンバー、観客、誰もが喜びと幸せを噛みしめるような素晴らしいものになった。35年目にして、「今がいちばんいい状態」だと宮沢は言う。

「やっぱり一回、歌手を引退したことが大きかったと思います。それまでの人生の年表から離れたことで、自分を客観的に見ながらやりたい曲やファンが喜んでくれそうな曲を選んだり、バンドメンバーを決めたりすることができた。この周年は自分より、ファンの人や歴代のお付き合いのあるスタッフ、メディアの人たちのほうが主役だなと思いました。僕は歌うホストの役割という感覚です」

内向的だった少年が詩と言葉の面白さに目覚めて

音楽の道に目覚めた中学生のころ。YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)に出会い、夢中になる。世界が大きく広がった

 2016年、宮沢は持病の頸椎ヘルニアが悪化し、療養のため無期限で音楽活動を休止した。'05年、首にバットで殴られたような痛みが走り、定期的にその発作が出るようになる。ひとたび発作が起こると眠れないほどの痛みが続き、歌唱にも影響は及んだ。
'14年、メンバーに迷惑をかけられないとTHE BOOMを解散。

 ソロ活動を始めるが、間もなく限界を感じるようになる。手術の話も出たが、医師から声帯を移動すること、失敗すれば下半身不随になる可能性もゼロではないと聞き、宮沢は歌手をやめて症状と付き合っていくことを選択する。

「中学のころから曲を作り始めて、ずっと音楽で生きていくつもりでした。まさかヘルニアでバンドを解散して、自分も音楽をやめる日が来るとは思ってもいませんでした」

 幼少期は身体が弱く、内向的な少年だった。近所の同級生が釣りに誘ってくれたことをきっかけに自然の中を駆け回る楽しさを覚え、活発になっていく。

 小学校高学年のとき、好きだった女の子が書いていた詩の意外性に衝撃を受け、言葉の面白さに目覚めた。中学2年から自身で曲を作り始め、将来は音楽の世界で生きていきたいと願うようになる。高校は進学校の甲府南高校に進んだが、部活動を終えて家に帰ると、日夜弾き語りに励んだ。

「毎日2時間くらい自分の部屋で歌ってましたね。とにかく自信がなかったのでコンプレックスを埋めるように曲を作って吐き出していました。親にうるさい!って怒られながら(笑)」

 高校の同級生で山梨県勝沼にあるレストラン『ビストロ・ミル・プランタン』のオーナーである五味丈美さんが、当時の宮沢を振り返る。

「目立つタイプではなかったですね。集合写真を撮るときも、隅っこで頭をかいていたり、カメラのほうを見なかったりするようなシャイな性格でした。学園祭などでみんなの前で歌っているのを見て、こんな面もあるんだと驚きました」

 宮沢は高校卒業と同時に上京。1986年にTHE BOOMを結成し、翌年から原宿の歩行者天国でのライブ活動をスタートする。徐々に注目が高まり、CBSソニーのオーディションを受けることをすすめられ出場。グランプリを受賞し、念願のメジャーデビューが決まった。ちょうど宮沢が明治大学を卒業する前年のことだ。 

 毒気を叙情性でくるんだ耳に残る楽曲と、跳んだり走ったりの派手なステージパフォーマンスで一躍人気を集めたが、宮沢は悩んでいた。ポリスやザ・スペシャルズなどにヒントを得た、ロックにスカやレゲエのリズムを取り入れたスタイルが定着しているが、これが自分の音楽なのか? 自分にしか作れない音楽とは何なのだろうか? 

「プロになる人の中には早熟で10代から完成されている人がいます。僕はそうじゃなかった。デビューはしたものの、このままじゃとてもこの世界で生きられないと焦りを感じました」

人生を変えた沖縄での経験、『島唄』の大ヒット

 西洋のポップス、ロックから離れ、沖縄やアジアに目を向けていたころ、レコード会社のスタッフから沖縄民謡のカセットテープをもらい、旋律の心地よさと三線の音色のとりこになる。

 琉球音階を取り入れた曲作りにも挑戦した。3枚目のアルバム『JAPANESKA』のジャケット撮影で初めて沖縄を訪れた際、保留にしていたその曲の歌詞がどんどん浮かんでくるという不思議な体験をする。『ひゃくまんつぶの涙』とタイトルをつけ、アルバムに収録した。

 翌'91年の再訪での出来事が、宮沢の人生を大きく変えることになる。立ち寄ったひめゆり平和祈念資料館で学徒隊の生存者である女性から沖縄戦の実情を聞き、「自分は何も知らなかった」ことに激しいショックを受けた。島民の4分の1が犠牲となり、米兵、日本兵も含めると20万人以上が亡くなったこと、集団自決があったこと、自分の子どもを殺めなければならなかった人がいたこと、日本の政策によって沖縄は本土決戦の「時間かせぎ」の場にされたこと……。

 こみ上げてくる怒りと自分の無知に感情が爆発しそうだった。本土の人たちに今の平和は沖縄の犠牲の上にあることを知ってほしい。二度と戦争など起きてはいけない。

 近くにあったサトウキビ畑に囲まれた防空壕の中でじっと時を過ごし、宮沢は逡巡しながら話を聞かせてくれたあの女性に聴いてもらうためにも、この思いを曲にしようと誓う。

 そして、誕生したのが『島唄』だった。

 まるで「頼んだぞ」と魂の包みを渡されたような不思議な感覚で曲が生まれたが、当時は沖縄と本土の間には見えない文化的な壁があった。本土の人間である自分が三線を持って沖縄戦を歌っていいものだろうか。この時期、ロックと沖縄民謡を融合させた先駆者である喜納昌吉と出会い、「もし君が魂までコピーすればそれはもう、まねじゃない」という言葉に背中を押されて世に出すことを決意する。

再開未定の活動休止期間に

「さかのぼればTHEBOOMの4人が出会ったのも大きいこと。4人が出会わなければ、デビューはなかったわけですからね」

 '92年、『島唄』は4枚目のアルバム『思春期』に収録されたが、バンドは夏に再開未定の活動休止期間に入る。デビューから休みなく走り続け、身も心も疲弊していた。

 メンバーはソロ活動を始め、宮沢はシンガポールのミュージシャン、ディック・リーの誘いでミュージカル『ナガランド』に出演し、アジア各国を回った。作品の「アジアの小さな島国が、閉ざされた歴史と開かれた未来のはざまで、葛藤しながら新しい夜明けに向かっていく」というストーリーに強く共鳴した。この経験がバンド再開へのモチベーションを高めることになる。

 年末にTHE BOOMは『島唄』のウチナーグチ・ヴァージョンを沖縄限定で発売し、50万枚を売り上げる。翌年、本格的にバンド活動を再開し、『島唄(オリジナル・ヴァージョン)』を全国リリースすると150万枚という大ヒットを記録した。しかし、その陰で沖縄の一部ではバッシングの声も上がっていた。

 表面的には男女の別れの歌にし、真意はすべての歌詞の裏に込めたが、「ヤマトンチュが琉球音階を使うとは何事だ」「沖縄でひと儲けしようとしているあんたこそ帝国主義ではないのか」などという厳しい声が宮沢の耳にも届いた。

 本意を真逆に捉えられたことがつらく、沖縄に行くのも気詰まりになってしまう。

「社会を見て感じたことを、音楽に昇華する」

ブラジルでのコンサートの様子。宮沢と観客の熱気がすごい

 沖縄在住の舞台演出家で、宮沢と親交の深い平田大一さんはそんな時期に宮沢と出会っている。'94年に公開された中江裕司監督の映画『パイパティローマ』での共演だった。主人公の女性を、ギターを持った宮沢と横笛を吹く平田さんが、音楽対決をして取り合うというワンシーンの撮影が竹富島で行われた。楽器の相性が悪く、どうしたら音が合うものかと思案していた平田さんに、宮沢はひと言、「あんまり難しいことは考えないでノリでやりましょう」と言い放ち、ぶっつけ本番で一発OKをもらったという。

「かなり尖ってましたね(笑)。『島唄』がヒットしていて、日本を牽引する若きロックスターというイメージでした。ちょっと触れられないくらいのオーラを身にまとっていて、いろんなものに対して壁をつくっているような感じもありました」(平田さん)

 その後、宮沢はブラジル音楽にのめり込み、『島唄』ロングヒットの最中、ブラジル北東部の黒人たちのリズムにポエトリーリーディングを乗せた画期的な楽曲『手紙』を発表する。そこには人間の持つ怒り、悲しみ、希望……さまざまな感情が渦巻いており、『島唄』の対極のようで同一線上にある曲ともいえる。

 思えば宮沢は、デビュー当時から社会問題を何げなく歌にしていた。例えば'89年に発売された3枚目のシングル『気球に乗って』は天安門事件をモチーフに書かれた楽曲である。

「僕がデビューしたころは、ちょうどバブル期でしたが、とても嫌でしたね。どうせ終わるのになぜこんなに浮かれていられるんだ、と。その刹那的な感じが本当に居心地悪かった。音楽を聴いても日本にはそういうことを発する人がいない。ジョン・レノン、U2、スティングたちは、社会を見て感じたことを曲にしていました。社会を変えることはできなくても、石を投げて音楽に昇華できていた。そういうことを試みている人が好きだったというのもあります」

 社会の中で起こったことは常にメモするように曲にしておこうと、宮沢はその後も『TROPICALISM』『ゲバラとエビータのためのタンゴ』など社会風刺的な楽曲をいくつも書いた。これらは今聴いても、まったく古さを感じさせない。

「それは当時、問題に感じて曲にしたことが、何ひとつ解決していないからじゃないですか。複雑な気持ちですけど……」

ブラジルに魅せられ、多国籍メンバーとツアー敢行

ブラジル・サンパウロで行われた沖縄県人会にて。こうした交流のほか、南米最大規模の沖縄系イベント『おきなわ祭り』にも参加している

 '94年、宮沢は初めてブラジルのリオデジャネイロを訪れ、逆境をはね飛ばすように明るくパワフルに生きる人々のエネルギーに圧倒される。さまざまな打楽器を購入し、リズムや音の構築をもとにしながら、日本人が踊れて気持ちよく開放される音楽を目指し、6枚目のアルバム『極東サンバ』を完成させた。

 このアルバムに収録されている『風になりたい』はイパネマの海岸でメロディーが浮かび、日本で歌詞を書いた。ブラジルのサンバのリズムに、自分たちが抱いている苛立ちや希望を乗せることで、日本の等身大のサンバが誕生した。

 '96年、THE BOOMは初のブラジルツアーを敢行。その後も宮沢は、'98年に全曲ポルトガル語に挑戦したソロアルバム『AFROSICK』を南米のアーティストらと制作し、ブラジルでコンサートを行っている。

のみ込まれちゃったというか、やらなきゃ気が済まないという感じでした。惹かれるままにまったく知らない世界に飛び込んでいくと出会いがあって、そこで音楽を作る仲間ができるというのが僕のスタイル。それによって次の道が切り開かれる、その連続だった気がします。どこへ行くかはわからないし、戻ってくるホームもない。

 でも僕はそんなミュージシャンが好きなんです。坂本龍一さん、加藤登紀子さんのような。そういう先輩すらも通らなかった道を行ってみるんだ!という気持ちだった気がします」

 ブラジルでも発売された『AFROSICK』は評判となり、宮沢は国籍もバックグラウンドも違うミュージシャンたちと中南米やヨーロッパを回るツアーを行う。

 ブラジルをはじめとする南米各地には、戦前、戦後にかけて国策で多くの日本人が送られ、過酷な労働や病で多くの人が亡くなった歴史がある。にもかかわらず、たった100年で日本人はブラジル社会で、なくてはならない存在になっていた。日本にも数十万の日系ブラジル人が暮らしているが、文化の違いから、あまりにも交流が少ない。宮沢はブラジルでコンサートを行うたびに集まってくれる日系人への感謝、第一回移民で当時98歳だった故・中川トミさんとの出会いによって、'08年、ブラジル移民100周年を祝うコンサートツアーを行う決意をする。共にしたのは、ワールドツアーを回ったときの多国籍なメンバー。「GANGA ZUMBA」と命名し、正式なバンドとなった。

沖縄民謡と「くるち」を次世代に残す取り組みを

2013年の『くるちの杜植樹祭』で植樹した、くるちの苗木。この活動は徐々に注目を集め、2018年に第40回サントリー地域文化賞を受賞した

 宮沢は沖縄のことも忘れていなかった。

 '07年、前出の平田さんのもとに知り合いから「宮沢さんが沖縄にレコーディングに来ていて、平田君に会いたいと言っている」と連絡が入った。

「彼が僕のことを覚えてるの?と思いながらスタジオに行くと『やぁ、平田君、頑張ってるね』って。昔と全然印象が違う(笑)。当時、僕は古典様式の『肝高の阿麻和利』という舞台をアレンジして、沖縄の中高生たちと一緒に作っていました。彼はその取り組みに興味を持っていて、舞台の稽古場まで来てくれた。黙ってずっと稽古を見て、フィナーレを迎えると立ち上がって『すごいね、感動しちゃった。せっかくだから』とギターを弾いて『島唄』を客席から歌ってくれました。子どもたちはもちろん『島唄』を知ってますから、大喜びですよ。そのとき初めて『宮沢さんに出会えたな』という感じがしました」(平田さん)

 平田さんの「古いものを大事にしながら、新しいものを生み出していく」取り組みは、宮沢がやりたいと思いながらもできずにいたことだった。そして'11年、東日本大震災が発生。宮沢は「やりたいことは今やらなければ、一瞬でできなくなる可能性がある」と以前から心の中で温めていた沖縄民謡を次世代へ残すための活動を始める。

 自ら歌い手のもとを訪ね歩き、4年かけて250曲あまりを私費で録音した。パッケージ化の費用は平田さんの協力で『唄方プロジェクト』を立ち上げ、寄付金で17枚組のCDボックスが完成。沖縄県内の学校や図書館、県外の県人会などに寄贈した。

『くるちの杜』での宮沢と平田大一さん。2人で地元の小・中学、高校などを訪れ、活動を紹介する『おでかけくるちの杜講座』も行っている

 この活動と並行して宮沢は'12年、『くるちの杜100年プロジェクト』をスタートさせている。『島唄』のヒットで三線の売り上げが伸び、それまで棹に使っていた沖縄産の黒木(くるち)が枯渇、今は輸入に頼っていると飲みの席の笑い話として職人から聞かされたのだ。しかし、宮沢は笑えなかった。

 当時、知事の要請を受けて沖縄県の文化観光スポーツ部長を務めていた平田さんのところに、宮沢から電話が入った。

「今、那覇にいるんだけど、お昼休みに行ってもいいかな。10分だけ時間が欲しい」

 平田さんが応じると「これはお願い事ではなくて平田君に話したいだけだから。くるちを県が管理している場所にちょっと植えることはできないだろうか」と先の会合での一件を話し、10分たったのを確認すると「聞いてくれてありがとう」と帰っていった。

 宮沢の熱意を感じ取り、平田さんが調べてみると2008年から読谷村で、くるちの植樹をやっていたという情報が見つかる。その取り組みをリスタートさせるのはどうだろう、と宮沢に提案した。

 翌月、沖縄にやってきた宮沢と2人で読谷村に向かい、くるちを探してみるとぼうぼうの雑草の中に、頼りなく細々と生えている数本を見つけた。

「それを見て宮沢さん、涙ぐんでるんですよ。『かわいそうすぎる』って」(平田さん)

 植樹したくるちが棹になるまで100年かかるそうだが、宮沢は平田さんに言った。

「100年先の三線になった姿を僕らは見ることができないけど、その姿を夢見ることはできる。それはすごく素敵なことじゃないかな」

 2人の考えに多くの村民が賛同し、とんとん拍子に話が進んだ。植樹活動は現在も続いており、毎週第三日曜日には周辺の草刈りが行われ、宮沢も頻繁に参加している。

どんな小さな約束も守る、気遣いに満ちた素顔

宮沢にとって故郷は「全員が敵になったとしても許してくれる場所。何もないけど、空気も水も星もきれいで、人間にとって大事なものが全部そろっています」

 2つの取り組みを通して、沖縄の人たちの宮沢への見方は大きく変わった。自分の言葉を発信したり、住民と接する機会が増え、コミュニケーションが生まれるようになったのだ。

「彼の言動は常に一致しています。誰かに『今度行きます』と言ったら、必ず行く。どんな小さなことでも、約束したらしっかり守ってくれる。僕にアルゼンチンのお土産を渡すためだけに沖縄に来てくれるような人ですから。直接、宮沢さんと接した人はその人柄に触れて、悪く言う人が1人もいなくなるんです」(平田さん)

 前出の高校の同級生、五味さんも普段の宮沢をこんなふうに評する。

「本当に気遣いの男ですよ。山梨に帰ってきたときはよく店に来てくれますし、同級生みんなで集まるときは人数をあらかじめ確認して、全員にお土産を持ってくるんです。沖縄の塩とか、『みやんち』(宮沢がプロデュースする沖縄のカフェ)のオリジナルTシャツとか」

 五味さんとは数年前から一緒にイベントを行う計画があったが、コロナ禍の影響で2度も頓挫してしまった。そんなとき、宮沢からハガキが届いたという。

「『ごめんね、次はきっと実現させよう』というようなことが書いてありました。メールでもいいのに、ハガキを送ってくるところが彼らしい」

 宮沢は家族も、とても大切にしている。母方の祖父は硫黄島で戦死しているが、子どものころ、終戦の特番を見ながら厳しい表情をしていた母親の横顔がずっと気になっていた。沖縄戦の真実を知り、母親が憎いのはアメリカではなく日本だったことに気づく。沖縄を知ることで母親の無念、祖父の無念も理解できるようになるのでは、という思いもあった。

「硫黄島で玉砕した日本兵の骨を遺族に渡すということで祖母が増上寺に骨壺をもらいに行ったら、中に砂しか入っていなかった。その話を聞いて、ショックでした。でも裏を返せばまだ祖父は硫黄島にいるということになる。

 このあいだ、『飛鳥』というサイパンから横浜港まで渡る船の中で歌う仕事をしたんですが、途中に硫黄島があるんです。船員の方に朝の8時くらいに付近を通ると聞き、カメラをセットして、100キロまで近づいたときに写真を撮って手を合わせました。航路と硫黄島の近くを船が通った証明書をもらって、母親に渡しました。家の仏壇に飾ってくれています」

2年間の活動休止で見つめ直した自らの居場所

武田神社のコンサートでは加藤登紀子の『難破船』のカバーも披露。「高校生のときに聴いて、愛って厄介で難しいものなんだろうなと……」

 どんな話題のときも、身振り手振りを交えながら穏やかに、丁寧に話す。

「よく言われるんですよ。『宮沢、変わったな』『昔はとげとげしくて目も合わせないし、近寄りがたくて怖かった。今はなんでそんなに丸いの?』って。自分としては、昔も今も一緒なんですけど。やっぱり自信がなかったんでしょうね。だからいつも戦闘モードで、強く見せようとしていたのかも」

 意外にも、'16年に歌手活動を休止するまで「ずっと自信がないままだった」と明かす。「自信がないからいろんなところに飛び込んでいったり、誰もやっていないような曲を作ってみようと必死になっていたんだと思います」

 バンドを解散し、所属事務所を辞め歌手活動もやめてから、ヘルニアの発作はまったく起こらなくなった。歌うときの姿勢や不摂生などの職業病だけではない、精神的プレッシャーからの解放が大きかったようだ。ただ、「THE BOOMのボーカル」という肩書がなくなったことで、自分には何もないと気づいた。ずっと音楽の道を走ってきて、大した社会経験もしていない。前向きな日もあれば、他人の言葉がすべて正しく、自分が疑わしく思える日もあった。

「そんなとき、お世話になった人から仙台の東日本大震災チャリティーライブに誘われたんです。何曲か歌いましたが、声は出ないし、出来はひどいものでした。俺もこんなになっちゃったかと思ったんですが、歌い終わると拍手がすごい。ああ、素敵な場所にいたんだなと気づきました」

 その後、長崎県の対馬から夏祭りに来てほしいと声がかかり、村の子どもやお年寄りたちから拍手をもらううちに、歌いたいという気持ちが少しずつ蘇ってきた。音楽にのめり込み、自分を追い込みすぎて疲弊してしまったが、そこから引き上げてくれたのも音楽だった。'18年には、本格的に歌手活動を再開。全国区の大きな仕事から、島の村祭り、国内のブラジル・フェスティバルまで「面白そう」と思ったものは垣根なく、縦横無尽に参加している。

 2年間、それまでの人生の年表から離れたことで、宮沢が手に入れた大きなもののひとつが「自信」だった。

「年表から離れた時期、自分の仕事を冷静に見てみると、結構、面白いことやってきたな、まんざらでもないなと思えたんです。今まで経験したことは全部2時間のステージに反映できるし、他の人には作れないものになる。それは誇りだなと。事務所がない、マネージャーがいないというのも、今の自分には合っていると思います。誰にも甘えられないし細かいこともやらなくちゃいけないけれど、リスクもないし、誰にも迷惑かけずにやりたいことができる。余裕も自信もあるから楽しいし、何があってもへっちゃらです」

 ステージ上で見せる表情や言葉も、観客を包み込むように優しい。

「コンサートをしていると、車イスの人がいたり、泣いている人がいたり、いろんな思いでここに来てくれているんだなと感じます。何かひと言でも心に残して帰ってくれたらと、言葉を用意して伝えるようにしています」

 宮沢は甲府市の子どもたちにも、言葉を伝えることに心を砕いている。

「甲府出身の著名人が子どもたちに夢を聞いてアドバイスするプロジェクトがあるのですが、今の世の中はあまりにも問題が多く、何が善で何が悪なのかもわからない。だからこそ子どもたちには『2つ選択肢があって迷ったときは美しいほうを選ぼう』と伝えています。勝ち組になれなくても、絶対に敗北はないので」

 それは、宮沢の生きざまそのもののようだ。

<取材・文/原田早知>

はらだ・さち フリーライター。北海道生まれ。『JUNON』『TVガイド』をメインに雑誌、ファンクラブ会報誌などで多数のタレントのインタビュー記事を執筆。東日本大震災をきっかけに、地元のカルチャーに関わるべく札幌へ移住。専門学校講師として文筆業を志す学生の指導を行っている。