2018年11月、胆のうがんステージ4と宣告された三嶋伊鈴さん(享年57)。調理師だった伊鈴さんは愛する夫と食べ盛りの子どもたちに一冊のレシピノートを書き遺した。詳細な手順、見やすいイラスト。そこには家族を気遣う母の深い思いが刻まれていた―。
今も家族の食卓を支えているレシピノート
2018年にステージ4の胆のうがんを宣告され、3年間の闘病の末、最後の1か月を長野県の自宅で過ごした三嶋伊鈴さん(享年57)。訪問診療を担当した瀬角英樹先生の縁で、伊鈴さんの自宅での看取りに地元の長野放送が密着。
2022年に放映されると大きな反響を呼び、番組のYouTube配信に加え、今年書籍化もされた。
保育園の調理師だった伊鈴さんは、病で食事が喉を通らなくなっても夫と2人の子どものために台所に立ち続け、家族が大好きな定番メニューをひそかにノートに書き遺した。レシピは子どもたちに受け継がれ、今も家族の食卓を支えている。
最期まで家族を案じ続けた伊鈴さんの思いや、自宅での看取りについて夫の浩徳さんに聞いた。
「2018年11月に、妻は食欲がないと言って病院で検査を受けました。そこで突然、胆のうがんのステージ4を宣告されたんです。訳がわからない、とひどく取り乱した様子で電話があり、私もにわかに信じられませんでした。妻はそれまでとても健康でしたから」(浩徳さん、以下同)
胆のうがんは、肝臓と十二指腸をつなぐ胆のう管や、そこにつながる袋状の胆のうにできるがん。かかる割合はがん全体の1.6%と珍しく、症状も出にくいため進行してから見つかることが多い。
「改めて妻と病院へ話を聞きに行くと、がんは肝臓や胆のうの周囲にまで広がり、がんを取り除く手術はできないくらい進行していると言われたんです。治りますよね、と聞くと、薬が効けばしばらくはと言われ、呆然としました」
2人で診察室を出ると、伊鈴さんは、子どもたちには絶対に言わないでと頼んだ。
「長女の優華は当時高校2年生で、長男の健渡もまだ小学5年生でしたから、負担をかけたくなかったんだと思います。妻は自分のことより、いつも相手のことを考える人だったので。子どもたちにとって、いつもどおりのお母さんでいたいと……」
その後すぐに入院が決まり、がんに押しつぶされた胆管を広げる手術で肝臓の機能を安定させてから、抗がん剤治療がスタート。子どもたちにはがんによる入院ということは伏せていた。
「退院してからも強い副作用に耐えながら、半年近く抗がん剤治療を続けました。すると、みるみるうちにがんが小さくなっていったんです」
それから3年間は2週に1度の抗がん剤治療を続けたが、副作用もほとんどなく、調理師の仕事にも復帰して以前のような日々を過ごした。
「このまま治るかもしれないと思っていました。しかし2021年12月のCT検査で再びがんが大きくなっていることがわかって……。別の抗がん剤や高周波の電磁波熱を使った治療も受けましたが、効果はありませんでした。それでも、妻が死ぬわけはないとどこかで思っていました」
子どもたちには伝えずに……と考えていたものの、家族全員のサポートは必要不可欠だった。浩徳さんからそれぞれにがんのことを伝え、2022年6月には浩徳さんの還暦祝いも兼ねて、思い出づくりに家族旅行へ出かける。
精神面のサポートもとても重要
しかしその後、伊鈴さんの体調は一気に悪化していった。
「旅行の時は、歩いたり階段を上ったりすると少ししんどいという程度でした。でも7月を過ぎると次第にやせ細り、がんの末期症状で腹水がたまってお腹がパンパンに膨らみ、歩くのも大変になって。肺や胃が圧迫され、呼吸や食事、睡眠もひと苦労だったんです」
8月末に病院へ行くと、浩徳さんは担当医からもう1か月ももたないだろう、と告げられてしまう。
「部屋を出て、妻から先生と何を話したの?と聞かれても、余命のことは言えませんでした」
しかも医師からはコロナ禍で、このまま入院したら最期まで会えなくなるからと在宅医療をすすめられたという。
「自宅で看取るなんて、それまで考えたこともありませんでした。でも入院して会えなくなるくらいなら自宅で子どもたちと一緒に家族で過ごしたい、という一心ですぐに話を進めました」
その日、子どもたちに伊鈴さんの余命を伝えると、夜遅く布団から健渡くんの嗚咽が漏れ聞こえていた。
2022年9月8日、自宅療養をスタートした伊鈴さんのもとを訪れたのが、訪問診療医の瀬角英樹先生だ。そもそも訪問診療医とは何なのか。
「訪問診療の目的は、医師や看護師、ケアマネジャーがチームとなって、患者さんの身体的なつらさをはじめとした苦痛を軽減すること。処置に関しては、大きなリスクがなければ自分の責任でできる限りのことを行うようにしています」(瀬角医師、以下同)
瀬角先生のクリニックでは、140人ほどの患者の訪問医療を担当し、終末期の患者はそのうち10人程度。もとは消化器内科の専門医として病院に長年勤務し、がん終末期の患者も数多く担当した。
「医療面のサポートはもちろん大事ですが、精神面のサポートもとても重要だと考えています。何より自宅ではすべてが自由。病院では病院のルールの中で過ごさなくてはいけませんが、自宅なら何をしても何を食べてもいいし、飲みたければお酒を飲んでもいい。だから僕は初めて訪問する日に、もうあなたは自由だから何をしてもいいですよと伝えます。すると表情がやわらかくなるんです」
そして残された最後の時間に、本人や家族の希望を叶える手伝いをするのだという。
「そのためには本人や家族との信頼関係を築くことが重要。訪問する時はそのおうちの雰囲気や空気感を感じ取って、考えながら話すようにしています。そして、たとえ死が迫った状況でもユーモアを忘れずにその場を和ませる対応を心がけています。三嶋さんのご家族は、伊鈴さんご本人がとても明るい方で、僕とのやりとりも楽しんでくれて。初日から笑いが絶えませんでした」
実際、在宅医療に不安を感じていた浩徳さんだったが、瀬角先生が和やかな雰囲気をつくってくれたため、すぐに打ち解けられた。その後も訪問医療チームの手厚いサポートで、三嶋家は安心して伊鈴さんを見守ることができた。
「訪問診療は週に1度の予定でしたが、何か起きたらすぐに訪問看護ステーションへ電話します。すると看護師さんが5~10分くらいで駆けつけてくれて、状態を見ながら先生の指示で処置をしてくれる。もちろん必要な場合は先生も駆けつけてくれます。排泄処理までしてくれて、本当に感謝しています」(浩徳さん)
また瀬角先生は、家族間での思いを伝えるためのきっかけもつくってくれた。
「状態が悪くなってきた時の訪問診療の日、先生から『悔いのないように思いを伝えてください。あと数日しか意識がしっかりしている時はないかもしれない』と言われて。妻にも『おうちの人に伝えたいことをしっかり話してね』と言ってくれていたみたいで。
妻は苦しみながらも力を振り絞って『迷惑かけてごめんね、いつも親切にやってくれてありがとう』『こんな優しいお父さんはどこ探してもいない』と。そんな妻に僕は『ありがとね。手料理おいしかったよ。あまりおいしいって言ってなかった。ごめんね』と、これまで言葉にしてこなかった感謝の気持ちを伝えました」(浩徳さん、以下同)
立てなくなるギリギリまで料理を作っていた
伊鈴さんは、見舞いに訪れた母や兄、友人一人ひとりにも、懸命に感謝を伝えた。
「僕はありがとうって言葉を言ってしまったら、最期であることを認めてしまうようで怖くて言えずにいました。先生のひと言がなければ、互いにきちんと気持ちを伝えきれていなかったかもしれない。だからそういう機会を与えてもらって、話ができて本当によかったと思っています」
亡くなる前日、診察に来た先生が帰り支度を始めると、伊鈴さんから「あと生きられるのどのくらい?」と問いかけがあった。
「3日くらいかな、と正直に答えました。三嶋さんのご家族もそうでしたが、本人に余命を伝えられず、言わないご家族も多い。でもそれでは悔いを残してしまう。だからご家族と相談の上で、本人にも残り時間を伝え、家族で気持ちを言い合えるきっかけをつくれたらと」(瀬角先生)
先生が帰ったあと、伊鈴さんは息はあるものの返事をしなくなり、浩徳さんと優華さんはリビングにある伊鈴さんのベッドのそばに布団を敷いて寝た。翌朝も呼吸はあったが、コーヒーを入れているほんの少しの間に、伊鈴さんは静かに息を引き取った。
亡くなる少し前、優華さんが探し物を見つけるために伊鈴さんのバッグの中を見ると、手書きのレシピノートと闘病記を見つけた。
「この時、妻はもうほとんど会話ができなくなっていたので、詳しいことはわからないのですが、2018年の最初に入院した際の闘病記に『優華が三色丼作るから、レシピ教えてと言うので、紙に書いたら時間つぶしになった』とあり、その時に書いたんだとわかりました。子どもたちはいつも、妻の手料理をおいしい、おいしいと食べていましたから、優華はレシピを知りたかったんですね」(浩徳さん、以下同)
在宅医療になった後も伊鈴さんはレシピを書き続けていたかもしれない、と浩徳さん。
「妻が体調を崩してから優華が料理を一手に引き受けることになって、三色丼以外にも作れるようにレシピが欲しいと言ったことがあって。ただ何より、子どもたちを案じてノートを遺したのだと思います。闘病記には、自分が亡くなった後の家族が心配でたまらないと書いてありましたから。最後の1か月も『台所は自分の居場所』と言って、立てなくなるギリギリまで料理を作っていました」
レシピは三色丼のほか、手まりシューマイ、タコライスなど全部で10品ほど。どれも家族がおいしいと言ったメニューばかりだった。また、ノートには「お父さんには納豆のカラシを付けて」など、家族ならではのアドバイスもちりばめられていた。
伊鈴さんの思いが詰まったレシピノートは、優華さんと健渡くんに受け継がれ、伊鈴さんが亡くなったのちに何度も作り、食卓に並べている。
「優華は自分で料理を作るようになってから、もっとお母さんの手伝いをしておけばよかったと言って、母の大変さが身にしみているようです。でもレシピノートがあるから母の味がいつでも再現できてうれしいと。市販のレシピには当たり外れがあるけれど、母のレシピはどれも家族が好きな料理で全部おいしいと言っています。私も、家族3人で妻の味を食べられるのは本当にありがたいなと思っています。手書きの文字を見ると泣けてきますが……」
コロナのパンデミックを経験した今、最後の時間を自宅で過ごす選択をする人は増えつつある。肉体的、精神的に家族の負担が増えることは確かだが、最期まで一緒にいたいと願う患者と家族にとって、自宅での時間は何ものにも代えがたいと浩徳さん。
「僕らはそうせざるを得ない状況で在宅医療を選択しましたが、本人と家族が最期を自宅で迎えたいと思うなら、家での看取りという選択肢も視野に入れていいと思います。在宅医療といわれてもよくわからないし、不安を感じるという方は多いと思いますが、医師や看護師さんがしっかりサポートしてくれます。日に日に弱っていく姿を見るのはつらいことですが、最期まで顔を見ながら話をして、一緒に過ごせたことは何にも代えがたいことでした」
伊鈴さんが遺した家族への感謝の言葉とレシピノートは、今も家族の心を照らし続けている。
『家族のレシピ』(幻冬舎)
長野放送のニュース番組『NBS みんなの信州』で大反響を呼んだ、三嶋家の自宅での看取りに密着したドキュメンタリーを書籍化。「余命わずか」を宣告された三嶋伊鈴さんが家族のために遺した、一冊のレシピノートに込めた思いに迫る。
取材・文/井上真規子