「最初は沢田研二さんのようなアイドル歌手になりたいと思って、山口県の下関から東京に出てきたんです」
と振り返るのは“北島三郎ファミリーの若頭”と呼ばれる山本譲二。今年でデビュー50周年を迎える。
“オヤジ”の「魂の濃さ」
「上京して、ちり紙交換やガードマンなどの仕事をやったけど貧乏で、家の水道や電気を止められたこともありました。バイト先のクラブに作曲家の浜圭介先生が偶然やって来て、僕の顔を見て、歌を聴いてくれて、歌手になる気はないかと声をかけてくださったことでデビューできました。24歳のときです」
ただし、まったく売れず、事務所で電話番をする毎日を過ごす。ひと目惚れした女性と同棲を始めて、このままではいけないと一念発起する。
「あの人に会いに行こうって。それが北島のオヤジです。公演先の楽屋は入れてもらえないから、外で待って。それを続けて10日目ぐらいに“何かスポーツやってたか?”と聞かれたので“野球やってました、甲子園に出たことあります!”と答えたら、ちょっと来いって。実家に電話をするように言われて“俺のもとでいいなら、下から上がってこい”と言われて、そのまま50年(笑)」
山本にとって、北島は“第二の親父”という存在だ。
「いちばん感じたのは、オヤジの演歌にかける情熱。俺は18歳で夜汽車に乗って東京に出てきたとき、すぐ歌手になって、売れて、なんて甘く考えていた。オヤジの歌にかける魂の濃さを見て、熱いもん持ってないと売れないと気づかされた。オヤジに自分の24時間を捧げる気持ちでついて回りました」
売れてバレた“偽装”
プライベートで競馬場にお供をすることもあり、少しずつ認められてきたと感じた。
「とにかくオヤジはカッコよかった。オヤジの横にいるだけで気分がよかったんです。だから同棲していた女性に“俺は売れないから、オヤジの一番の使い走りになる”と言ったら叱られました。“なに弱気なこと言ってんの! 譲二は絶対に売れるんだから、簡単に夢を手放さないでよ”と言われて、ハッと気がついた。そうだ、俺はちゃんとした歌手にならなきゃいけないんだ、そのためにオヤジに一生懸命ついてるんだ、と」
鳴かず飛ばずの日々は続いたが'80年に運命の曲と出合う。それが『みちのくひとり旅』。
「初めて聴いたとき、ゾクゾクッとしました。この曲を誰にもあげないでほしいと、音楽ディレクターと作曲家に土下座して頼みました。発売から10か月ぐらいで有線放送で1位になり、フジテレビ系の『夜のヒットスタジオ』で歌って、その日から世界が変わりました。放送の翌日、福岡でキャンペーンがあって、誰かが俺の顔を見て“キャー”と叫んだら、そこにいる全員がキャー。俺にですか? みたいな感じ。それが、みかん箱のステージで歌った最後」
『ザ・ベストテン』(TBS系)には24週連続で出演し、寺尾聰の『ルビーの指環』に次ぐ年間2位の大ヒットに。
売れたことで、ちょっとした“偽装”がバレてしまった。
「3つサバを読んで、28歳にしていたんです。そうしたら公開番組で“本当に高校1年生のときに甲子園出たんですか?”と聞かれちゃって。“年齢は嘘で、本当は巳年じゃなくて寅年です”って白状するしかなかった(笑)。そこで31歳に戻しました」
木梨憲武とのコラボも
当時人気の田原俊彦や近藤真彦といったアイドルたちと、年齢は離れていたが、仲よくしていた。彼らの派手なパフォーマンスに比べて演歌は地味だったせいか、山本に“ふんどし一丁で歌ってほしい”という歌番組からのオファーが……。
「抵抗ありました。オヤジは、歌い手は肌を見せるもんじゃないと言っていましたし。プロデューサーに“北島に言われてますから、できません”と言ったのですが、どうしてもとお願いされて。それでオヤジに聞いてみたら“照れるな、堂々と歌え”と。“おまえが照れると、見ている人が照れる。だから堂々とおまえらしく歌え”と言われて、踏ん切りがつきました」
『ザ・ベストテン』の回想映像では、今も名場面として紹介される。
14回出場したNHK紅白歌合戦でも、型破りなステージがあった。木梨憲武と演歌デュオ『憲三郎&ジョージ山本』を組んで『浪漫―ROMAN―』を歌った'96年だ。
「いちばん楽しめた紅白でした。憲ちゃんが“俺たち新人歌手だから、土下座しながら出ようぜ”って。土下座でステージの床下から電動で上がって、立ち上がると横にオヤジに扮した憲ちゃんがいて。演歌だからってしかめっ面で歌わなきゃいけないわけじゃない。笑顔で楽しく歌ってもいいんだって、憲ちゃんが教えてくれたんです」
『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』(日本テレビ系)に山本が出演したことで生まれたデュオで、北島が作詞作曲を担当。紅白という舞台で、木梨が北島のマネをして歌うという悪ノリだった。
「俺が恐る恐るオヤジに“憲ちゃんが紅白でオヤジのメイクをしたいそうです”と伝えたら“憲にな、思いっきりやれって言っとけ”って。パンチパーマのカツラに鼻の穴を黒く塗って歌った。オヤジも笑ってましたよ。あの年の紅白は、ほんと楽しかった」
この曲は紅白同日のTBS系『日本レコード大賞』で企画賞を受賞した。
74歳になった山本は、今も演歌の枠を超えていく。'23年からスタートした“山本譲二メタル化計画”だ。
「俺は“ヘビーメタルって何?”という感じで、マネージャーがTシャツ作りたいというから、カッコいいのを頼むなと伝えたら、俺の顔がゾンビになってた(笑)」
福山雅治がラジオでホメると、大きな話題に。
「じゃあ、遊び心を貫いてCDも作るかって。50周年だからね。けっこう本気になってやったということがメタル好きな人にも伝われば」
曲のタイトルは『言論の自由』。作詞作曲は盟友の吉幾三。年配男性の自虐と硬派な社会批判が炸裂するハードな曲だ。
「この曲はボーナストラックで、50周年記念曲第1弾は『妻よ…ありがとう』。ホントにいい曲ですよ」
妻というのは、売れる前から同棲していた女性のこと。山本が病魔に襲われたときも、懸命に支えてくれた。
「直腸がんになったときは申し訳ないと思った。案外、簡単に逝くかもと思ったけど、なんとか生かされて今がある。飯は食えず、点滴ばっかりだったけど、もうちょっと生かしてくれねえかな、もう少し生きたい、そう思いました」
山本は腫瘍で右耳の聴力を失っており、満身創痍。それでも歌いたいという気持ちを失っていないのは、妻のおかげだと思っている。
「この世界は夫婦で成り立っていると俺は思うんですよ。妻のために俺は頑張ってきたんだけど、妻のことを忘れていた時期もあるよなって。それでも妻は俺の傘になってくれて、小さな明かりを灯してくれて、一緒に歩いてきたんだよね」
メタルで爆発しながら、妻への感謝を忘れない。
山本譲二はやっぱりカッコいい男なのだ!